第14話 巻き添え
「また少し熱っぽくなってきたな……」
スケッチの道具を用意しながら額に右手を当てる。思わずやってしまった行動に「自分の手で触ってもわかるはずがないか」と苦笑してしまった。
十日前、ノアール殿下の執務室で大好きな濃いミルクの香りを嗅いで以来、体の奥が熱っぽい気はしていた。発情以来そういった微熱のようなものを感じていたから、てっきりそれが続いているのだとばかり思っていた。
だが、何となく微熱だけじゃないような気がする。体の奥が熱っぽいのは同じだったが、やけに鼻が敏感になったような気がしてならない。とくにお茶の時間に出される焼き菓子が気になって、殿下の前だというのに思わず鼻を鳴らしてしまいそうになるくらいだ。
「そんなに焼き菓子が好きってわけでもないんだけどなぁ」
それなのに、やけに芳醇なバターの香りが気になった。いや、バターというより濃厚なミルクの香りのほうかもしれない。
そんなふうに気にしているからか、最近では自分の体からも濃いミルクを使った焼き菓子の香りがしているような気がしている。毎日きちんと湯を使っているというのにおかしな話だ。
「やれやれ。僕の体は一体どうしたというんだ」
一人前のΩになってからというもの、何かが少しずつ変わってきているような気がしてならない。いいことなのだろうが、自分の体がどうなっているのかわからないのは少し不安だった。
「まぁ、スケッチをしていれば忘れるか」
体調管理のためにもスケッチは欠かせない。それに、殿下の執務室に通うためにもやめるわけにはいかなかった。
「これだけ殿下と濃厚接触しているんだから、そろそろつぎの発情が来てもいい気がするんだけどなぁ」
それに「今度こそ」という気持ちもあった。つぎに閨を共にするときこそ、子ができてほしい。わからないことが多すぎて不安はあるが、それ以上に子がほしいという気持ちのほうが強かった。
僕がビジュオール王国に来てから、すでに半年以上が経っている。このまま子ができなければ、期限切れでアールエッティ王国に帰らなくてはいけない。具体的な期限はわからないが、子ができない男のΩをいつまでも後宮に留めておくことはしないはずだ。
「いくらΩとはいえ、男の体じゃあな……」
そういう嗜好があるのなら別だろうが、ノアール殿下に関してそういう噂は耳にしたことがない。後宮にいる姫君たちから漏れ聞こえる話からしても間違いないだろう。ヴィオレッティ殿下は男女どちらでもいいというようなことを言っていたけれど、いまさらあの殿下に嫁ぎたい気持ちにはならなかった。
つまり、僕の状況はより一層崖っぷちということだ。
「このままじゃあ、本当に役立たずの男Ωになってしまう」
そうなる前に子を孕まなければ。もしくは、ヴィオレッティ殿下以外の従兄弟たちの中から新たな嫁ぎ先を見つけるでもかまわない。
(……いや、それは最後の手段だ)
わかっているのに、どうしてもそういう気になれないままでいる。
そんなことをつらつら考えながら後宮を出て、いつもどおり殿下の執務室へと向かった。多少足取りが重くなるのは仕方がないが、執務室に入る前に表情くらいはいつもどおりにしなければ。
「でないと、殿下に心配をかけてしまうだろうからな」
役立たずのうえに迷惑をかけるわけにはいかない。それに最後まで諦めないのも僕のいいところだ。
過去に何度か絵について悩んだり、いっそ絵筆を折ろうかと思ったこともあった。しかし、諦めずに努力してきたおかげでいまの自分があると信じている。努力を続ければどうにかなることもあるのだ。そのためにも殿下との接触をやめるわけにはいかない。
「そうだ、まだ諦めるわけにはいかない」
改めてそう決意したところで、ベインブルの扉近くに見慣れない人たちがいることに気がついた。三人とも豪華な服を着ているということは、侍従や官僚ではなく貴族に違いない。
(……もしかして、殿下の従兄弟たちか?)
