第12話 Ωの自覚
「それとも、泣けないほどの威嚇のほうがいいか?」
ノアール殿下の低い声が僕の鼓膜をも震え上がらせた。表情は普段と変わらないように見えるが、声色はいつもとまったく違っている。
(だからこそ空恐ろしいというか……)
得体の知れない雰囲気なのに、普段と同じ無表情のままというのが恐ろしい。造形美がすぎると恐怖に繋がるのだと実感したくらいだ。
「やれやれ。まさか本気だったとはな」
「何がだ」
「こちらのΩ王子のことだよ。初めて連れ込んだΩが男だと聞いたときは耳を疑ったものだが、どうやら間違いじゃなかったみたいだな」
ヴィオレッティ殿下が、降参を示すように両手を軽く上げながらノアール殿下を振り返った。それを見たノアール殿下は眉をひそめている。おそらく、妙な笑顔を浮かべているヴィオレッティ殿下を訝しんでいるのだろう。
「どういうことだ?」
「ようやくαらしくなってきたなと思って、うれし涙が出そうだって話だ。あぁ、そういう意味では泣かされたということになるか」
「ふざけるな」
「ふざけてはないさ。おまえのことは気に入らないが、王太子だからな。おまえにはこの国の未来がかかっている。αの王として頂点に君臨してもらわないと、俺としても困るんだ。もっとも優秀なαが絶対的君主としてしっかり立ってくれなきゃ、足元からぐらついて面倒なことが起きてしまうだろう? 俺は面倒事に巻き込まれるのが大嫌いなんでな」
「……」
「それに、おまえだって気づいているはずだ。いい加減、腹をくくったらどうなんだ?」
ヴィオレッティ殿下がいまどういう表情をしているのか、残念ながら僕からは見ることができない。ただ、国を憂う者としてまっとうなことを話しているように聞こえる。
一方、ノアール殿下のほうはますます眉をひそめていた。険しいというほどではないが、何かを考えているといった雰囲気だ。
「それより、本気なんだとしたら、こうも自由にさせておくのはどうかと思うぞ? それに……」
ヴィオレッティ殿下がくるりと僕のほうを見た。そうしてスッと伸ばした指を先ほどのように首筋に近づけてくる。
得体の知れない恐怖を思い出した僕は、慌てて後ろに飛び退いた。このとき初めて体が自由に動くようになっていることに気がついた。
(……さっきまで、動かそうとしても自由にならなかったのに)
もしかして、あの熱風のようなもので体が解凍されたということだろうか。「まるで冷凍された魚か何かになった気分だな」などとどうでもいいことを考えていると、「ヴィオ」という鋭い声が聞こえて肩がブルッと震えた。
「おっと、触れてはいないからな?」
真っ直ぐ伸ばされていたヴィオレッティ殿下の手が離れていく。それにホッとしつつ、二人の様子に目を向けた。
もし揉め事に発展しそうなら、この場を後にしたほうがいい。いくら僕が王太子妃候補だったとしても、大国の内情に関わるような場面に同席するわけにはいかないからだ。元王太子としてそう思いながら様子を窺ってみるが、二人の表情を見る限り揉めているようには見えない。
(いまのいままで、相当険悪な雰囲気だったのにな……)
ノアール殿下の表情は険しいが、現れたときのような威圧感は感じられない。ヴィオレッティ殿下にしても、挑発するような様子は見られなかった。
「そんなに威嚇するくらいなら、首飾りでも贈ってやればいいだろう。いくら男のΩだと言っても、首を晒したままなんてどうかしているぞ」
「おまえに言われなくてもわかっている」
「まぁ、いろいろ慮ってのことなんだろうが、ときにその優しさは命取りになる。すでに接触されていることにも気づいているはずだ」
「……」
「それにな、おまえさんはわかっているとして、……こちらの王子様は何もわかっていないんじゃないか? これじゃあ『噛んでいいですよ』と言ってるようなものだ」
どうやら噛むという行為について話しているようだが、僕には何のことかさっぱり理解できない。それよりも、ノアール殿下の表情が変わったことのほうが気になった。
少し前までヴィオレッティ殿下に向いていた険しい眼差しが、なぜかいまは僕へと向けられている。……もしかしなくても、僕は何かとんでもないことをしでかしているのだろうか。
「さて、俺は退散することにしよう。これでも愛する妃二人の相手をするのに忙しい身だからな」
「それなら僕にちょっかいをかけるな!」と言いたかったが、ノアール殿下の手前、さすがに口にするわけにはいかない。そんな僕に「Ωなんだからもっと気をつけるんだな」と言いながら、ヴィオレッティ殿下がニヤッと笑った。
「俺は優しいからこの程度で済んだが、αが本気を出せばもっとひどい目にあうぞ?」
(それをあなたが言いますか!)
