幕間‐黒山羊と金羊毛
※今回は少し長めです。
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『——しらじらと明けぬ藍の暁、世界には焦げた喉と、焼けた鉛がかぐわしく香り、精霊の青色がさめざめと濃い。……はて? 我が狩りは終わったのか? しかし、我が
場所はサザンギャレット第一商業区の南部。伝統と芸術に見守られたウーファー街の一角に存在するシェイクシーン座の劇場内である。
この劇場は、一階から三階の席がある程にだだっ広い。皆、少しでも前の席で劇を見ようと一階と二階の席は毎公演ほぼ席が埋まっているが、流石の三階ともなると、休日でも無い限り、舞台までの距離が遠過ぎて人気がない事が当たり前だ。
そのやたらと空席が多い三階の観客席に、ボロボロのキャスケット帽を目深に被った暗い茶髪の男——ハンス・シュミットは座っていた。
『——ならば私は、未だ霧の中にいるのだろう……隠れた豚を見つけられずにいるのだ……。どこだ、どこだ……どこにいる? 言葉を封印するのならば、私は世界に猟犬を放つぞっ。キャリバンという名の猟犬だっ。
雲雀が鳴けば、世界には何万ものキャリバンがシューシューと威嚇をし、お前たちの魂を求めて鼻を地面に擦り付ける……身の毛すらよだつ狂乱の笑い声を聞けば、例え口を縫われた豚であろうとも、悲鳴の封印など出来はすまい……』
静寂が広がる観客席とは対照的に、舞台上で芝居をする役者達の演技は、素人目から見ても堂に入ったものである。演劇とは程遠い人生を送って来たハンスだが、やはり一流の仕事には職種を問わず人を惹きつける何かがあるのだろう。
——もし、
内心でそう呟いたハンスは、額から玉のような冷や汗を流していた。
「……何の冗談だ、ジェジフ・バーリー」
「いやいや、
「……何度も言わせるな、ジェジフ。笑えない
内心の恐怖心を悟られまいと、強気な態度で言い返すが、男はそれを見透かしているのだろう——。こちらの反応を愉しむかのような声音で投げ掛けられた男の言葉に、ハンスは自らの額に冷たい汗の感覚を覚えた。
「ハハハハハっ、これは意外だ……
「……」
隣に座っている男——ジェジフ・バーリーは、ハンスの虚勢になど歯牙もかけず、依然として不愉快な笑みを浮かべている。それどころか、ハンスの抵抗を喜んだように、より一層深く口角を吊り上げた。
一体、どこからその余裕が来るのかは分からない。
彼の放つ危険な空気感か、それとも
そのどちらにせよ、目の前の男と、その後ろの席から銃口を突きつけて来る大男——ギルバート・バーリーが邪悪な存在であり、ハンスの生殺与奪を握っているという事実に変わりはなかった。
「……あぁ、そうだな。お前のような人間を相手にしているんだ……虚勢だって張るさ。だが、そこまで理解しているのなら分かるな? ——追い詰められた獣が最も恐ろしいという事に、だ」
「勿論。だから評価を改めたんじゃないか? 俺たちみたいなクズの為に、
「……雇った金の分は働いてくれる奴らだ。お前の心臓と首にも届く暴力を持っている」
「おぉ、怖い怖い……ハハハハハっ」
小さく肩を竦めてジェジフが示唆したのは、ハンスとバーリー兄弟の座席を囲むように座っている三人の人物だ。
ジェジフ達の座る座席の前に一人。そして、ギルバートの座る席の左右を囲むように、四つか五つ分の座席を開けて二人の亜人種が座っている。
「——いけ好かん男だな? 少しは口を慎むがいい……俺様がその頭ごと食ってやってもいいのだぞ、ジェジフ・バーリー」
声の発生源は、ギルバートの座る座席の右側に座っていた人物からである。
そこで腕を組んで座っていたのは、熊と狼を足して二で割ったような顔と肉体、全身が獣の体毛で覆われた亜人種——いわゆる