よく見れば、ただの貴族にしては格好が派手すぎる。年齢的にもノアール殿下と同じくらいか、せいぜい数歳違いの見た目にそう直感した。
これまでヴィオレッティ殿下とルジャン殿下にしか会ったことがなかったが、これはよい機会かもしれない。ここで従兄弟たちがどういう人物か少しでもわかれば、新たな嫁ぎ先候補になるかもしれないのだ。
胸がちくちく痛むのを無視してベインブルへと近づいた。従兄弟ならαの可能性が高いだろうと少し距離を取り、胸に右手を当てながら頭を下げる。すると「噂の男Ωか」という言葉が耳に入ってきた。
(僕のことをあまりよく思っていないのか)
それでは新たな嫁ぎ先候補にはならないだろうが、すでに挨拶を始めた手前、無言で立ち去るのはよくない。
「アールエッティ王国の第一王子、ランシュと申します」
「知っている」
おおっと、えらく尊大な返事だな。これはあまり関わらないほうがいい相手かもしれない。本当はベインブルの手前にある執務室に行く予定なのだが、ここで王太子の執務室に入ってはますますよく思われないだろう。
(嫌われても別にかまわないけど、この先どうなるかわからないからな)
ノアール殿下の妃になることができれば、従兄弟たちとのつき合いも必要になるだろう。殿下以外の誰かに嫁ぐにしても、ここで嫌な印象を抱かれないほうがいい。
ということは、ベインブルに入るのが一番いいか……そう思案していると、「そういえば」と声をかけられた。
「ノアール殿下に、この宝物庫への出入りを許されているとか」
「はい。ベイ……宝物庫には優れた芸術品が数多くあり……ますので、大変有意義な時間を過ごさせていただいています」
危なかった。また長々と話し始めるところだった。
おそらく目の前の人たちは芸術に興味がないに違いない。僕への若干の侮蔑以外にも、宝物庫を軽んじているような表情からそう判断した。そういう相手に芸術について語れば、確実によくない感情を抱かせてしまう。
「噂には聞いていたが、王族なのに芸術品に夢中とはな」
「夢中なのは問題ないだろう?」
「そうだな。問題なのは自ら絵を描いていることだ」
「たしかに。第一王子らしいが、小国では王子も絵を描かなくてはいけないとはなぁ」
「そんな王子が、我がビジュオール王国の王太子妃に立候補とは、恐れ入る」
よく思っていないどころではなかった。後宮の姫君たちにも困ることはあるが、王子たちが相手となるとさらに面倒なことになる。
ノアール殿下の従兄弟たちかはわからないが、口調から察するに王族の一員であることは間違いないだろう。さらに、王族としての自尊心が高いらしいこともわかった。そういう人物は、自分の考えや感覚を否定されるのを何より嫌う。肖像画を描くときに大国の王族と接することが何度もあったが、そのたびに実感してきたことだ。
(さて、どうするべきか……)
姫君たちは、ある程度嫌味を聞けば満足してくれる。だが、王族男子ともなるとどうか……。
「ふん、Ωらしい匂いがしないな。噛んでいないと聞いたが、本当なのか?」
「……っ」
考え事に耽っていたせいで、近づかれたことに気がつかなかった。ずいっと近づいた顔に驚き、クンと匂われたことに不快さを感じる。しかし、それを顔に出すわけにはいかない。
僕は画材を持つ手にグッと力を込め、胸を悪くするような不快感を何とかやり過ごした。
「そもそも男のΩなんて本当に存在するのか? それに男なのにΩなんてなぁ」
顔を離した男性がそんなことを口にした。……なるほど、僕という存在以前に男のΩを快く思っていないのか。これは少し面倒なことになった。穏便に立ち去ろうにも、そうはさせてもらえないかもしれない。
「嘘をついている可能性もあるということか?」
「もし本当なら、もっと以前から噂話くらいは聞こえてもいいだろう? それに男のΩが存在するなんて、これまでも聞いたことがない」
「いや、例の王妃がいたじゃないか」
「記録に書かれているだけで真実はわからないものだ」
「たしかにな。男が子を生むなんて、そんな馬鹿な話があるものか」
「我が一族から嫁いだ妃を遠ざける目的だったのかもしれないしな」
「なるほど、その可能性は捨てきれないな。例の王妃が生んだ子が国王になったのも、その辺りが理由なら納得できる」
「そもそも男の王妃が本当に生んだのかどうかわからないだろうが」
「おい、さすがにそれ以上は不敬に当たるぞ」
「そのとおりですよ」
背後から聞こえてきた声に三人が口を閉ざした。振り返るとルジャン殿下が立っている。
「曾祖母への暴言を聞いては、素通りはできませんね」
ルジャン殿下の言葉に三人の顔がわずかに歪んだ。それは聞かれたことを悔やむというより、余計な人物が現れたと苦々しく思っているような表情にも見える。
(どういうことだ?)
