せめて今夜の薬指
やつれたね。
葛西さんの第一声はそれだった。
やつれた。そんな自覚のない俺は、驚いて自分の頬を両手で挟んだ。
「そう、ですか?」
「うん。なんか、不健康そうになったよ。」
葛西さんのお店に来るのは久しぶりだった。家で緑雨が待っているから……正確には彼は俺なんか待っていないけど、とにかく家に帰れば緑雨がいるから……仕事帰りにバーに寄ることがなくなっていたのだ。
それが今日はひどい雨が降っていて、その雨を電車の窓から見ていたら、ふと葛西さんに会いたくなった。雨の日はバーのお客さんが少なくて、いつもより葛西さんに気にかけてもらえると、内心で思っているからだろうか。
思っていた通り、バーに先客はいなかった。葛西さんはカウンターの中で静かにグラスを磨いていて、俺はその姿を見て妙に安心し、一瞬涙さえ流しそうになったほどだった。
葛西さんは、俺がカウンターに座ると、深く長い息をついた。
「まだ緑雨を追い出してないんでしょ。」
なんで分かったのだ、と驚いていると、葛西さんは俺の前にきれいなピンク色の液体が入ったグラスを置いた。
「今日はノンアルコールしか飲ませないよ。やつれすぎだ。」
やつれすぎ。家には体重計がないので、痩せたかどうだかは分からない。ただ、言われてみれば毎朝洗面のときに鏡で見る自分の顔は、なんとなく白っぽくなってきている気がした。
葛西さんが作ってくれたノンアルコールのカクテルは、甘くて優しい味がした。
「おいしい。」
「そう。よかった。」
それじゃあ、と、葛西さんはグラス磨きに戻りながら言った。
「今日はもう店閉めるから、俺の家に来ない?」
一瞬、なにを言われているか分からなかった。葛西さんの家? 誘われるのは初めてだったし、何で誘われているのかも分からなかった。
ぽかんと葛西さんを見上げていると、彼はふわりと笑った。皮肉屋できれいな無表情がウリの彼とは思えないような、それはやわらかな微笑だった。ただ、そのやわらかさの奥に、何か違う色がある。
その色が何かわからず、俺は目を細めた。
すると葛西さんが、大きくて薄い手のひらで、俺の両目を覆った。
「小川さんにその気がないのは分かってるけど、そんな目で見ないで。悪いことしてる気分になる。」
「悪いことなんて、葛西さんがするわけないですよ。」
咄嗟に口から出た台詞だった。葛西さんは俺の目から手を離さないまま、そんなことないよ、と言った。その声は、妙に沈んでいた。
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