そう思ってキッと睨んだ僕に、再びニヤッと笑ったヴィオレッティ殿下はヒラヒラと手を振りながら部屋を出て行った。「一体なんだったんだ」と思いながらノアール殿下に視線を移すと、眉を寄せながら何か考え込んでいる。
(怒っているようには見えないが……いや、最初はたしかに怒っていた)
その原因であろうヴィオレッティ殿下のことは、油断した僕にも責任がある。早く謝ったほうがいいだろうと思い、殿下に少し近づいてから「ありがとうございました」と謝意を口にした。続けて「申し訳ありません」と頭を下げる。
「……何がだ」
「ヴィオレッティ殿下を近づけさせてしまったのは、僕の落ち度です。今後は気をつけるようにします」
「気をつけたところで、ヴィオレッティが言ったとおりαが本気を出せばΩである貴殿は何もできない」
「たしかに、そうかもしれませんが……」
「αの威嚇に晒されたΩは、αの所有物にされるしかない」
「αの、威嚇……?」
そういえば、先ほどヴィオレッティ殿下も同じことを言っていた。威嚇というのは、もしや獣が行うあの威嚇のことだろうか。「それじゃあ、αのほうが珍獣みたいだな」と思っていた僕に、ノアール殿下が「まさか、威嚇を知らないのか?」と尋ねてきた。
「あの、威嚇とは……?」
僕の問いかけに、ノアール殿下はなぜか大きなため息をついた。
殿下と部屋に戻った僕は、侍女が用意してくれた紅茶と焼き菓子の香りに包まれながらソファに座っている。向かい側に座る殿下はいつもと変わらない表情をしているが、機嫌がよくないように見えた。
(威嚇とやらを知らなかった僕のせいなんだろうな)
そう思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになる。下手に話しかけるよりおとなしく呆れられるなり叱られるなりのほうがいいだろうと思い、おとなしく殿下の言葉を待つ。すると殿下が「αのことは、どの程度知っている?」と問いかけてきた。
「どの程度、というほどは知らないと思います」
僕が知っているのは、圧倒的に優れた才能と肉体を持っているということと“生ませる性”ということくらいだ。Ωに関しても似たり寄ったりで、香りのことや発情についてはっきり理解できたのはビジュオール王国に来てからになる。
「なるほど。最近Ωになった貴殿なら、それも仕方がないことか」
いつもと変わらない口調だが、一瞬切り捨てられたのかと思った。そう思っただけで何かがせり上がってくるような、ひどい気持ちになる。
「αには威嚇という力が備わっている。先ほど貴殿がヴィオレッティから向けられていたのが、その威嚇だ」
「威嚇……」
切り捨てられたわけじゃなさそうだとホッとしたと同時に、得体の知れない恐怖を思い出して体がブルッと震えた。
「威嚇を向けられたΩは、αからは絶対に逃れられない。それがΩというものだ。わかったら、今後不用意にαには近づかないことだ」
「僕もそう思いました。というより、実際に体験して身に染みてわかりました」
今回はノアール殿下が現れたからよかったものの、誰もいないところで同じ目に遭っていたら、間違いなく僕はどうにかされていたことだろう。
(これじゃあ、まるで姫君のようだな……)
いや、それがΩというものなのだ。たとえ男であっても僕は姫君たちと同じ立場……いや、それ以上に弱い立場なのかもしれない。
「それからもう一つ、覚えておくべきことがある」
「はい、なんでしょうか」
身を正して殿下を見つめると、黒い瞳がほんの少し揺れ動いたような気がした。それは一瞬のことで、すぐにいつもの表情に戻る。
「Ωはαに首を噛まれることで、噛んだαの所有物になる」
「噛まれる……というのは、一体……?」
「やはり知らなかったのだな」
思わず眉を寄せた僕に、殿下が腑に落ちたというような声を出した。
「どうりで首を晒したままだったわけだ。男として思うところがあってのことかと思っていたが……。いや、そもそも男であってもΩなのだから、隠すのが当然か」
殿下の独り言に、ますます眉が寄る。そんな僕に気がついた殿下が「いや、確認しなかったわたしも悪い」と口にした。
「殿下、噛む、というのはどういうことでしょうか」
「αがΩの首を噛むことで、一般で言うところの婚姻が成立するんだ」
「そうなんですか……」
知らなかった。まさかそんな獣のような婚姻の結び方があったとは……。
(いや、ヴィオレッティ殿下は所有物と言っていなかったか……?)
