第13話 αのプライド

「おいおい、露骨にそんな嫌そうな顔をしなくてもいいだろう?」


 前方から歩いて来るヴィオレッティ殿下の姿に気づいた僕は、思わず眉を寄せてしまっていたらしい。内心では「自分の行動を顧みてから言え」と思っていたが、面と向かってそんなことを言うわけにもいかない。

 僕は曖昧な微笑みを浮かべながらスケッチブックと木炭箱をしっかり握りしめた。それから頭を下げ、さっさと通り過ぎようと足を踏み出す。


「ちょっと待て」

「……なんでしょうか」


 呼び止められては通り過ぎるわけにもいかない。渋々といった態度……はさすがに失礼だろうから、きちんと正面を向いて背筋を伸ばした。


「まったく、男のΩは本当におもしろいな……。っと、違う違う、そういうことを言いたくて呼び止めたわけじゃない」


 おどけたような表情を浮かべていたヴィオレッティ殿下は、ほんの少し僕に近づいてから「やっぱりな」と口にした。


「なんでしょうか」

「だから、そう睨むな。ただの親切心で呼び止めたんだ」

「……親切心、ですか」


 これまでの行動を思い返すと信じることは難しい。だが、前回のようによからぬことをしようとしているふうには見えない。それにここは廊下だから何かすれば誰かに見咎められるだろうし、さすがにそんな危険は冒さないだろう。

 それでも念のためと少し距離を取りながら、しっかりとヴィオレッティ殿下の顔を見た。


「画材を持っているということは、これからノアールの執務室に行くんだろう?」

「そうですけど」

「……俺が言うよりも、ノアールにしっかり教えてもらったほうがいいか」

「何をです?」


 僕の言葉に、殿下が思い切り呆れたような表情を浮かべた。


「おいおい、本当に何もわかっていないんだな。たしかに男のΩは珍しいが、それにしてもあまりに知識がなさすぎじゃないか? それとも男だから気にしていないってことか? それじゃあこの先大変なことになるぞ?」

「……だから、何がですか」


 なぜか大きなため息をついたヴィオレッティ殿下が、「ノアールは一体どうしたいんだ」と言いながら改めて僕を見下ろした。


「きみからはαの匂いがする。あぁ、言っておくが俺の匂いじゃないからな? それに、その匂い方はマーキングに近い。つまり意図的に匂いを付けられているということだ」

「マーキング……?」


 それは動物が行う行動の一種だったはず。いや、珍獣のようなαとΩなら、そういう行動があってもおかしくはないか。


「そんな匂いをつけたままノアールに会うなんて、きみは怖いもの知らずだな」

「……意味がよくわかりません」

「だろうな。でなければ、そのままで会おうなんて思うはずがない。ま、ノアールにしっかり教えてもらえばいいさ」


 ニヤリと笑った殿下は「この際だ、手取り足取り教えてもらえ」と言って背中を向けた。派手な紫色のリボンを揺らしながら去って行く後ろ姿を見つつ、言われたことを頭の中で反芻する。しかし、匂い云々に心当たりはまったくなかった。


「……そういえば、αとΩは互いの香りで相性がわかるんだったか」


 ようやく発情した僕だったが、いまだにαの香りというものはわからないままだ。ヴィオレッティ殿下と話をしたいまも、それらしい香りには気づかなかった。


「というか、マーキングとは何のことだ……?」


 さっぱりわからない。僕は頭をひねりながらも、スケッチをするためにノアール殿下の執務室へと向かうことにした。


 執務室に到着すると、室内を整えていた侍従が扉を開けてくれた。どうやらノアール殿下はまだ来ていないらしい。


「そうだ、スケッチの前に首飾りのデザインを確認しておくか」


 スケッチブックと一緒に持ってきたデザイン画をテーブルに広げる。首飾りの布地が真紅や紺碧、深緑といった色に染められることがわかり、デザインの幅が大きく広がってきた。装飾も二、三個なら付けられそうだと聞き、どういったものが適当か職人に当たってもらっている。

 問題はやはり留め具だったが、こちらも試作品が一つ上がってきた。そのままというわけにはいかないだろうが、試作品のような形なら小さなビジューを付けることもできそうだ。カラーストーンなら加工もそう難しくないし大きさの調整もできるから、その辺りを付けられないか相談しようと思っている。


「早かったな」

「おはようございます、殿下」


 デザイン画を見ながらあれこれ考えていたら、扉が開いて殿下が現れた。席を立ち、右手を胸に当てて腰を折りながら朝の挨拶をする。そうして頭を上げてから、まずは首飾りのデザインの話をしようと口を開きかけたところで動きを止めてしまった。


「殿下?」


 なぜか殿下の表情が険しくなっている。まだ挨拶しかしていない状態で殿下を不快にさせることをしたとは思えない。どういうことだろうかと首を傾げていると、「その香りは……」という声が聞こえてきた。


(香り……もしかして、ヴィオレッティ殿下が言っていたことか?)


