第3話

 「ぼくらは、ずっと一緒にいるつもりなんです。」

 ある日友人に尋ねられた、本当に付き合うのかって、そいつはぼくの大学時代の知り合いで、お前、そんなに地味な女が好きだったのかって、驚かれたんだ。

 それにあまりはばかるということを知らない男だったから、好の目の前ではっきりと、お前ら付き合うのかって言いやがったんだ。

 好は、目をきょろりと回し困惑していた。それはそうだ、初対面でチャラそうな男からそんなことを言われるなんて、不快だって言ってやり返す女だっているくらいの事態だろう。

 でも、好はただぼくの手を握り締めていた。

 その汗ばんだ手が愛おしくて、ぼくはさながら何かのスイッチが入った演者のように、そいつを睨みつけながら好の手を強く握り、「そうだよ。」と言ったのだ。

 お前キャラ違い過ぎるだろ、とそいつは言葉を捨てながら静かに去って行った。

 確かに、申し訳ないがその通りで、ぼくは至ってクソ野郎だったから、そいつがそう思うのだって仕方が無いって分かっている。でも、好と出会ってから、ぼくは大人になって、男になった。

 過去がなんだって、ぼくは今、ただ彼女を愛している、それだけでいい。

 うん、それだけでいいはずだったのに、やっぱりぼくはついていない。いや、ついていないというか、まあ自業自得なのかもしれない。

 今、ぼくは殺されかけている。

 こんな呑気に昔のことを思い出していられるのも、あまりにも衰弱して、退屈で、死にそうだったからで、つまり今ぼくは大ピンチの真っ最中だった。

 逃れられるなら逃れたい、けれど手足は縛られ、身動きはとれない。この状況でどうすれば良いのか、今の所一つとして思い当たらない。

 「…助けてください。」

 みっともないような気はするけれど、誰かに聞こえるかもしれないと思って、今日何度目かと分からないくらいになっている、救助要請の言葉を口にする。

 一体、何だって言うんだ。

 ぼくは国家公務員であって、でもそれだけで、薄給だし大してお金など持っていない。なのに、なぜぼくを狙うのだろう、考えてみれば考えてみる程、ぼくは何が何だか分からなかった。

 だってそれほどひどい状態だったから、こんな命にかかわるような仕打ちをするなんて、それに見合う何かをした覚えなど一向に無かった。

*「早く帰らなくては。」

 セリフの様な言葉を口にして、ぼくは正気を保ちたい、その意志の表れにしてはいささか、ダサ過ぎると笑いたくなった。

 でも、これは本音なんだ。

 今日は早く帰って妻と月に一度の食事に行かなくてはいけない、約束したから、だから破る訳にはいかない、いや正直に言えばこんな状況で、それはどうでもいいことなのかもしれないが、でもやっぱりそういうことにすがっていないとやっていられない。

 今にも死にそう、それはリアルな話だった。

 額からは出血が、拘束された時に目を傷つけられたのだろうか、片目がよく見えない。

 もしかしたら血が滲んで目に入ってそういうことなのかもしれない、でももう大量の出血があって、手足が動かないから止血もできない。  

 ドクドクと流れ続ける血の音を聞きながら、ぼくの意識は遠くなった。


 結局、伶さんと一緒に暮らして良かったのだと思う。

 忙しい彼女に合わせて、また他人という距離感があって、ぼくは自分のことを自分でしていた。

 でも、伶さんの生活を侵害したくないという思いがあったから、彼女のことには手を出さないで、お互いがお互いのことを自分でとりなしていた。

*「ふーん、深司ってそれ好きなんだ。」

 「まあね、伶さんと暮らし始めて、暇だったから買ってみたんだけど、すごく面白いんだ。」

 「て、あなたもう高校生でしょ?ガキみたい。」

 「だろうね、でもぼくはこういう物を遠ざけられていたから、買ったこと、無かったんだ。」

 手には旧式のゲームが掴まれていて、RPGをやっている。

 さらわれたお姫様を助けに行くという、王道中の王道を行っていて、でもストーリーというよりは、ただそれも含めてすべてのものに対しての熱量が強く、そういう所に感動していた。

 いや、友達に家でやったことはあるけれど、しっかりじっくり一人でプレイするということはあまりしていない、だから安かったしこの田舎に来るしかなかった絶望もあいまって、ぼくはそれを手に取った。