ノアール殿下もいま、そのようなことを口にした。いくらαとΩが特殊な存在だったとしても、婚姻を所有物になると表現するのはいかがなものだろうか。
「あの、それで、所有物というのは……」
「Ωは、自分を噛んだαとしか閨を共にできなくなる。もしほかの誰か、たとえαでない相手であっても拒絶反応を示し、ひどいときには錯乱することさえある」
「……それはまた、強烈な婚姻関係ですね……」
それ以外には言い様がない。Ωになったばかりの僕には「なんだそりゃ」と言いたくなるような関係にしか聞こえないが、たしかに“所有物”と表現できる事象かもしれないことはわかった。
「Ωにとっては、噛んだαが唯一の相手となる。だが、αは何人ものΩを噛むことが可能だ」
「……は?」
「つまり、αはΩを何人でも所有できるということだ」
「……それはまた、」
えげつない関係性だ。なるほど、ヴィオレッティ殿下が言っていたことがようやく理解できた。
(ついでに、僕をその所有物の一人にしようとしていたこともわかった)
もし噛まれていたら……想像するだけで身震いがする。まるで収集物や展示品のように扱われるなんて耐えられるわけがない。ヴィオレッティ殿下はとんでもない人物だなと思いながら、二度と近づかないようにしようと改めて固く決意した。
同時に、ビジュオール王国に来た当初、違和感を感じたことにも納得できた。
「なるほど、それで姫君たちは似たような首飾りをしているのですね」
初めて見たときは、真っ黒なだけの首飾りをお揃いで付けていることに不気味ささえ感じたが、あれは彼女たちが自分の身を守るための必需品だったのだ。
そうなるとΩなのに首を晒している僕は、αから見ればまさしく「噛んでいいですよ」と言っているようなものに違いない。それがΩにとって何を意味するのか、真実を知ったいま、ただゾッとするばかりだ。
「……知らなかったとはいえ、あまりにも無防備すぎました」
「いや、初対面のときに気づいていながら確認しなかったわたしにも責任はある。その後の様子から、貴殿なら普通のΩと違う行動を取るかもしれないと思い込んでいた」
「あー……変わったΩで、重ね重ね申し訳ありません」
「いや、いい。そういう貴殿だから……」
なぜか殿下の言葉がピタリと止まった。そのうえ視線まで逸らされてしまう。どうしたのだろうと見つめていると、小さく咳払いをした殿下が再び僕を見た。
「ところで、首飾りはどうする?」
「そうですね……やはり、付けたほうがよいのでしょうね」
「万が一、ということもあるからな。本来後宮にいる限りは安心なんだが……いや、そうとは言い切れないか」
「殿下?」
「これは醜聞になるのだが、以前、不逞の輩に後宮への侵入を許したことがある。そのとき数名の妃候補が被害に遭いかけたが、ヴィオレッティが気づいて事なきを得た」
「ヴィオレッティ殿下が……」
「あの男は、ほかのαの気配に敏いんだ。従兄弟たちの中では、わたしに次いで能力の高いαだと言われている。それなのに満足に才能を発揮しようとしない困った男だ」
「そうでしたか」
それほどの人物が、どうして僕にちょっかいを出したのだろうか。それに「困った男だ」と口にした殿下の口調には刺々しい雰囲気は一切ない。先ほどの様子から仲が良くないのではと思ったが、そういうことでもないようだ。
(大国の従兄弟同士となれば、いろいろあるのかもしれないが……)
何にしても、僕自身はヴィオレッティ殿下には近づかないほうがいい。
「そういえば、救出されたうち二人の姫は、わたしの後宮を出てヴィオレッティの妃になったな」
そういう経緯だったのか。それなら乗り換えたというよりも、姫君がヴィオレッティ殿下に惚れたから妃になったということじゃないんだろうか。
(なのに、ヴィオレッティ殿下はなぜあんな言い方をしたんだろう?)