 ということは、僕から何かしらの香りがしているという話は本当だったのか。僕は香水を一切使わないからその手の香りでないことはわかっている。ということは……。


(αの……マーキングだったか)


 本当にそんな香りがしているのかどうか、残念ながら僕にはわからないし香りを消す方法もわからない。どう答えればいいのかわからず、ただじっと殿下を見ることしかできなかった。


「最近、ルジャンに会ったか?」

「ルジャン殿下……ですか?」


 問われて、これまで三度遭遇し、三度とも銀製品をもらったことを思い出した。


「はい。最後にお目にかかったのは二日前ですが、そのときお好きだという銀製品を頂戴しました」

「銀製品……なるほど、それでか」

「殿下……?」


 やはりαに何か頂戴するのはよくなかったのだろうか。別に強引に手渡されたわけではないが、ルジャン殿下にニコッと微笑まれるとどうにも断りづらくて三度とも受け取ってしまった。

 一つは例の筆で、その四日後に会ったときには銀で花を編んだような耳飾りを、二日前には銀の編み模様に複数の宝石があしらわれた首飾りを頂戴した。

 いずれも目を引く繊細な作りのものばかりで、しばらく眺めたり触ったりはしたものの身につけて過ごしたことは一度もない。ノアール殿下の妃候補として、ほかのαにもらった装飾品をつけるのはさすがに憚られたからだ。

 しかし、いまの「なるほど、それでか」という言葉から、銀製品を頂戴したことと香りが関係しているように聞こえた。


(……あ)


 そうだ。銀の首飾りは、今朝一度身につけている。というのも、Ω用の首飾りに付けるカラーストーンについて、大きさや色合いなどを確かめるために身につけて鏡で確認したのだ。

 首飾りを持っていなかった僕は、ルジャン殿下に頂戴した首飾りしか装飾の見本がなかった。それで身につけたのだが、どうやらそれがまずかったらしい。しかし、まさかほんのわずか身につけただけで香りが移るほどとは思ってもみなかった。


「あの……香りというのは、もしやマーキングと呼ばれるものでしょうか?」

「マーキングを知っているのか?」

「いえ、僕にはわかりませんが、そんなことを言われたので……」


 誰に、とは言えなかった。まさかヴィオレッティ殿下とも接触したなんてことが知られれば、ノアール殿下の機嫌がさらに悪くなると思ったからだ。


「……ヴィオレッティか」


(言わなくてもすぐにわかるのか)


 さすが優秀な殿下だ。……いや、僕が知っている王族αはヴィオレッティ殿下とルジャン殿下しかいないから当然か。これは下手に隠さないほうがよさそうだ。


「はい。ここに来る前に、偶然すれ違いまして……申し訳ありません」

「いや、貴殿のせいではない。それに、ヴィオならもう余計なことはしないだろうから……。いや、ヴィオが言うとおりこのままではよくないこともわかっている」

「殿下?」


 何か考えているような様子の殿下を見ていたら、急に黒目がこちらを見てドキッとした。


「マーキングのことは……やはり知らないか」

「はい……申し訳ありません」

「いや、これも先に教えておかなかったわたしの落ち度だ」


 ため息をついた殿下に椅子に座るように促された。殿下も向かい側に座ったところで、侍従が素早く紅茶を用意してから部屋を出て行った。二人きりになった執務室は少し空気が重く、紅茶のよい香りを嗅ぎながらじっと殿下の言葉を待つ。


「以前、貴殿の香りが弱いと話したが、わたしの香りはわかるか?」

「殿下の香り、ですか?」


 一瞬、なんと答えるべきか迷った。「αの香りがわからない」と答えたら、出来損ないのΩとして妃候補から外されるのではと脳裏をよぎる。そうなると、今度こそ本当に新しい嫁ぎ先を探さなくてはいけなくなる。