ギルバートといい勝負の体躯の持ち主である淆原種の男は、ギロリとジェジフを睨みつけると、獣のような唸り声を上げながら牙を剥き出しにする。
「ん、ミーシャも同感。ブっ殺してから奪った方が手っ取り早いと思う。どうせミーシャ達も、
その唸り声に同調するように、その反対側に座る人物から声が上がった。
眠たげな瞳と口元まで覆ったスカーフが特徴的な
いつの間に出したのか、その手にはスチームパンクなデザインの上下二連式リボルバー——いわゆる『蒸気銃』が二丁、撃鉄を上げられた状態で握られていた。
彼女が指示を仰ぐように視線を向けた先——ケインと名前を呼ばれた人間種の男は、面倒そうに亜麻色の天然パーマをガシガシと掻くと、小さな溜息を吐く。
「……止めろジャン、ミーシャ。騒ぎを起こすな」
「「……」」
ジャンとミーシャと呼ばれた亜人種の二人は、リーダーである彼の言葉にしぶしぶといった風に従い臨戦態勢を解くと、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「悪いな、ハンスの旦那? 俺たちの力を買ってくれるのは嬉しいが……残念ながら、バーリー兄弟相手ともなると、ちぃ~っとばかりキツい。聖骸は諦めた方が利口だと思うぜ?」
「……っ……、……、……
「あぁ、分かってるよ。仕事はするさ——
フっ、と。前方の席から僅かに振り向き、ケインは笑みを見せて来た。
彼の弱気な言動に少し焦ったものの、その笑みを目にして少し安堵する。フンっ、と鼻を鳴らしたハンスは、キャスケット帽を目深に被り直す。
「——よぉ、ミスター。話は聞いてただろ? 俺と取引しようぜ? 割引でアンタの依頼を何でも一つ受けてやってもいい……代わりに何とかその聖骸、指三本分だけでいいから工面してくれないか?」
「おぉ~、それはいい話だ……だが悪いな? 昔から冒険者っていう連中が嫌いでね……お前たちはロマンチズムを内包した偽善者としての自分達の生き様に、まるで神でも崇めるように陶酔している。常識と美徳の推進を是とする人間の仕事は、いつの時代も
「ははっ、酷い言い草だな? 傷ついちゃうぜ……。——
「……ハハハっ——、……何が言いたい?」
ニヤリ、と。したり顔で笑みを浮かべたケインを見て、初めてジェジフが余裕の表情を崩す。人を食ったように吊り上がった口角を下げた彼は、ケインを睨んだ。
その時だった。
「……兄者、不味いぞ」
何かに気付いた様子のギルバートが拳銃を下げ、ジェジフを呼んだ。彼の視線が向けられているのは、ハンス達がいる三階の観客席へと繋がる階段を、まるで何かを探すように歩いて来る数人の男達だった。
見ると、全員が警察の制服に身を包んでいる。まだこちらに気付いていないものの、それが時間の問題である事は明らかだ。
——おそらくは、
その
「……なぁ、ミスター? アンタ何で今日の取引を実行したんだ? ハンスの旦那よりいい取引相手が見つかったんなら、一度失敗した取引をもう一度強行する必要も、わざわざ捜査が強化されているこんな状況で、こんな目立つ場所に来る必要も無かっただろう?」
「……」
「
ケインの畳みかけるような質問にジェジフは何も答えない。しかし、その沈黙こそが何よりもの肯定である。
一瞬の睨み合い。だが、その沈黙を破るように「……兄者、急げ。奴らが気付いたぞっ」と、ギルバートが忠告が割って入った。彼の言葉通り、幾つかの足音がこちらに向かって来る。
緊迫していく空気感の中、ジェジフの僅かな焦りを見透かしたように、ケインが歯を見せて笑った。
「——取引だ、ジェジフ・バーリー。ハンスの旦那にやらせようとしてたその依頼……俺たち【
「……あまり図に乗らない方がいい。欲張りな奴はロクな死に方をしないぞ?」
スチャリ——、と。静かに引き抜かれた剣が、ジェジフの手に握られる。
ぞっとするような殺意の視線が、ケインへと向けられた。
「おいおい、勘違いするなよ?
