雨が上がれば
目を覚ますと、緑雨はいなかった。はじめからいなかったみたいに、気配の一つも残さず消えていた。
俺は驚くというより脱力してしまって、ベッドの中で一人天井を見上げた。
仕事のない土曜日の朝だった。
緑雨が来る前は、家事を午前中で済ませて、午後には睡眠薬を飲んで寝てしまう、憂鬱な土曜日の朝。
緑雨と繋いで眠った左手の指を、目の前に持ち上げてみる。
「……うそつき。」
呟いた声は、随分幼く聞こえた。
子供の頃、休みの日の約束を親にすっぽかされたときみたいに。
ベッドに寝転んだまま、多分結構長い時間を過ごした。いつものように溜まった家事を片付ける気にもなれずに。
緑雨がいない。
ほんの数週間前までは当たり前だったこと。
それなのに、どうしても起き上がる気力が湧いてこない。
それがどうしてだかくらい分かっていた。 それでもまだ、俺は分からないふりをする。
緑雨を取り戻したいとは思わなかった。
それよりもっと切実に、緑雨を知らなかった頃に戻りたいと思った。それは、祈るような強さで。
緑雨を知らなかった頃、俺は当たり前みたいに土曜日を家事と睡眠で乗り切っていた。日曜日だって、眠ってしまえば一瞬だった。
それなのに、今俺は、睡眠薬の瓶に手を伸ばす気力さえ失っている。
緑雨のセックス。
そんなものを惜しむ気なんかない。
緑雨の顔と声、身体、体温の全て。
そんなものを惜しむ気だってない。
誰かの存在がほしいだけだ。それは、緑雨じゃなくても。
そう自分に言い聞かせた。
そうでなくては、一生このベッドから起き上がれなくなりそうだった。
だって俺には、緑雨を引き戻す手段がない。葛西さんの店でまた緑雨と顔を合わせてみたって、それはただそれだけのこと。
緑雨は俺なんて全く知らないみたいな顔をして、他の男だか女だかの肩を抱くのだろうし、俺はそれを見てみぬふりするだろう。だって俺には、緑雨を引き止められるような魅力も価値も、なにもない。
睡眠薬の瓶はベッドサイドのテーブルに置いてある。
俺はそれに手を伸ばした。
とにかくもう目を覚ましていたくない。
その一心だった。
指先になんとか触れた冷たいガラス瓶を手繰り寄せ、中身を全部、左の手のひらに乗せた。
手のひらに山になった糖衣錠たちは、美味しいラムネ菓子に見えた。
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