照れ隠し……とは思えない。あの性格で自分の手柄を謙遜したりはしないだろう。
(僕に迫ってきた態度といい、いまの話といい、ヴィオレッティ殿下の行動はさっぱりわからない)
とんでもない人物だとは思うが、今回の件では礼を言うべきかもしれない。おかげで自分がΩだということをはっきり自覚できたのだ。やり方はいただけなかったが、Ωの自覚に乏しい僕の目を覚まさせるにはいい機会になった。
「そういうことなら、やはり僕も首飾りをしておくべきでしょうね」
「そうだな。……そうか、それなら貴殿がデザインしたものを用意させよう」
「え?」
「貴殿はアールエッティ王国随一の画家だ。首飾りのデザインもしてみたいと思わないか?」
「そう、ですね……。たしかに興味は引かれますが……」
服や装飾品のデザインをしたことはないが、母上が真剣に図案を描いている姿を見るたびにおもしろそうだとは思った。もし本当にできるのなら、ぜひやってみたい。
そう思った僕は、「ぜひ、やらせてください」と返事をした。
「では、さっそく見本になるものを用意しよう。あぁ、完成品が届くまでは、後宮で使っている首飾りでもかまわないか?」
「はい、かまいません」
「見本の首飾りと、紙と……ほかに必要なものはあるか?」
「そうですね……使われている素材の一覧があれば、そちらも」
「わかった、手配しよう」
首飾りは初めて手がけることになるが、未知なる挑戦に気持ちが昂ぶってきた。それに、殿下も心なしか楽しそうに見える。
(こういう人が伴侶なら、結婚生活は楽しいだろうな……)
自然にそう思ってしまった自分に驚いた。
(いや、一応妃候補なのだから、可能性がないわけではないんだが……)
しかし妃候補は三十人近くいる。今後も増えていく可能性は高い。そのなかで、小国の王子であり男のΩである僕が妃の一人に選ばれる確率は低いだろう。子ができれば別だろうが、いまのところその気配はない。つまり、僕はいまだに崖っぷちに立ったままということだ。
(発情したからといって安心していては駄目か)
こうして殿下と過ごす時間が増えても、子ができなければ意味がない。このままでは、いずれ後宮を出ることになってしまう。それなら早くつぎの嫁ぎ先を考えたほうがいいのかもしれない。
わかっているのに、「つぎの嫁ぎ先」と思うだけで胸がちくちくと針で刺されるように痛んだ。痛みの原因はわからないが、それを感じたくなくて、つい目を逸らしてばかりいる。
(……いや、僕は国のために嫁がなければならないんだ。それを忘れてはいけない)
何のためにビジュオール王国まで来たのか忘れてはいけない。初心忘るべからずだ。気づかないうちに初心に纏わりついていた余計な気持ちは、ここできれいさっぱり剥ぎ取っておかなければ。
そうしなければ、僕はきっとつぎに踏み出せなくなる。つぎの結婚相手を探すことができなくなりそうな予感に身震いしそうになった。
(……いや、こんなことを思うこと自体が余計だな)
僕は気を引き締め直しながら、首飾りのデザインについて殿下と話を続けた。
後宮から出て、ノアール殿下の執務室へと向かう。本来、妃候補の一人にしかすぎない僕が執務室に出入りするのはよくないことだ。しかし、殿下に「ここなら安心して絵が描けるだろう」と提案されて断ることはできなかった。執務室から見える景色の美しさに魅せられて描きたくなったという気持ちもある。
ヴィオレッティ殿下の一件の後も、僕が後宮を出ることを禁じられることはなかった。殿下いわく「自由に絵を描くのが貴殿のよさだ」ということらしいが、もしかして気を遣ってくれている、ということだろうか。
「到着したときは、僕にまったく興味を持っていなかったようなのにな」
初対面のとき以外、まったく部屋に来なかったのが何よりの証拠だ。
「……なるほど。だから後宮から出る許可が下りたのかもしれないのか」
僕に興味がなかったから許可を出したと考えればおかしくはない。そう考えるくらい、当初はいまのような関係を築けるとは思っていなかった。