「……」
「杜撰な仕事ぶりだと嗤うか? だが、アンタの選択次第によっちゃぁ、アンタ達はその杜撰な仕事振りに足を掬われることになる……。——さぁ、選べよバーリー兄弟。鳩に啄まれて、その最後を鷲獅子に食われるか……鳩に豆をやって、鷲獅子から逃げ切るか……選べるのは一つだけだ」
ジェジフの殺意に冷や汗を一筋流しつつ、しかし、あくまで余裕の態度を崩さないケイン。数瞬の間、少し考え込んだように沈黙の帳を落としたジェジフは、内心の苛立ちを鼻息と共に吐き出す。
その懐から不気味な人の手を取り出した彼は、その手に握った抜き身の刃で五本の指を斬り落として行く。ボトボトと落ちたその指をケインに手渡した。
「……名前と顔は覚えたぞ、【
「……っ、……」
明確な殺意のみが込められた声だった。
一瞬にして周囲に充満した緊張感。殺意を向けられたケインだけではなく、ハンス、ジャン、ミーシャ達までが、恐怖心で喉が詰まるような感覚を覚えた。
「報酬はそれで我慢しろ、冒険者。依頼は後で連絡する」
「……あ、あぁ。分かった……」
無機質な台詞と怖気が走るような余韻だけを残して、ジェジフとギルバートは足早に席を離れて行った。緊張感からの解放で安堵したケインは、小さく溜息を吐く。
彼が「……俺たちも行こう」と席を立つと、恐怖心で固まっていた他のジャンとミーシャも、思い出したようにそれに倣う。一瞬遅れて、ハンスも席を立った。
少し慌ただしく席を離れる彼らを不審に思ったのか、既に目と鼻の先にまで迫って来ていた警察が、彼らをターゲットに定めて走り出す。数人の男達に追い立てられながら、ハンス達はその場を後にした。
——劇場内の一角で、そのような密談が行われていたことを知ってか知らずか、演劇は既に最後の山場に突入し、不気味なガス灯の明かりが、舞台に立つ演者たちを照らしていた。
奇しくも、今日の演目は『この世で最も残虐な復讐劇』とまで呼ばれた、劇作家ジョージ・ピールの最高傑作にして、かつて、実際に起こった復讐大戦を元に書かれた演目——『タイタス・アンドロニカス』である。
『おぉ、人よ、世界よ——我が名はタイタス・アンドロニカス。手を落とされ、喉を鉛で焼かれ、言葉を封印された男である』
それは、まるで金羊毛に
舞台上の役者たちの迫真の演技は、鬼気迫る何かを観客たちに暗示させた。
『この身は精霊の祝福を受けたのではない。精霊に呪われたのだ。決して、決して、何者かの供物となる為でなく、何物もの代替となる羊として、世界に産まれ落ちた訳では無い……っ。
聖人の位など私は求めなかったっ、聖人の
これは復讐だ。当然の復讐だ。
我が憎悪が、当たり前に認められるまでの、復讐なのだ。
故に、我が怨嗟と憎悪の言葉をもって——人が手にした瞬きの安寧と、偽りの平和を呪う礼砲としよう……』
とてつもなく残酷な事が起きる時、その予兆は不意に、不可思議な恐怖となって誰しもの前に現れるものである。
冷たい汗が滲み出し、手足がぶるぶると震え、多くの動物がそうであるように、人の心は、直感という第六感的な本能に従って、目に見える以上の何かを感じるのだ。
ならば多くの者が今、目に見える以上の何かを心から感じている事だろう。
欲望が沈黙することなどあり得はしない。
数奇的な巡り合わせは不運や混沌を愛している。
多くの人々がそうであるように、世に光り在れと願うのは、無神を叫びながら何かを信仰せずにはいられない人間の業であり、性である。
それ故に、革命によって覆った近代の世であろうとも、あらゆる人の営みは、たった一文に集約されてしまう。
そう、即ち——彼の復讐鬼が世界を呪った、この一文である。
『——其は権利なきに非ず、故に奪い奪われるモノであれかし……っ!』
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※以下、後書きです。
ここまでで<Episode I:ブレッド・オア・ブラッドの赤い旗 第一章・依頼と現実>は終了となります。ここまで読んで下さった読者の方々は、本当にありがとうございました。一人の創作者として、これほど喜ばしい事はございません。これからもご愛読して下さると、更に喜ばしく思います。
次回からは、<Episode I:ブレッド・オア・ブラッドの赤い旗・名も無き端役の革命旗>に入ります。少しでも面白いと思ってくれた方々は、これからもよろしくお願いします。
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