第3話 揺れる嘘

 絵画教室にて。


 僕は必ず持ってくるよう先生にくぎされていた色鉛筆を忘れた。


「それで、色鉛筆は持ってきたの? きてないの?」


 先生が僕に優しくたずねる。


「うーんとっ、もってるけど、なくなっちゃった」


「どういうこと? 正直に言ってみて?」


「かばんには……いれたのっ」


「うんうん、それで?」


「かばんのなかには、おばけがいるの」


「今はお話の時間じゃないのよ?」


「おばけがたべちゃったの」


「本当に?」


「うん。『ばくばくばく』って」


「おいしそうだった?」


「ううん、イヤイヤたべてるみたいだった」


「じゃあ止めてあげないとね?」


「うん」


「止めてあげたの?」


「おいしそうだったから、そのままにしたのっ」 


「どっち!? おいしそうだったの!? それともそうじゃなかったの!?」


 先生の顔つきと口調が変わった。


「ごめん……なさい。ほんとうは……」


「本当はどうしたの?」


「ぼくがたべちゃったの」


「あらそう……、大変。じきおなかが痛くなるわ。今すぐ病院に行かなきゃね。先生が連れていってあげるから」


 ふだん子供に対して声を荒げることなど一切ない先生の氷点下の怒りに、絵画教室にきている子供たちは凍り付いた。


「さあ、早く来なさい」


 ぎゅうぎゅうと腕を引っ張る先生。


「いやっ、やだっ」


 僕は必死で抵抗する。


「あいちゃんのえんぴつ……かしてあげるっ」


 脇から助けの手が差し伸べられた。声の主、愛子あいこちゃんは僕と先生を交互に見た。その瞳は切なくうるんでおり、それに気づいた先生は怒りのレベルを引き下げた。


「廊下に立ってなさい。愛子ちゃんもありがとう、席に戻って?」


「はーい」


 廊下に追い出された僕はポケットに入っていた短い鉛筆で真っ白な廊下の壁にコカ・コーラのロゴを書いた。筆記体でつないで書いてある字をイメージしてくるくると描くのだ。C・O・C・A……。


 面白くなってきて何度も楽しんでいるうちに、目立たない足元などに描いていたロゴが徐々に上の方に進出してきた。まずいと思いながらも手慰てなぐさみは止まらない。


 先生が様子を見るため廊下に出てきた。僕は慌てて落書きの前で気を付けをした。


「あら? 偉いじゃない、しっかり反省しているみたいね。そろそろ戻っていらっしゃい」


「……」


「どうしたの? もう怒っていないわ。安心していいのよ」


 先生はにっこり微笑んだ。僕はガチガチの笑顔を返した。


「さあ早く」


「うえーんっ」


 手を引かれた僕は先生に抱きついて泣きまねをした。


 そのおかげか、彼女の視線は落書きの壁に注がれることなく、僕は抱きしめられたまま教室内に戻った。


 扉が締められる直前、廊下の壁の惨状さんじょうを見た愛子ちゃんの顔が真っ青になった。


「ねえねえ、ちゃんとあやまったほうがいいよ?」


 愛子ちゃんが僕に耳打みみうちしてきた。


「あいちゃん、『ておくれ』ってことば、しってる?」


 僕は遠い目をしてたずねた。


「どういうこと?」


「なにをしても、どうにもならないってこと」


 僕はタバコを吹かす真似をしながら言った。格好良く決まった。TVでそんなシーンがあったのだ。


 その数分後、僕は先生に首根くびねっこをつかまれ、連れ出された廊下でしぼられた。彼女の手は氷のように冷たかった。

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