せめて今夜の薬指

美里

愛も恋もしない男

なんでこんな男を好きになってしまったんだろう、と考える。

 愛も恋もしない男。

 ただ、金とねぐらのためだけに、男とも女とも寝ている男。

 はじめはふと、思っただけだ。家に帰ったら誰かに『おかえりなさい』と言われる生活をしてみたいな、と。

 俺は親なんてほとんどいないような環境で育ったから、そんな生活はテレビドラマの中でしか見たことがなかった。

 だから、行くところがないと言う緑雨をうっかり拾ってしまった。

 どうしても家で一人になりたくない気分のときに寄る、小さなゲイバー。そこのカウンターで隣りに座ったのが緑雨だった。

 ちらりと一瞬見たときから、顔のいい男だな、と思いはした。緑雨は多分、俺に見られていることなど百も承知で、静かにジントニックをすすっていた。

 話しかけられたのは、俺も酒が回って頭の方は回らなくなっていった頃。

 『ここ、よく来るんですか?』

 ありきたりの言葉は、一人でゲイバーなんかにいると、よくかけられるタイプのものだった。

 『たまに。』

 とだけ俺は答えた。まだ緑雨に対して警戒をしていたのだと思う。

 すると緑雨はちょっと笑って、だよね、と言った。こんな美人、しょっちゅう来てたら顔覚えてるもんな、と。

 見え透いたお世辞だな、と思った。俺は美人なんかじゃない。平凡を絵に書いたような顔をしている。

 そんな俺の表情を読み取ったのか、緑雨は本当だよ、と言葉を重ねた。

 『あんた、きれいだよ。なんだろう。雰囲気かな。あんま一人で飲み歩かないほうがいいよ。誘蛾灯みたいだ。』

 誘蛾灯みたい。

 独特な表現をする男だな、と思った。

 黙り込んだ俺に、緑雨は破顔一笑した。そうすると、整いすぎて冷たい印象の顔立ちが、一気に甘く崩れる。

 『身構えながら話すね。臆病なのかな。』

 多分、その言葉だと思う。俺が完全に緑雨に意識を持っていかれたのは。

 けれどそこで緑雨は、ふいとトイレに立っていった。肩透かしを食らったようで、俺は戸惑った。その背中に手を伸ばしかける自分が不思議だった。

 今ならあの距離感も、緑雨の作戦だと分かるけれど。

 『緑雨はやめといたほうがいいよ。』

 こっそり囁いてくれたのは、カウンターの中でグラスを磨いていた、バーテンダーの葛西さんだった。

 視線はグラスに落としたまま、淡々と言葉を紡ぐ。

 『遊びなれてるタイプならいいけど、小川さんは違うでしょ。やめといたほうがいい。』

 今になって俺は、その時の葛西さんの注意に従わなかったことを後悔している。




 

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