 「私もさ、それやったことあるのよ。私がまだ、高校生の頃だったわよね、懐かしい。」

 「へえ、伶さんにも高校の頃ってあったんだね。」

 「皮肉でしょ、でも私はまだ若いのよ。見たら分かるじゃない。」

 僕は苦笑しながらはいはいと伶さんの目をじっくりと見た。

 「分かってるよ、伶さんは若いよね。」

 「若いわよ。」

 伶さんといると気楽だった、わずらわしい、と感じることが無いのだ、多分両親といたらわずらわしいと思っていたことでさえ、伶さんとこうやって暮らしているとあまり感じない。

 ぼくは、何だか一足早く大人になったような気分だった。

 「じゃあ、とりあえず行ってくるよ。」

 高校は自転車でかなり走らないとたどり着けない場所にあり、ぼくは伶さんよりもずっと早く家を出る。

 伶さんは事務の仕事をしており、近くの工場で勤務している。

 工場って人が多いのに、伶さんみたいな良い人にふさわしいって人、いないのかな。たまにぼんやりと、一人でいることを嘆き、自虐する伶さんを見ながら思うことがある。

 でもぼくには分からない、他人の事情なんて詮索するべきではない、そんなことは、野暮だと思うから。

 「行って来なさい。」

 伶さんはそう言って、自分の朝食を食べていた。

 はあ、どれだけ上っても辿り着かない、地獄のようにうねり続け上り続ける坂があり、ぼくはいつもそこでバテている。多分他の人もそうで、途中には休憩所というか、自販機コーナーのようなものが点在していた。

 ぼくもたまには、と思いベンチに腰掛けコーヒーを飲む。

 息切れ寸前だっていうのに、なぜかぼくの体はコーヒーを求めていた。

*「うめぇ…。」

 疲れ過ぎておっさんの様な呟きに、ぐだっとした姿勢まで追加してしまい、誰も通らないことを祈るしかなかった。

 朝早く起きて、毎日勉強している。  

 勉強って、素晴らしい。退屈に飽きて、何かしなくてはと思って始めただけだけど、ぼくは救われた。

 朝起きることに苦痛を感じず、むしろ喜ばしくさえある、何もしていないという空白を、こいつはすっかりと埋めてくれる、だからのめり込んだ。

 のめり込むたびに、ぼくはただ救われていた。

 そして、毎日の通学という重労働に加え、勉強という祈りを加味して、高校ではあまり人と関わらなかった。

 というか、誰も関わってこなかったし、ぼくも関わろうとはしていなかったから、そうやって平穏に日常は過ぎていき、でもふと過去のことが頭を過ぎって、そもそも、ぼくは万引きをしたという理由で、田舎に送られたのだ、でも、そんな事をした覚えはない、全く一つとして心当たりなどないのだから。

 正直、証拠だと言って渡された資料を見て、あ、ぼくだと、やってないと思っているぼくでさえ疑わなかった。

 けれど、実感がない。

 なぜだろう、東京へ帰ることをやっぱり望みながら、受験へと日々を費やしている中で、ぼくはそんなことばかりを考えるようになった。


 あの子は、何一つ分かっていない。

 それは、誰も教えてなどくれないから、あまり仲が良くない姉が、泣きついてきたから何だと訝しんだ。

 「何?久しぶりじゃない。急に電話だなんて、どうしたの?」

 「いや、あのね。」

 姉は、本来はズボラである癖に、やたらと神経質な面を持ち、それが言葉に表れていた。

 「だから、ちょっと頼みたいことがあって。」

 幼い頃からプライドの高かった姉が、そんなことを言うなんて、少し信じられなかった。けど、姉は相当急いでいるようで、頓着せずにすぐに言葉を繋いだ。

 「息子、預かって欲しいの。」

*「え?ちょっと待ってよ。深司のことでしょ?でも私、ほとんど会ったことないのよ。別に、暇だし良いんだけど急だから…びっくりしたし何でって感じよ。」

 「ごめん、お願いしていい?」

 姉は、私に謝ったことなど一度もない、なのにそれをするってことは、ずっと会っていない内に年を取り大人になったのか、もしくはそれ相応の事情があるかの二択だと思う。

 どちらだろう、でも姉の狼狽ぶりからして後者だ。

 仕方ない、昔から姉の面倒はどちらかと言うと見られているというより見ていた。

 神経質でいつも世界を怖がっていたあの姉は今、教師として仕事をしている。学校なんて嫌いだったはずなのに、むしろそれが何か執着を引き寄せたのかもしれない。

 「分かったよ、しばらくならいいわ。」

 観念して私はそう言った。

 そして、姉は私に深司を押し付けた。

 しばらくして、深司から事情を聞いた、自分が万引きの疑いをかけられ学校へ通えていないこと、そのせいで母が、参っていること。

 聞いてみれば、話してみれば深司はやけにしっかりしていて話しやすい男の子だと思った。

 影もなく屈託のない、でも。

 何かあることは分かっていた。

 深司を引き渡す時の、姉のおびえた顔、それだけは忘れられなかった。

*注意深く観察していた、何があるのかと知りたかったのだ。

 だって一緒に暮らすんだし、事情を詮索しないではいられなかったし、やっぱり姉の様子の理由が気になっていて、甥に対して不躾だなあ、と思いながらもじっくりと見ることをやめられなかった。

