2
トイレから戻ってきた緑雨は、ちらりと葛西さんに目をやった。多分、彼が俺にした忠告くらい、緑雨は気がついていた。
「名前は?」
緑雨が俺に訊いた。
俺はためらった後、小川、と答えた。酒が入っていなければ、本名なんて教えなかっただろう。
「下の名前が聞きたいな。」
緑雨が笑ったままの唇で言い、俺はまたためらった後、偽名を適当に答えようとした。
すると俺が口を開く前に緑雨が、嘘ならいらないや、と言葉を投げ出した。
俺は驚いて緑雨を見た。初めて正面から、視線が交わる。
「身構えながら話すのは可愛いと思うけどね。嘘は寂しくなる。」
今思えば、これだって俺に罪悪感を植えつけるための緑雨の手口。自分こそ嘘で固めたプロフィールをしているくせに、その時緑雨は切なげに目を細めてすらいた。
「……圭佑。」
教えてしまったフルネーム。そこでもう俺は、緑雨との勝負に負けていたのだと思う。その時は勝負が始まっていることにすら気がついていなかったけれど。
葛西さんがこちらを横目で窺っているのが分かった。心配されている。つまり緑雨は、この界隈で悪名が知れ渡っているタイプの人間なんだろう。
関わっちゃだめだ。
けれどそう思うことは、緑雨を意識するということだった。
肩が触れ合いそうな距離に座る、きれいな顔の男。
挙動不審になる俺を見て、緑雨はくすりと笑う。
「ほんとにかわいいね、ケイスケは。」
かわいいなんて、とうにはたちも越えた大の男に言うような台詞じゃない。
俺は戸惑って顔を伏せた。
その顎先を、緑雨の指先が捉えて持ち上げた。なんの労働にも従事したことがないと物語るような、白くなめらかな指をしていた。
「下、向かないでよ。話し相手になってくれない?」
「俺は、つまらないから……。」
とっさに出た台詞は、けれど本心だった。そしてそのときにはもう俺は、緑雨に嫌われたくないと思っていたのだろう。そうじゃなかったら、俺はつまらない人間だ、と防御線をわざわざ引いたりしない。ただ、黙って席を立てばいいだけだ。
いいよ、と、緑雨が目を細めて俺を見た。
この男は、もうすでに俺に恋をしているのではないだろうかと、そう思わせるくらいの視線をしていた。
「つまらなくていいよ。俺はケイスケと話したいんだ。」
俺が完全に落ちたのは緑雨のこの台詞だった。
だって、これまで俺と話したいだなんて言ってくれた人はいなかったから。それは、俺の両親でさえも。
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