3
バーの二階はごく狭い住居になっていた。古い映画に出て来る寄宿舎みたいに飴色の床と家具。
葛西さんは部屋の奥のベッドに俺を座らせると、自分はすぐ目の前の床にしゃがみ込んだ。そして、真っ直ぐな目で俺を見つめる。
「緑雨は変わらないよ。始めてうちの店に顔を出したのは10年近く前だけど、その頃から全く変わってないし、変わる気だってないんだろうと思う。」
「……変わらない?」
「そう。天性のヒモ。心の内側に滑り込むのが上手で、セックスで相手を縛り付ける。」
心の内側に滑り込むのが上手で、セックスで相手を縛り付ける。
自覚はあった。緑雨に心の内側をさらしてしまった自覚も、セックスで縛りつけられてしまった自覚も。
俺の感情は、そのまま表情に現れていたのだろう。葛西さんが苦々しそうに眉を顰め、唇だけで笑った。
「なんで、小川さんが緑雨を連れて帰った日にもっと真剣に止めなかったんだろうって、今でも思ってる。お客様のプライベートには踏み込みすぎちゃいけないって思ってたけど、こんなことするよりはずっとましだよね。」
こんなこと。
言いながら葛西さんは俺の唇に浅いキスを落とした。
俺はじっと黙って座っていた。
緑雨のことが頭を離れなかった。こんな雨の日、緑雨は誰もいないあの部屋で、いつものように眠っているのだろう。俺が玄関のドアを開ける音が聞こえたら、起きあがって『お帰りなさい。』を言うために。
もう自分のセックスなんて忘れてしまったと言っていた緑雨。思い出すまで側にいて、と頼んだのは俺の方だ。確かに。
「緑雨のこと、考えてるね。」
ぽつりと葛西さんが言った。
俺は黙って首を横に振った。
「嘘はつかなくていいよ。緑雨のこと考えてたんだとしても、今夜は帰す気ないから。」
淡々とした、低い声だった。俺はどうしていいのか分からないまま、葛西さんの手に従ってベッドに身を横たえた。
葛西さんが静かに俺の上に覆い被さり、長い口づけが降ってくる。
そのとき俺は確かに、だめだ、と思った。
なぜだかは分からない。ただ強烈に、こんなことはだめだと思った。
「ごめんなさい、」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。
葛西さんも驚いたようで、俺の首筋を辿っていた唇が止まった。
ごめんなさい、ごめんなさい、
繰り返しながら俺は葛西さんを押しのけ、ベッドから転がり落ちた。
「小川さん、」
葛西さんの声が追ってくるのにも構わず、俺はそのまま階段を駆け下り、バーから飛び出していた。
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