 でも、対象的に深司はあまり頓着していないようで、私がそんな行動を取っていることを、気にも止めていないようだった。

 だから段々不安は薄れていって、私もあまり考えることをしなくなっていた。

 「深司。」

 「何?仕事早かったね、いつもよりずいぶん早いから、驚いた。」

 「まあね。」

 ほら、普通じゃない。

 だからきっと奇特な姉が、ただ息子と上手く関係を築けていなくて、それだけで、この子は普通なのだと、思っていた。

 思っていたのよ、でも違った。

 全く違った、深司は本当の意味で奇特な男の子だ、だって、見てしまったから、もう知ってしまったから仕方がない。

 深司には、深司じゃない人間が沈んでいる。深司は、そのことには気付いていない。

 私はそれを間近で見て、ひどく驚いてしまった。身近に、そんな人間が存在することなんて、無かったから。

 多重人格ってやつ、なんだと思う。

 すごく悩んで病院に相談を持ちかけた、それでしばらく様子を見ることになって今に至る。

*「深司君はですね。」

 「はい。」

 「ちょっと大変ですね、本人は全く気付いていないというし、厄介だ。」

 「そうなんです、私。姉からあの子を預かっていて、でも見てしまったんです。」

 「そうなんですね…。」

 医者はやけに深刻そうな顔をして、そう言った。

 深司を病院に連れてきなさいと言われているけれど、姉に止められている。病院なんて、深司が精神的に病んでるっていうの?そんなわけないじゃない、絶対に連れて行かないで、と念を押されているから、連れて行きたくてもできないでいた。

 けど、「深司、帰ったの?」と居間でくつろぐ彼に聞いたら、「うん…、疲れた。」こんなやり取りだけをしているのなら、問題はない、そう思えるのに、この前の、あの子。

 あれ、深司じゃないか?

 会社からの帰り道、見慣れた姿の高校生が歩いている様子を見て、声をかけようと息を吸ったんだけど、でも。

 「………。」

 私は、口を閉ざした。

 深司の目の前には怪我をして倒れている同じ高校の生徒のような人がいて、ただ立っている深司の姿からは狂気が満ち溢れていた。

 頬には返り血のようなものが付き、手には血が滴るこぶしがあって、私は何も言えなかった。というか走り帰った、何も考えずに一目散に、逃げた。

 もしかしたら何かの間違いかもしれないと思い、普通に家の扉を開けて、「深司いる?」と聞いた。

 いてくれ、と願った。

 そして、「ああ、いる。」という返事が聞こえて、私はひどく安堵していた。

 「何だ良かった、実はさ、帰りに怖い…。」

 言いかけた口が固まった。

 深司の傍らにあるかばんにはその時と一緒のものであって、そしてどす黒い返り血がこびりついていた。

 「それ…どうしたの?」

 私は震えながらそう口にしていた。

 しかし深司は、「え?どれ?」と言い、私が指をさしたかばんを持ち上げてきょろきょろと見回している。そして、「うわ何これ?絵の具かよ、どっかでくっつけたのかな。」そういう深司の目には嘘が一つもなく、私は虚脱した。

 つまり、こういうことなのかもしれない。私は頭の中で仮説を立てる。

 深司は、自分が犯罪を行っているという事実を、知らない。だから、だから。深司の意識とは違う部分が、きっとそれを行っているのだろう。

 これは、最早結論だった。

 深司はただ、こちらを不思議そうに伺っているだけだった。

 「お風呂入りなさい。」

 「ああ、そうだった。」

 私はとにかく、冷静になりたかった。

 目の前で無邪気にくつろいでいた、自分の甥がひどく怖かった。だから私も、早く風呂に入って、心を温めたかったのだ。

*私はそれからしばらく、深司を見ないようにして過ごす。

 そして、私の方が病院に行くハメになってしまった。

 あまりにもショックが大きいと自分の方が壊れてしまうのだと、その時初めて知った。

 

 血みどろになりながら殴られるの、初めてだろ?