三人が王族でありノアール殿下の従兄弟だとしたら、ルジャン殿下の従兄弟にも当たるはず。それなのに、ルジャン殿下に向けられた三人の視線は僕へのものに近い感じがした。
「由緒正しい直系王族の血を引くルジャン殿らしい言葉だな」
「おい」
「血筋は立派かもしれないが、αとしては残念なくせに偉そうに」
「やめろって」
三人のうちの二人が物騒な言葉を吐き、もう一人がそれを止めようと二人の腕を引いている。そんな言葉にも動揺することなく、ルジャン殿下が「その言葉、我が父の前でも言えますか?」と口にした。
「……っ。偉そうに、結局父親の威を借る狐じゃないか」
「やめろって。ほら、もう行くぞ」
三人が足音も荒く廊下を去って行った。残されたのは、状況がよくわからずやや呆然としている僕と、表情一つ変わらないルジャン殿下の二人だ。
声をかけてもいいのか迷うところだが、無言で立ち去るわけにもいかない。結果的には助けられたようなものだから、せめて謝意くらいは伝えたい。
「あの……」
「ありがとうございました」と告げる前に、ルジャン殿下が口を開いた。
「王宮に出入りする者があのような不作法とは、お恥ずかしい限りです。それに不快な思いをされたのではありませんか?」
「いえ、それはまぁ、大丈夫ですが……」
多少驚きはしたものの、どの国にもああいう王族はいるものだ。
「……先ほどの三人は従兄弟殿では……?」
気になったことを訊ねると、ルジャン殿下が小さく笑った。
「又従兄弟が二人に、貴族の子息が一人。最後までわめいていたのは、母の弟の息子です。たしかに従兄弟ではありますが、気にする必要はありませんよ」
やはり王族に連なる一員だったのか。それにしては物騒な言葉を口にしていた。王弟の子息であるルジャン殿下にあのような言葉を吐くとは、恐れ知らずなのか無知なのか……。
(それに、αとしては残念、といったことを言っていなかったか……?)
αのこと以前にΩのことすら理解し切れていない僕には、彼らが何を言わんとしていたのか想像もできない。ただ、ルジャン殿下を貶める言葉だということは理解できた。
(大国では身内同士であっても大変なのだな)
ふと、陽気で残念な従兄殿の顔を思い出した。滅多に顔を合わせることがない従兄殿だが、妹をからかうことはあっても蔑むような態度は一度も取られたことがない。アールエッティ王国よりずっと大きな国の王子だというのに、それを鼻に掛けることもなかった。
(まぁ、支払いには少々難があったが……)
そのせいで一気に国が財政破綻に向かったことを思い出すと、今度会ったときに直接文句の一つでも言ってやりたい気持ちにはなる。しかし、ルジャン殿下と先ほどの従兄弟たちとの間には、そんなことができそうな雰囲気は一切感じられなかった。
「……これは……」
やや近くから聞こえたルジャン殿下の声にハッとした。またもや考え事に耽っていたせいで、ルジャン殿下が近づいていたことに気づかなかった。思いのほか近くにあった顔に肩が震えてしまう。
「あの、殿下、」
あからさまに後ずさりするのは失礼だ。しかし、αであるルジャン殿下に近づかれるのはよくない。ほんの少し身を引いたが、殿下の顔がさらに近づいてきて首筋に鳥肌が立つのがわかった。
「殿下、あまり近づかれては、」
「……この香りは……」
数歩後ずさったところで、つぶやかれた内容が気になってルジャン殿下の顔を見た。「香り」というのは、僕のΩの香りのことだろうか。
(いや、先ほどの三人からΩの香りがしないと言われたばかりだ)
となると、僕自身の香りではなく……もしかして、焼き菓子の匂いのことか?