(それは……やっぱり、少し嫌かな)


 そんなことを思った自分に驚いた。国のために大国の王族か大金持ちの富豪に嫁がなくてはいけないのに、何を考えているんだと叱咤したくなる。それに、このまま子ができなければどのみち殿下の後宮からは出ることになるのだ。


(そうだ、このままじゃあ妃にはなれないんだ)


 そう思うと、なぜか胸がちくちくと痛んだ。以前感じていた痛みより少し強くなっているような気がして、そう思った自分にうろたえた。

 そのせいで、思わず正直に「自分の香りもαの香りもわかりません」と答えてしまっていた。


「……なるほど。香りがわからないΩがいるとはな」


 殿下の言葉に胸がズキッとした。今度こそ切り捨てられるに違いない……そう思うと、なぜか目頭が少しだけ熱くなった。

 自分も王太子だったからわかる。子をなせない姫君は妃としては不合格だ。もし妃にした後でそのことがわかれば、地位は剥奪しないものの隅へ追いやることになるだろう。他国ではそういう妃たちがそれなりにいることも知っている。


(妃になれないよりも、なってから放置されるほうがよほどつらいに違いない)


 複数の妃がいなかったアールエッティ王国では考えられないことだが、想像はできる。そんな立場になりたくないなら、いま殿下のほうから切り捨てられるほうがいいのではないだろうか。

 せり上がってくる感情を押し殺すように小さく息を吐き、膝に置いた両手に力を入れて殿下を見た。

 ノアール殿下の妃になれなかったとしても、発情した僕には別の嫁ぎ先を探すことができる。年齢から考えると、早く見切りをつけてつぎを探したほうがいい。そもそも三十人近くの妃候補がいる後宮で勝ち残るなんて、無謀な挑戦だったのだ。

 わかっているのに、僕の中には「まだあと少し時間がほしい」という思いがあった。もう少し努力すればどうにかなるのでは、なんてことまで考えてしまう。絵と違って何を努力すればいいのかわからないのに、王太子妃候補という立場から離れたくないと思っているのだ。


(……僕は一体何を考えているんだ)


 愚かな自分にため息が漏れそうになる。国のためにも早く嫁がなければいけないのに、自分の気持ちを優先してどうするんだと呆れもした。

 そんな僕に、「わずかだが、貴殿からは甘い香りがする」という殿下の声が聞こえてきた。


「僕から、ですか……?」


 意外な言葉に驚いた。ヴィオレッティ殿下に襲われかけたとき、Ωの香りがしないと言われたばかりだ。あれから十日と少ししか経っていないが、何かが変わったということだろうか。


「……なるほど、それもわからないのか」

「申し訳ありません……」

「いや、責めているのではない。幼いときからαとして生きてきたわたしには、香りがわからない感覚がどういうものか察することができないだけだ」


(……もしかして、切り捨てられるわけじゃないのか……?)


 いまの言葉は、まるで僕を慮っているように聞こえた。「まだ可能性があるのかもしれない」なんて、未練がましい気持ちがわき上がってくる。

 いや、本当に王太子妃の一人になれるのなら、それが一番よいのだ。ノアール殿下の従兄弟たちに嫁ぐより確実に国のためになるし、そのために努力し続けることは間違っていないはず。


(どちらにしても、僕には期限があるようだしな)


 殿下の後宮を追い出される瞬間まで希望を捨てないでおこう。そう思いながら言葉の続きを待った。


「αとΩには、αやΩにしかわからない香りというものが存在する。香りを嗅ぐことで互いを認識し、婚姻を結ぶきっかけになることも多い」

「そのことは、何となく理解しています」


「……そうか」とつぶやいた殿下が、ひと口紅茶を飲んでから僕に視線を向けてきた。


「香りはαとΩにとって重要な要素だ。Ωは発情した際の香りでαを誘い、αは自分の香りをΩに付けることで周囲に自分のΩだと知らしめる」


(それじゃあ、まさしく動物のようだな……)


 これが率直な感想だが、香りを発することができずαの香りもわからない自分は、Ωとして不完全であることは十分理解できた。そしていまの僕には、ノアール殿下以外のαの香りがべったり付いているということだ。


(つまり、殿下の妃候補としては失格ということか)


