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「ケイスケは飲み屋があんまり似合わないよね。仕事でなにか嫌なことでもあったの? それとも、見た目に反してお酒好きとか?」
緑雨に問われて、言葉に詰まった。
仕事で嫌なことはなかった。毎日同じようなことを繰り返しているだけだし、心の殺し方は慣れているから、上司や顧客からの心無い言葉くらいで胸を痛めたりもしない。
酒は、嫌いではないが得意ではなかった。葛西さんに薄くて甘い飲み物を作ってもらってゆっくりすするのが関の山だ。
つまり俺は、ただ家に帰りたくなかったのだ。一人の部屋に入り、電気をつけて、テレビもつける。そうやって部屋の暗さと静かさをごまかす作業を、今日はどうしてもする気になれなかった。
身に馴染んだ作業のはずだ。だって、子供の頃から俺はその作業を毎日繰り返してきた。
それでも、今日はどうしても一人になりたくない、という日だってある。脈絡なく、何もかもが虚しくなってしまうような日。
黙り込んだ俺の肩に、緑雨が腕を回した。
そのタイミングは絶妙で、もう少し早くても遅くても、俺はその腕を振り払っていただろう。そもそも初対面の人に振れられるのは得意じゃないから。
「……おかえりなさいって、言ってほしいだけ。でも俺、一人だから……。」
緑雨のペースにつられて飲んだ酒が、頭に回っていた。思考がふわふわして、ろくなことを考えられない。
「俺が言ってあげようか。」
抱いた肩を引き寄せながら、緑雨が俺の耳元で囁いた。
「行くとこないんだよね、俺。」
雲の上にいるみたいな思考のまま、俺は緑雨の顔を覗き込んだ。
「ほんとに?」
自分の口調が妙に幼くなっている自覚はあった。それは、芯から寂しかった子供の頃に戻ったみたいに。
「ほんと。」
緑雨は軽い口調で請負い、俺を立ち上がらせた。
店の勘定は、俺が払った。その時からもう、緑雨は俺に寄生する気でしかなかったんだろう。
それでも一人で家に帰れない俺は、緑雨に肩を抱かれたまま店を出るしかなかった。
小川さん、と、一瞬だけ葛西さんの声が耳をかすめた。けれどもう、俺にはその声の真意を確かめるような理性は残っていなかった。
俺の家は、バーから歩いて10分くらいだ。一人ではどうしても歩けなかったその10分間を、緑雨が埋めてくれる。
認めたくない。本当に全然認めたくなんてないのだけれど、俺はその時にはもう、緑雨に恋をしていたのだと思う。
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