 ずっと誰もいなかったのに薄暗い部屋の中でそう声がこだました。

 暗すぎてどこから聞こえているのか分からない、ただ一度飛んだ意識が戻ってきたことだけは分かる。

 頭は重く、正直意識が戻ってきたことを後悔するレベルで、体もダルく気力が持たない。

 「………。」

 誰かが、いる気配がするから喋ろうとするんだけど、口から言葉が出ずただパクパクと動かすことしかできない

 仕方なくぼんやりと前を見ていると、掴まれた。

 「俺は、お前みたいに人を壊すことはしない。」

 どうやらぼくを襲った人物が、そう呟いているのだろう。

 「………。」

 何かを言ってやりたい激情を一瞬感じ、でもまたしぼみ、無言が世界に響き渡る。

 「散々殴ったから、もう開放してやる。」

 周りは暗く、声の方向も存在もはっきりとは掴めない、だけどぼくを監禁している彼の方ははっきりと、ぼくの存在を掴んでいるようだ。

 もしかしたら、目を傷つけられて前が見えていないのかもしれないし、もしくは彼の方が暗視ゴーグルでもかけているのだろうか。

 ただ淡々と繰り返される言葉にぼんやりとまばたきだけをして、でも何だか解放してくれるというから、息を呑んでその時を待った。

*まだだろうか、まだだろうか。それだけを呟きながら、ぼくはただ時が過ぎるのを待っていた。


 「いらっしゃいませ。」

 明るいセリフがこだまする、ふらふらとした足つきのままぼくは町をさまよいたまに行くファーストフード店へと足を運んだ。さすがに、この状態では家に帰れない、かといって警察だとかなんだとか、言ったらどうなるか、と刃物を突き付けられ脅されたから、もう疲れ切っていてそんな気力もないし、とりあえず何か腹にいれたかったのだ。

 「えっと…、ハンバーガーとコーラ。」

 「ハンバーガーとコーラですね、かしこまりました。番号札でお呼びいたしますので、少しお待ちください。」

 「はい、ありがとうございます。」

 若い女性が、きびきびとそう言っていた。はあ、やっと現実に戻って来たような気がする。今までは一体どこにいたというのだろう、目隠しをされたまま降ろされたのは見知った町だった。

 ぼくと好が暮らしている町、特に思い入れがあって住んでいるわけではないが、もう長く暮らしているからここに来るとひどく安心する。周りは住宅街で、そこに住む人たちが生活するうえで必要なものが駅前に集まっている。

 このお店も、そこの一角にあった。

 見渡すと仕事帰り風のサラリーマンがいて、すごく疲れているようだった。けれど手には理工学書があり、ああ、大人になっても勉強がしたいっていう人なんだなあ、なんて思った。

 妻との食事の約束を反故にする形になって、そのために仕事を早抜けしてきたというのに、そのタイミングを狙ったのだろうか、ぼくはあっさりと拘束された。

 「156番さま。」

 「…あ、はい。」

 ぼくだ、やっと来た。店内は結構混んでいて、ぼくは先に席を陣取り頼んでいた飲み物を口にしながら一息ついた。ごくごくと飲んでいく内に勢いがついて、頼んだメニューをすぐ平らげてしまった。