「申し訳ありません」

「何の謝罪だ?」

「自分では気づきませんでしたが、僕に殿下以外のαの香りが付いているということなら……殿下の妃候補として、もってのほかだということは理解できました」


 そして、謝罪だけで済まないであろうこともわかった。Ωになって日が浅い僕には「香りくらいで」という感覚でも、優秀なαである殿下にしたら重要な問題に違いない。

 さらに言えば、自分の妃候補に別のαの香りがついているのは不快なはずだ。これでは身持ちの悪いΩだと罵られても仕方がない。


(あれだけ気をつけなければと思っていたのにな……)


 やはりΩとしての認識が甘いのだろう。知識も増えたし危険な目に遭いかけたこともあったが、そのくらいではΩとしての真の自覚は芽生えないということだ。


「貴殿の責任ではない。むしろ、わたしの至らなさが招いた結果だ」

「殿下……?」

「これでは、ヴィオに何を言われても仕方がないな……」


 殿下が「ハァ」と小さくため息をついた。殿下には僕がマーキングされた理由がわかっているということなのだろうか。


「念のため確認しておくが、発情のときもわたしの香りには気づかなかったんだな?」

「発情のとき、ですか?」

「三日三晩、ベッドを共にしたときのことだ」


 問われて、あのときのことを思い出そうとした。しかし、頭に浮かぶのはとんでもなく気持ちよかったという感覚ばかりで、香りがどうこうという記憶はまったくない。それどころか、したであろう行為そのものすらほとんど記憶になかった。


「あー……あの、大変申し上げにくいことなのですが……」

「かまわない」

「その……あのときは、ただ気持ちがよかったということしか覚えていなくて、ですね……」

「……覚えていないのか?」

「記憶がないと言いますか、おぼろげと言いますか……申し訳ありません」

「……いや、謝る必要はないが……そうか、覚えていないのか……」


 気のせいでなければ、殿下の顔が少し曇ったように見える。


「ということは、本当にまったく香りがわからないのだな」

「……重ね重ね申し訳ありません」


 不出来なことを指摘されるのは大人になってからもつらいものだ。殿下の言葉に悔しさや不甲斐なさといった感情が胸に渦巻く。

 不意に、貧弱な自分の体を見るたびに嫌な気持ちになっていた昔のことを思い出した。ぐぅっと胃が重くなるような気がして、膝の上に置いていた両手に力が入る。


「それでは、これならどうだ?」


 殿下の言葉に、緯線を上げて顔を見た。「どうだ?」というのはどういうことだろうと殿下を見つめていると、わずかに焼き菓子のような香りがしていることに気がついた。しかし目の前には紅茶しかなく、いつも出されている芳醇なバターとミルクの香りを漂わせる焼き菓子は見当たらない。


(ワゴン……にもないな。しかし、たしかに焼き菓子の匂いがする)


 思わずキョロキョロと周りを見渡した僕に、殿下が「何か香りを感じるか?」と尋ねてきた。


「香りといいますか、いつもいただく焼き菓子の匂いがするような気がします」

「……焼き菓子か」


 僕の返事に殿下の表情が和らいだ。「貴殿には焼き菓子に感じられるのか」と言いながら、なおも小さく笑っている。


「あの……?」

「では、これならどうだ?」

「……これは……とても芳醇なバターのような……いや、濃厚なミルク、かな……」


 ……そうだ、これは小さい頃から毎日飲んでいたミルクの香りに近い。

 なかなか体が大きくならなかった僕は、特製の濃いミルクを毎朝出してもらっていた。それは特別な牧場で育てている牛から搾る乳で、ビジュオール王国に来る当日の朝にも飲んだのを思い出す。


(あのミルクは本当に濃くて甘くて、一番のお気に入りだったな……)


 そんなことを思い出しながら鼻をクンと鳴らした。


(あれ……?)


