「おかえりなさい。」

 そう言って、緑雨はにこりと笑った。ベッドに半身を起こしたままの、気だるそうな姿勢で。

  ただいま、と、いつものように応えようとした唇が、震えて空を切った。

 「ケイスケ?」

 怪訝そうに首を傾げた緑雨が、ベットを降りてこちらに歩み寄ってくる。

 俺は緑雨から視線を外し、靴を履いたままの自分の足元に視線を落とした。

 葛西さんの口づけが、刻印になって自分の顔に残されているような気持ちだった。

 バカみたいだ。

 本当に彼の口づけが刻印になって残っていたとしても、緑雨がそれを気にするはずもないのに。

 「ケイスケ、どうしたの?」

 緑雨が俺の肩を抱いた。するりと、流れるような仕草で。

 何人もの、いや、何十人だか何百人だかの肩を抱いてきたと如実に分かる、不誠実な仕草。

 けれど俺は、それに救われた気がしたのだ。常に不誠実な緑雨に。

 葛西さんと寝てきた。

 そんな嘘をつこうとした。

 自分でも理由はわからない。ただ、もっと不誠実になったら心が楽になるような気がして。

 けれど緑雨は俺に嘘を付く隙を与えなかった。彼は、まるで何もかもお見通しの仙人かなにかみたいな調子で言ったのだ。

 「葛西さんと寝た?……ああ、違うね。寝ようとして、やっぱりやめて帰って来たんでしょ。」

 言い当てられた俺は、固まった。それ以上なにを言っていいのか分からなかった。

 「寝てくればよかったのに。」

 緑雨が俺の顔を覗き込むようにして、薄く笑った。

 なぜ。

 俺はそう問いかえしそうになって、慌てて口をつぐんだ。

 なぜかなんて分かりきっている。緑雨にとって俺が、どうでもいい存在だからだ。

 「寝ておいでよ。」

 緑雨が笑ったままの唇で言葉を継ぐ。

 「寝て、それでまた戻っておいで。そうしたら俺も、もとに戻るから。」

 もとに戻る?

 意味が分からず、俺は黙って緑雨の顔を見上げた。

 すると、想像していたよりも数倍真面目な顔で緑雨が俺を見下ろしていた。

 笑っているのは唇だけで、その目は妙に真剣で、俺は言葉をなくした。

 なぜそんな顔をするのか理解ができなくて。

 「……緑雨?」

 抱かれた肩にかかる力が強くなる。

 俺は肩をぎりぎりと締め上げられながら、どうしていいのか見当もつかず、ただ緑雨を見上げていた。

 


 

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