 「好…に連絡。」

 お腹が満たったら、理性まで戻って来たのか先ほどまでとは打って変わりすぐに妻に連絡を入れた。

 「あ、今日はごめん。ちょっと急用があってさ。」

 心配させたくなかった、だからコートを脱げばボロボロの、自分の姿など見せたくなかった。たまたま持っていた帽子があったから、顔の傷もあまり目立たないでいられた。

 「…うん、ちょっと寂しかった。」

 「ごめんごめん、埋め合わせはするから。もっと良い所、行こうよ。」

 「…分かった。仕事、ほどほどにしてね、あなたの健康が一番大事なんだから。」

 ぼくは、妻にそう言葉をかけられて、一瞬息が詰まった。

 泣きそうになった、散々誰かも分からない人物に殴られ続け、それですごく自尊心が低下していることに気付かなかったのだ。

 誰かがこの世の中で自分を大事に思っていてくれる、それだけですごく救われた。ぼくは、残っていたコーラを、ズズッとゆっくり啜って、妻との会話を終えた。

 今日は、もう帰らない。

 そう決めて近くのビジネスホテルに泊まった。


*園木深司。

 私達はとにかく、この人に恨みを持っている。

 最初は個々だった、そういう人間が存在していることなんて、知らなかった。

 人生の中で誰かに強い恨みを持つなんて、きっとあまり無いのではないか、でも。

 この人はテレビでよく専門家と名乗り現れる、その度に私の心は荒れ狂ったし、とにかくそれだけが嫌で日々が憂鬱だった。

 「この人知ってるんです。」

 街の中で大仰に持論を語る園木がウィンドウに映し出されていて、声まではっきり聞こえるから、吐き気を催しながら立ちすくんでいたのだ。

 そうしたら若い女性が、園木についてそう語りかけてきた。

 急にそんなことを言われて反応に困ったが、彼女は真面目そうな顔を崩すことなくぼんやりとした目を画面に向け、語り始めた。

 「この人、最低なんです。よくテレビに出ていられるなといつも、思うんです。せめて顔さえ見せてくれなければいいのに、いつもいるのよ。」

 その時初めて、園木を良く思っていない人間を知った。だってテレビで見ていれば、園木は全く善良で、悪いところが見当たらない。

 私だって、夫が園木に殴られ体が不自由になっていなければ、良さそうな人だと認識していただろう。

 家に帰り、外に出ることもままならない夫が、悔しそうに唇を噛みながらテレビを見ている姿は、痛々しかった。

 あまりにも理不尽で、目を背けたかった。

*「……私も、そう思っています。」

 「えっ?」

 彼女は目を見開いた、私も一緒に口を開く。

 お互いの視線と視線がからみ合い、私達は見つめ合った。

 それから、だんだんネットの書き込みなどで、園木を良く思っていない人物を幾人か見つけ、仲間に引き入れた。

 彼等はコンタクトを取ると、最初は引き気味だったのに次第に活発になり私達の想像を超えてしまう程、過激になった。

 「ねえ、私達がしていることって正しいのかしら。」

 私は何気なく彼女に尋ねた。彼女は、最初に見た時の陰鬱なTシャツにスウェットという軽装から小綺麗なワンピースを切るまでに回復していた。回復って、でもそうなのだ。

 彼女はその時に初めて、自らの美しさを周りに知らしめた。

 かくいう私は、友人から最近悩みでもあるのか、暗い、連絡がつかないと言われるようになった。

 「大丈夫、私今やっていることがあるの。」

 嬉々とした顔でそういう私がさぞ怖かったのだろう、もうあまり昔からの知り合いと連絡を取ることは無くなっていた。

 寂しくは、でも無かった。

 そういう気分になっても空洞の中でうずくまる彼を見るよりは全てがマシだったから。

 「夕飯、簡単にしか作れないの、ごめんね。」

 「………ああ、ありがとう。」

 彼は私のことを愛しているのだとその瞬間、いつも気づく。だってきっと、愛していなかったら私に八つ当たりをして、暴れているのだろうから。

 現に知り合った園木の被害者からはそういう人がいると聞いたことがある、私は恵まれているのだと思ったし、うずくまっている彼が愛おしくすらあった。

 必死に耐えながら、震えている、彼を見ないようにするために、私は園木を苦しめ続ける。


*ついに、この時が来た。やっと園木を陥落させることができる。

 「じゃあまず俺から。」

 「そうね、仲間になってやっと、行動に移せるのよ。」

 次第に増えていった園木を憎む人々は、口々にこれからのことを口ずさんでいる。

 やっと、やっと。

 やっとなのに、なぜだろう。

 私はこの人達が盛り上がる姿を見て、ひどく冷めた気分になっていた。

 何をやっているのだろう、もう分からなかった。

 冷静になれなかった、その代償がこれだろうか。

 私は群れが大きくなり、巨大化した彼等を横目に毎日陰鬱とした感情が渦巻くことに気づいている。

 日々大きくなるそれを目にして、私は足を、動かした。

 「あれ?最近多田さん見ていないよね。」

 「そうね、用事でもあるのかしら。」

 私の存在が今彼等の中でどうなっているのか、もう分からない。

 知りようがないから。

 今、私は夫を連れて故郷にいる。

 夫ではなく、私のふるさとだ。

 なれない様子でおどおどと周りの様子を窺っていた夫は、次第に誰も知っている人物のいない土地に安堵を覚えたのか、呼吸を、楽に繰り返している。

 柔和な笑みで私を触る、そうか、それだけで良かったんだ。

 無理なんてしないで、ただ、これが正解だったんだ。

 「良かったね。」

 「ああ、良かったよ。」

 夫の顔は、笑っていた。

 

*理不尽だ、なぜ?