 濃厚な香りを嗅いでいるうちに、体の奥がポッポッと熱くなってきた。頭も段々とぼんやりしてきて何を話していたのかわからなくなる。それでも僕の鼻は濃いミルクの香りを求めていて、みっともないくらいクンクンと音を鳴らしていた。


(こんな……不作法なことは……やめなければ……)


 頭ではわかっているのに体が言うことを聞いてくれない。それどころかますます香りを求めてしまい、椅子に座ったまま身を乗り出すように上半身をテーブルにせり出していた。そのままより強く香るほうに体を向け、クンクンと鼻を鳴らす。


「いい香りが……甘くて……濃くて……大好きな、香りだ……」


 自分が何をしていて、誰の前にいるのかさえわからなくなってきた。ただ大好きな濃いミルクの香りに包まれているのがうれしくて、もっとこの香りを嗅ぎたいと前のめりになる。


「わたしの香りは好きか?」

「……?」


 誰かの声が聞こえた気がした。ぼんやりしたまま顔を上げると、やたらと整った顔が僕を見下ろしている。それはこれまで描いてきたどんな肖像画の人物よりも優れた造形美をしていて、何より優しく微笑んでいる黒い瞳は吸い寄せられるように美しく……。


 チュッ。


 芸術の神に愛されているに違いない整った顔が近づいてきたかと思ったら、唇に温かなものが触れた。その瞬間、これまで以上に濃厚なミルクの香りが鼻孔に入ってくるのがわかった。あまりの濃さに頭がクラクラし、目眩までしてくる。


「……はっきりと香りを認識できなくても、わたしの香りにはちゃんと反応するんだな」

「……香、り……」


 何か大事な言葉だったような気がするが、ぼんやりした頭ではよくわからない。それよりも唇に触れていた熱が気持ちよくて、そちらのほうが気になった。


(もっと……もっと、触れてほしい)


 少し離れていた熱に自分から吸いついた。熱くて柔らかくて、それにとてもいい香りがする。濃く甘い香りをもっと感じたくて、何度も柔らかな熱に吸いつく。

 そのうち耳の後ろを何かに撫でられ、ゾワゾワした感覚に体が震え始めた。その感覚すら気持ちがよくて「ん……っ」と甘えたような声が漏れてしまう。


 どのくらい時間が経ったのだろうか。トントンと扉を叩く音にハッとした。目の前にはなぜか上半身を屈めながら僕を見下ろしている殿下がいて、さらに頬を殿下の両手で包まれていることに驚く。


「……あの、殿下」

「まぁ、今回のマーキングはこのくらいでいいか」

「マーキング……?」

「貴殿はまったく香りがわからないわけでもないようだ。それに……やはり、かすかにだが貴殿からも甘い香りがする。これは、わたしが好きなミルクセーキに似た香りだ」

「ミルクセーキ……?」


 よくわからないが、どうやらマーキング云々という話は解決したようだ。途中ぼんやりしてしまったせいで殿下の話はほとんど覚えていないが……やけに上機嫌な殿下の様子に、蒸し返すのはやめようと思った。


(しかし、僕の香りがミルクセーキとは……)


 たしかにおいしい飲み物ではあるが、少し甘過ぎやしないだろうか。それともビジュオール王国のミルクセーキは甘さ控えめなんだろうか。


(いや、ミルクセーキの甘さのことはどうでもいい)


 それよりも、僕から香りがしたということのほうが重要だ。本当に香りがするのなら、出来損ないのΩとして殿下に切り捨てられる可能性は低くなる。もしかすると、また発情したときに殿下に相手をしてもらえるかもしれない。

 そんなことを思いながら、まだ少しボーッとしている頭で執務机に向かう殿下の後ろ姿を眺めた。


(……そういえば、つぎの発情っていつ来るんだろうな)


 それがわかっていれば殿下に近づく時期も調整できる。しかし、発情に関して僕が得ている知識はほんのわずかだ。

 今後のためにも殿下に確認しておくかと思ったところで、再び扉を叩く音がした。「入れ」という殿下の声と同時に官僚たちが入ってくる。見れば、どの官僚の手にもたくさんの書類や道具箱のようなものがあった。それを見た僕は、ようやくここが殿下の執務室だったことを思い出した。


(さすがに執務の邪魔をしてまで尋ねることではないか)


 それにぼんやりした感覚もなかなか抜けてくれない。これでは満足にスケッチすることは難しそうだ。そう判断した僕は、殿下の迷惑にならないようにと退室することにした。


「殿下、今日は部屋でスケッチをすることにします」

「そうだな、まだしばらく影響が残るだろうから部屋にいるほうがいいだろう」

「影響……?」

「昼食は一緒に取ろう。部屋に用意させる」

「わかりました」


 昼食の件はいいとして、影響とは何のことだろうか。よくわからなかったが、とにかく執務の邪魔をしないようにとデザイン画を手早く片付け、静かに執務室を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る