そんな殿下が絵画に興味を抱いてくれたおかげで、こうして物事がよい方向に進み始めた。僕は願ったとおりΩとして発情できたし、一度だけとは言え閨を共にすることもできた。絵を描き続けることもできている。
「あとは子ができるかだが……もしかして、Ωの懐妊は普通の女性とは違うんだろうか」
画材を持っていない左手を、そっと自分のお腹に当てた。いまのところ子ができているような様子はない。殿下に聞いた話だと、発情したΩはほぼ確実に子ができるということらしいが、もしかして男のΩは別なのだろうか。
「となると、僕はいつまで後宮にいられるのだろうな……」
ふと、初日に言われた「貴殿がいつまでの滞在になるかはわからないが」という言葉を思い出した。どういう意味だったのか確認できずにいるが、もし子ができなければお払い箱という意味だったとしたら残された時間はあまりないように思える。
「……考えたところで仕方がない。取りあえず体調を崩さないためにもスケッチだけは続けよう」
右手に持つスケッチブックと木炭箱をしっかりと抱え直す。それにしても……と、首に吸いつくような首飾りを左手で撫でた。これは僕がデザインする首飾りが完成するまでの臨時ということで、殿下に頂戴したΩ用の首飾りだ。
なんでも柔らかい感触とは裏腹に、ナイフで切ろうとしても切れないほど頑丈な素材で作られているのだという。そのくらい丈夫でなければ、本気を出したαの歯からは首を守れないのだと聞いた。
「男のΩである僕よりも、そんな獣じみたαのほうがよほど珍獣のような気がする」
しかし、それがαという生き物なのだ。それならΩの僕は首飾りをつけて身を守るしかない。
「それにしても、黒一色というのはいかがなものかな。せめて色だけでももう少し増やしたいところだけど、なにより飾りっ気がないのも残念なんだよなぁ」
僕は、ただの護身用でしかない現状のデザインを憂いていた。これでは“首飾り”なんて呼べたものじゃない。
好きにデザインしてもよいと殿下に許可をいただいた僕は、まず黒色以外が作れないか職人に尋ねることから始めた。昨日の報告では、何とかほかの色にも染められそうだということだった。それに、ビーズやカラーストーンを付ける方法も見つかりそうだという話も聞いている。
見た目はそれで十分改善できるだろう。いずれは宝石を付けられるようにもしたいところだ。あとは留め具にも装飾を施したいが、ここが一番難しい部分でもあった。
「簡単に外れる留め具では問題があるし、かといってただ留めるだけというのも味気ないし……」
いくら首飾りを頑丈にしても、留め具が簡単に外れるようでは意味がない。しっかり留められる状態で、かつデザイン性に富んだものを作りたい。そうすれば妃候補の姫君たちも、護身用としてだけでなく装飾品として楽しむことができるはずだ。
いや、姫君だけじゃない。こうした首飾りが必要なΩ全員に楽しめるものを作りたいと思っている。
「……そうか。留め具を一律で決めてしまっているから同じデザインになるんじゃないか?」
いまビジュオール王国で使われているΩの首飾りは、すべて同じ形の留め具が使われている。だから幅もデザインも同じものばかりになってしまうに違いない。
いっそ留め具の種類自体を増やせば、それに合わせてデザインの幅も広がるのではないだろうか。それに、留め具部分にもこだわりを持たせることができれば、さらにデザイン性が上がる。
「よし、留め具職人に話してみるか」
いい考えに頬を緩ませながら角を曲がりかけたところで、後ろから「ランシュ殿」と声をかけられた。
「ルジャン殿下」
振り返ると、華やかな格好をしたルジャン殿下が微笑みながら近づいて来るところだった。頬の近くがキラキラ光っているのは、銀細工の耳飾りが陽の光を反射しているからだろう。
「絵の道具を持っているということは、あの池へ行くのですか? しかし、最近は見かけなくなっていたような……」
「いえ、庭ではなくノアール殿下の執務室へ行くところです」
「殿下の執務室に?」