 「はあ、はあ、はあ。」

 テレビに出演するとよく分からない連中から狙われるという話を聞いたことがある、しかし、それにしては過激すぎないか?一応、テレビ出演に当たってマネジメントを手掛けてもらっている所属事務所に、これってどうなのか、と打診をしたことがある。正直、ここ最近は特にひどい、しかし彼らはぼくのことを知っていると言い、誰かに言いふらしたらタダじゃおかない、と脅しを必ず吐く。

 ぼくは、でもそんなにひどい目に合っているのならば、ちゃんと被害をしかるべきところに訴えるのが筋だとは分かっている。

 けれど、実は。

 ぼくはもう気付いているのだ。

 ぼくの中に何かがあるってことを、知っている。

 高校生の頃はあまり分からなかったけれど、というか全く、認識すらなかったけれど、一緒に暮らしていた伶さんはどうやら知っているようだった。そして、たまに複雑な目をしながらぼくを見つめている時があって、ぼくは何かを言いたかったが、言えなかった。こらえるとかそういうことじゃなく、何を口にすればいいのかが分からなかったのだ。

 そして、大学生になり一人で暮らすようになって、「ああ、そうか。」妙に納得できてしまったのだ。それは、一人暮らしに慣れ、大学生活に溶け込み始めていた時だった。

 「こんにちは。」

 「ああ、こんにちは。」

 割と一人でいることが多かったのだが、大学ってなんか高校までとは違って誰かと親しくしなくてはいけないとか、そういうことが無かったから、自然と付き合いが深くなっていくような男女が現れ始めた。

 気の合う彼らと言葉を交わすのは楽しかったし、ぼくは昔のことなんて忘れてただ充実した一大学生として日常を送っていた。

 「……お前。」

 「え?」

 いつも通りカフェテリアで昼食をとっていると、ある男が現れた。ぼくはそいつに見覚えが無かった。けれどそいつは恨みを込めたような目で、ぼくを見ていた。

 「何ですか?」 

 だからそう言うしかなかった、知らなかったし、周りには友人がいたし、ぼくにできることはそれだけだった。

 「とぼけんな!」

 顔中に絆創膏や何やら、傷を覆う物をつけまくっているその人物は、ぼくに向かって吠えた。

 ぼくらは顔を見合わせ席を移動しようかと目くばせをしていて、でも。

 「ひっ…。」

 ぼくは胸ぐらを掴まれ、そいつに睨みつけられて、

 「園木君!」

 よく一緒にいる女の子が悲鳴を上げた。そしてそいつはただぼくをじっとりと睨みつけるだけで、殴るのかと思ったが何もしなかった。

 ぼくは、その重い、何と言っていいのか分からないけれど、密度の詰まった感情の鋭さに、息を呑むしかなかった。

 「おい、お前やめろ。」

 連れてこられた職員が、そいつをぼくから引きはがしてどこかへ連れて行った。

 ぼくはただその後、床にへたり込むことしかできなかった。

*「………。」

 呆然としながらそこにしばらくいて、体に力が入るようになってから外へ出た。

 結構な騒ぎになってしまったから、あとで呼び出しというか、事情を聞かれる機会があったのだが、ぼくはただ、適当に話だけを合わせて、大事にはしてほしくないと伝えた。

 大事、だってぼくには心当たりがあったから。

 ぼくは記憶に存在しないそいつを見て、実は妙な既視感があった。決して、初対面だとは思えない。

 だけど言わなかった、言えなかった。

 誰に何を言えばいいのか思いつかなかった。

 「これ、ぼくのだ。」

 ぼくは、自分の私物に、つけた覚えの無い汚れが付着していることに気付いていた。

 高校生の頃まではたまにあるくらいで、そんなに気にしていなかった。

 けど、それは多分伶さんが洗っていてくれたのかもしれない。そう思っていたし、もう隠せない。

 ぼくの中には他人がいて、ぼくじゃないそいつがぼくの姿を使って何か悪いことをしている。

 知った瞬間は、体中が冷えるようだった。

 最初から全部無かったことにしたいくらい体中から焦りが湧き出てくる。

 しかし考えた所でどうしようも無かった。それなら仕方ない、見たくないものは見ないようにしよう。そう思うことにし、それから少し経った時に初めて薬という名前の飴を口にした。

 たいして美味しくもないそれがないと生きていけなくなったのはその時からだった。

*「ねえ、大丈夫なの?」

 好は、もう40代に差し掛かり、目にしわが寄るようになっていた。その目じりのしわは柔和にほほ笑む時にしかここ最近は見ていなかったというのに、ぼくが、日々何者かに襲われているせいで、不安をそのまま表すようになっていた。