(もしそうだとしたら、さすがに恥ずかしすぎる)
これが子どもならかわいらしいと思うが、体から匂いがするほど焼き菓子を食べていると思われるのは、二十四歳の大人としては微妙だ。
「もしかして、焼き菓子の匂いでしょうか」
「焼き菓子……?」
「いえ、最近なぜか自分の体から焼き菓子の匂いがするような気がしていまして。匂いがするほど食べてはいないんですが」
あははと笑いながらそう答えると、なぜかルジャン殿下の瞳が鋭くなった。
「焼き菓子の香り、ですか」
顔が遠のいたのにはホッとしたが、今度は細くなった黒い瞳に見つめられ、背筋がゾクッとした。
「あなたは、αの香りがわからないと聞きましたが」
おっと、そんな話まで広まっているのか。後宮の姫君たちが流したのか、別のところから広がったのか……。
僕からΩらしい香りがしないことは知れ渡っているようだが、姫君たちの前でαの香りがわからないと話したことは一度もない。
(ということは、執務室か)
ノアール殿下とはαやΩの香りについて話すことがたびたびあった。殿下の執務室で話すこともあるから、そこから「男Ωはαの香りがわからないらしい」とでも漏れたのだろう。漏らしたのが侍従か官僚かはわからないが、後宮絡みの情報は得てして広がりやすいものだ。
「あー……その、どうもΩとして未熟なのか、鼻がよくないのか、感じ取りにくいようでして」
ここではっきりわからないと認めてしまえば、僕が出来損ないのΩだと知られることになる。ノアール殿下は気にしないと話していたが、ほかのα王族がそうだとは限らない。であれば、ルジャン殿下にも隠しておいたほうがいい。
「αの香りがわからないのに、この香りは感じると……?」
「ええと、焼き菓子の匂いですか? 濃厚なミルクとバターの香りは、感じますが……」
「……では、花の蜜のような香りは感じませんか?」
「花の蜜、ですか……?」
花の蜜といえば蜂蜜だろうが、香りを感じるのは紅茶に入れるときくらいだ。姫君たちが好む石鹸の中には花の蜜の香りがするものもあると聞くけれど、僕自身は使ったことがない。
「いえ、とくには……」
「感じません」と最後まで言うことはできなかった。なぜならルジャン殿下の目がスッと細くなり、見据えるような雰囲気に変わったからだ。
「αの香りがわからないと言いながら、ノアール殿下の香りは感じる。それなのに、わたしの香りはわからないんですか……」
ノアール殿下の香りとは、どういうことだろう。それに、ルジャン殿下の香りとは……?
そう思ったが問いかけることはできなかった。見据える殿下の黒目に気圧され、口を開くことができなくなる。
「男のΩは不出来に違いないともっぱらの噂です。あれだけマーキングしても気づかない様子に、なるほど噂どおりなのだと思っていました。しかし、実際は違った。ノアール殿下の香りには気づくのに、わたしの香りには気づかない。これではまるで……まるで、わたしが不出来なαだと言われているようじゃないですか」
ビクンと跳ねるように背筋が震えた。急に体の周りが圧迫されるように感じ、動けなくなる。まるで見えない何かに体を締めつけられているような感覚で、今度こそ全身がブルッと震えた。画材を持っていた手から力が抜け、床にバラバラと散らばる音が響く。
「あなたまでもがわたしを見下そうというんですか。不出来なΩのあなたが、ビジュオールの直系αにもっとも近い血を引くわたしを、不出来だと言うんですか」
「……ち、が……っ」
そんなことを思ったことは一度もない。そんなことを思うほど親しくもない。慌てて否定しようと口を開いたが、なぜかうまく声が出なかった。
そもそも、何をそんなに怒っているのかわからない。しかしルジャン殿下は間違いなく怒っている。何に対してかはわからないが、僕の不用意な言葉が気分を害したに違いない。
だとしたら早く謝罪しなければ……。そう思っているのに口どころか体さえも動かず、ただ突っ立っていることしかできなかった。
「みんな同じですね。あの又従兄弟たちも、王族の血すら引いていない従兄弟も、αとして能力が低いわたしを見下しています。弟たちもそうです。努力しなければ王族としての役割すら果たせないわたしを蔑んでいる。父の跡を継ぐのはわたしではなく自分たちだと、あからさまに口にする。直系に近いαだというだけで、誰も彼もが蠅のようにうるさい」
ルジャン殿下の顔が完全な怒りの表情に変わった。いや、怒りだけではない。苦悶の色も見え隠れする。
(もしや……劣等感か……?)
震えながらも、見え隠れする殿下の表情が気になった。
ルジャン殿下が先ほどの三人より劣っているようには思えないが、α同士には何かしらの優劣があるのかもしれない。だとしたら、普通の人たちよりも苛烈な争いが起きるだろうことは想像に難くなかった。
ただでさえ優れたα同士なのだから、比較して自分の劣る部分をより強く感じることがあるのだろう。そういった気持ちを、僕の何かしらの言葉が刺激してしまったのだ。
(それなら、なおのこと早く謝罪しなければ)
そう思っているのに、どうしても声が出なかった。頭を下げることすらできない。そのうえ体を締め上げる何かはますます強くなり、息苦しささえ感じる。
このままでは息ができなくなると思い手足を何とか動かそうとしたものの、指先をほんのわずか動かすことしかできなかった。
「足掻いても無駄ですよ。Ωはαの威嚇からは決して逃れられません。不出来なわたしでも、Ωを威嚇することくらいはできますからね」
(まさか、これも威嚇なのか……?)