ルジャン殿下が眉をひそめたが、それもそうだろう。僕は妃候補であって官僚でも侍従でもない。おそらく「どういうことだ?」と思ったに違いない。
「いろいろありまして、いまは殿下の執務室の窓から見える景色を描いているのです」
「そうでしたか」
「描くといっても、こうして小さなスケッチブックに木炭で描くだけですが」
「それでも絵を描くことには変わりないでしょう」
僕の言葉にニコッと笑ったルジャン殿下は、不快そうな表情を浮かべることなく手に持っている画材を見ている。
(やっぱりルジャン殿下も芸術に興味があるんじゃないかな)
鑑賞以外で芸術に興味を持つ従兄弟たちはいないはずだとノアール殿下は話していたけれど、知らないだけなのかもしれない。
(ま、僕も従兄弟たちの趣味なんて詳しくは知らないしな)
同じ国にいて小さい頃から頻繁に顔を合わせていたとしても、全員のことを詳しく知っているわけではないということだ。
「……それにしても執務室にまで招くとは、よほどのお気に入りなんですね」
不意に聞こえてきた言葉に顔を上げると、ルジャン殿下の黒目がわずかに細くなっていた。そういえば、初対面のときにも似たような表情を見たような気がする。
(あのときは、何の話をしていたんだったか……)
思い出そうとしていたら、「ランシュ殿は銀細工はお好きですか?」と問いかけられた。
「銀細工、ですか?」
「はい。わたしは大好きでいつも身につけているんですが、身を飾るものだけでなく……こういった筆を飾るものもあるのですよ」
そういって目の前に差し出されたのは、銀色の柄をした絵筆だった。よくよく見れば、細かな模様の入った銀色の筒のようなものが柄に取りつけられている。
「これはまた……なんという贅沢な……」
このような装飾具をつけた絵筆は初めて見た。これでは持ちにくいかもしれないが、見て楽しむ絵筆としてはおもしろい。
(そういえば、どこかの島国には銀で装飾された……何だったか……。そうだ、
もしかすると、それと同じような細工なのかもしれない。筆は絵を描く道具だと思い込んでいた僕は、目から鱗が落ちるような新鮮さを感じた。
「なんとも興味深い筆です」
「差し上げますよ」
「え? いや、このような珍しいものをいただくわけには……」
「わたしが好きな銀細工を褒めていただいたお礼です。それに、ランシュ殿が喜んでくれるのであれば、わたしもうれしいですから」
にこりと微笑みながらそう言われてしまっては断りづらい。僕は「では、ありがたく頂戴します」と謝意を述べ、銀細工で飾られた筆を手にした。
装飾具のぶんだけ少し重く感じられる。銀の筒に触れると冷たさが心地よかった。指で触れるといかに細かく模様が描かれているかがわかり、ますます興味を引かれる。
「これは……指で触れると、細工がすばらしいことがさらによくわかります」
「それはよかった。では、つぎも珍しい銀細工をお持ちしましょう」
「え……?」
「では、また今度」
「あの、ありがとうございました」
頭を下げたあと、微笑み返してくれたルジャン殿下の背中をぼんやりと見送った。
「……いま、『つぎも』と言わなかったか……?」
それでは、また会う約束をしたことになりはしないだろうか。偶然の出会いなら仕方がないにしても、約束したとなると少し困ったことになる。
「ルジャン殿下もαだから、本当はあまり近づきたくないんだが……」
ヴィオレッティ殿下と違い穏やかな雰囲気だからか、そこまで危険な人物には感じられない。それでも気をつけるに越したことはないが、どうしたものだろう。
「……まぁ、絶対に会うという約束ではないしな。社交辞令の一環だったのかもしれないし」
それに、いまはこうして首飾りも付けている。僕はツルツルとした手触りの首飾りを撫で、その指でもらったばかりの銀細工に触れた。それはやっぱり心地よい冷たさだったが、硬質な感触がなぜか異質な違和感を感じさせて少しだけ気になった。
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