 「大丈夫、ちょっと仕事が忙しくてね。」

 「そんなわけないじゃない!」

 好は、ぼくがちょっと目を見開く程大きな声を上げた。その勢いに少したじろぐ、そして。

 「あなた隠せていないわよ。殴られたような顔をして、体中傷だらけなのも知ってるの。ねえ、どうして隠すの?話してよ、あなた何か良くないことに巻き込まれているんでしょ?私心配で、居ても立っても居られないのよ…!」

 「えっと、ごめん。」

 僕はそれだけしか言えなかった。だって、完璧に隠せているはずなんじゃなかったっけ?どうして、ぼくは好を困らせているんだっけ?

 そういえば、ここ最近自分がまともでは無いような気が、今初めてしていた。

 好がぼくを困った様に見つめるその様子を見て初めて、気付いたのだ。

 「えっと、えっと。」

 ぼくが恥ずかしい程にうろたえていると、好はそっとぼくを抱きしめ、言った。

 「大丈夫、話して。」

 「………。」

 ぼくはもうその感覚のまま、逃げられない。

 そしてスルスルと口からは隠し事のないぼくの事実を、彼女にぶちまけてしまった。

 

 すごく着込んで、どこへ行くの?

 と隣の吉田さんに言われた。ワンピースに派手なカーディガン、そして髪にはリボンまで着けている。

 「ちょっと、遠くへ行かなくちゃいけなくて。」

 「そうなの、何だか素敵で、うらやましいわ。気を付けてね。」

 「ありがとうございます。」

 そう、吉田さんが言う通り、私はとても派手な姿をしながら、蹴りをつけに行く。

 夫は、歪んだ男だった。

 そんなのは結婚した当初から知っていた。紹介してくれた母もそれを分かっていたのだという、けれど絶対二人は気が合うと思うから、と言いながら私に夫を進めてくれた。

 そして、会ってみたらやっぱり母の言うとおりだった。

 この人は、私に似ている。

 この歪み具合が、とても似ている。

 しかし生活を共にしてみると夫は本当にやばい奴だった。けれど一度本気で好きになってしまったら、もう手放せない。

 私はだからその時、覚悟を決めた。

 「急な揺れにご注意ください。」

 乗り慣れない電車の車内アナウンスが、響いている。私は物慣れない場所にいるから、目ざとくその音を聞き取っている。 

*夫は、何も分かっていない。

 「ここね。」

 長く電車に揺られ、もう年で若くはないのだと思い知らされた。曇っていく気分に泣き出しそうな疲労を感じている。

 けれど、壊れてしまった夫のために、私は行くと決意したのだ。

 門扉は軽く、小衝くだけで開いた。

 人が住んでいるはずなのに、手入れのされていない建物が、その不健全さを際立たせている。

 「トントントン。」

 インターホンが壊れていて、いや機能させていないのかもしれない、とにかく電源が入っていなかったから戸を叩いた。

 しかし中からは軽快な音楽が響いている。

 この雰囲気とあまりにもミスマッチでより不気味さを増しているような気がしている。

 「いますか?」

 私は初対面なのに、不躾で無愛想な声を出す。なるべく不遜に、そう演じたのだ。

 「…どなた?」

 警戒する声が戸の前に現れる。

 そりゃそうか、いきなりこんな不自然なやつが自宅の前に来たらそう思うに違いない。

 「出てきなさいよ。」

 しかし私は更に威嚇を強める。

 遠慮なんかしてやらない、そんなものは必要ないと分かっているから。

 やっとそろそろと戸が開き、でも様子を確認するためにそれは開かれただけで、

 「うわっ。」

 でも私はタイミングを逃さなかった。しっかりとその隙を掴んで押し入った。

 「誰…?」

 彼女はまだ分かっていない。

 私はもうすでに分かっていると言うのに。

 「あなた、伶さんよね。」

 「………。」

 目の前の年老いた女性に、私は告げる。

 「ふざけんな。」

*「あんた、深司に何てことしてくれたのよ。」

 今までに出したことも無いセリフが現実の世界でこだましている。憚るものがない、憚る必要がない、それがどれ程私を獰猛にしていくのか、ひしひしと感じていた。

 「何って、あなた深司の何?」

 「妻よ。」

 伶さんは驚いた顔をしてこちらを見る。

 「ねえ、深司さんはね。確かに病気なのよ、それがあなたを恐がらせていたことは認めるわ。でもね、だからって何で、あの人に薬を渡し続けるのよ。あの人はそれで、どんどん壊れていっている。」