威嚇という言葉に「まずい」と冷や汗が出た。威嚇がどんなものかはヴィオレッティ殿下のときに嫌というほど痛感した。あのときとは違って首飾りを付けてはいるが、それで身を守れるのか僕にはわからない。
もし首飾りを奪われ、さらに首を噛まれたら……そう考えるだけでゾッとした。体が小刻みに震えだしたのは、そうなったときのことを想像してしまったからだ。
(首を噛まれたΩは、噛んだαと婚姻したことになる。……それじゃあ、ノアール殿下とは婚姻できなくなる)
もしルジャン殿下に噛まれれば、死ぬまでルジャン殿下の所有物になるということだ。ルジャン殿下と閨を共にし、ルジャン殿下の子を生むことになるかもしれない。もしかしたら、ほかのαには近づくことすらできなくなるかもしれない。
ということは、僕は二度とノアール殿下のそばに近づけなくなるということだ。いままでのように、絵の話をしたりベインブルを一緒に見て回ることもできなくなる。芸術談義に花を咲かせることも、殿下から絵の感想を直接もらうこともできなくなってしまう。
(そんなこと……そんなの、絶対に嫌だ!)
突きつけられた未来に恐怖した僕は、必死に体をよじった。何とかルジャン殿下から逃れようと必死に手足を動かす。しかし締め上げている何かは緩むことがなく、今度は首までも締め上げられてしまった。
「無駄ですよ。αの威嚇から逃げられるΩはいないと言ったでしょう?」
「……っ」
微笑んでいるルジャン殿下の顔が耳へと近づく。吐息が耳に触れるだけでゾワッとし、不快感に体がブルッと震えた。
「わたしはノアール殿下が嫌いなんです。昔から何でもできて、同年代のαの中でも随一の優秀さを誇っていました。何をやらせても完璧で、しかもすまし顔でやってのける。剣の稽古も遠駆けも失敗すればいいのにと、怪我をしてしまえばいいのにと何度願ったかわかりません」
まるで愛を語るような雰囲気で、とんでもないことを囁き始めた。
「同じ直系の血を引くαとして、生まれたときからずっと比べられてきました。……そう、比べられるのが苦痛で仕方なかった。そう思っている王族αは何人もいます。だから、ノアールに一泡吹かせようと王太子の後宮を襲わせたりもしました。まぁ、ヴィオレッティに邪魔をされて失敗に終わってしまいましたが」
ノアール殿下が話していた醜聞は、ノアール殿下を快く思っていないルジャン殿下たちの仕業だったのか。もしそれが本当だとしたら、不敬罪どころでは済まなくなる。
それなのに、ルジャン殿下は大したことではないような口調で囁いている。まるで他人事のような口振りに背筋がゾッとした。
「けれど、今度は失敗しませんよ。こうして捕まえることができたのですから、あとは首を噛めばいいだけの話」
「……っ」
「だから、逃げられないと言っているでしょう。どんなに努力しても報われないことが世の中には溢れているのですよ」
「……っ、っ」
必死に頭を振ったが、はたして本当に動かせたのかわからない。自分のことすらわからなくなるくらい混乱し、恐怖を感じていた。誰かをこんなに怖いと思ったのは初めてで、男として、一国の王子として情けないと思うことすらできなかった。
そんな僕の様子に耳元で笑ったルジャン殿下の指が、そっと首飾りの上を撫でた。たったそれだけで、身動きできないはずの僕の体がビクッと震える。
「わたしはノアールが嫌いです。いつか一泡吹かせてやろうと考えていました。そう……ノアールが唯一と思うものを奪ってやろうと、ずっと考えていたのです」
ルジャン殿下の声とともに、首飾りの留め具に指がかかるのを感じた。恐怖に震えながらも、そう簡単に外れるはずがないと祈るように願う。
「Ωを守る首飾りの留め具を外すことなど、αには簡単なんですよ。とくに王族は、閨教育でいろいろ学ばされますからね。……ほら、外れた」
「……っ」
湯を使うときでさえ付けたままだった首に、自分以外の指が触れている。体を震わせた僕の耳に、絨毯と留め具がぶつかる柔らかくも小さな音が聞こえた。
「ノアールにとって、あなたは初めて唯一と呼べるΩです。それをわたしが奪う……なんて甘美なんでしょうね」
ルジャン殿下のクスクスという笑い声が聞こえた瞬間、体の奥から熱がぶわっと広がるのを感じた。これまで感じていた微熱とは明らかに違う熱さに目眩がする。ドクドクと早まる鼓動を感じ、「まさか……」と驚愕した。
(この感じは、まさか発情か……?)
脳裏に“発情”という言葉が浮かぶのと同時に、熱ではない何かがぶわりと吹き出したような気がした。抗えない熱に体を支配されながら、僕は生まれて初めて絶望という感情を抱いた。
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