 「…そう。」

 でも彼女は悪いことに思い当たる節は無いといった表情で、私の言葉にうなずいただけだった。

 私は知っていたのだ、夫が、深司が恨みを持っている人たちから殴られているということを、でも。その時からスイッチが入ってしまったのか、ほんの少しだけだったその急襲を、激しく永続的なものだと思い込み、彼の中のまともはどんどん減っていってしまった。

 「ねえ!」

 私は声を荒げる。

 この人が、深司にそう言う薬を渡しているということを、私は探偵を使って調べ上げた。

 「………。」

 私の言葉が繋がらなくなったことを確認すると、彼女はぽつりとつぶやいた。

 「そうね、そうよ。」

 「…何で?」

 「それはさあ、私は深司のこと可愛がってたから、あの子が壊れてしまうのなら、こっそり薬を飲ませてやろうって思ったんだ。」

 「薬って、何の薬か分かっているの?」

 「分かっているよ。だって深司も分かっている。私のくれ、と言うのだから。」

 「それは…、あなたが深司さんを中毒にしたからよ。」

 「でも、あの子はそれで落ち着いたんだ。」

 「………。」

 「とにかく、もう深司さんには薬を渡さないで。」

 「私は…あの子が取りにくれば渡すつもりだ。だから、来させなければいい。」

 「チッ。」

 私は舌打ちをして部屋を出た。家を出た。

 言って何とかなるのなら、とっくにそうしている。けれど夫の生活には、人生には、もう取り返しのつかないことが山ほどあるのだ、だから私が何を言ったって、どうしようもない。

 元から取り除かなければ、夫はどんどん壊れて行ってしまう。

 自分の知りようのない部分があって、そこから人生が綻んでいく。夫はまさにそれだった、夫の多重人格による言動が、誰かを傷付け恨みを寄せ付け、確かに現実の話として何度か襲われたことがあるのだという。

 私は貯めていたお金を使って、探偵に調査を依頼した。

 そして分かったのは、夫はもうまともじゃないってことだけだ。

 襲われた後、自分で自分を殴っていたらしい、そう言う判断をつかさどる部分がもしかしたら壊れ始めているのかもしれない、だけど。私は夫を愛している。だから夫がどうにかなってしまっても、私が何とかする。

 その意志だけで、来たはずなのに。

 

 やっと家に帰りついた。

 できることはしたはずだった、のに。

 夫は書置きを残していなくなった。

 「ごめん、出て行く。」

 何でよ、私は叫ぶ。叫びながら泣いている。あまりにも似つかわしくないその姿がひどく滑稽に見えているはずなのに、私は恥ずかしいという感情すら抱くことができなかった。

*幾日か経って、それでも彼は仕事を辞め、テレビにも出演しなくなり、ぱったりと消息を途絶えさせた。

 私は、悔しくて仕方無かった。

 置いていけるの?その呪詛の言葉は弱った夫に、私のためを思って傷つけないように離れてくれた夫に、多分そうだと信じ込もうとしている自分に、全てが無意味になってしまった空白に、どこかに、向かってただ響いていた。


 「早くしてください。」

 「そんなこと言われたってさ、無理なものは無理だよ。」

 「でも早く、できるだけ急いで、お願いします。」

 「分かったから。」

 運転手はダルそうに、一つため息をついた。

 ぼくはとにかく急いでいる。

 離れなきゃ、現実から、僕が関わる全てから、逃れたい。

 理不尽なことなんて山ほどあって、でももう耐えられない。

 妻にももう、迷惑はかけられない。

 今思えばなぜテレビになど出演したのだろう、ぼくはただ進められるまま話に乗り続けた。

 社会人になってからはその浮遊感に溺れていた、その着地しない心地が快感で、ぼくは地面なんか見なかった。

*「そろそろ着きますよ。何でそんなに急いでるんです?」

 運転手は真夜中に車内に乗り込み興奮した様子で慌てているぼくを、いぶかしがりながらミラー越しに見ていた。

 そんなことされても、口にはしない。

 ただ押し黙っていたら彼も、とたんに興味を失ったようで目の前の道を走ることに集中し始めた。

 ぼくは、どこかへ行くつもりなどない、そんな必要なんてない。

 

 死のう、そう決めたのだ。

 薬って、死ぬまで抜けないって言うけれど、誇張ではなくそれは事実だから、少しまともに戻った瞬間にぼくは、それを決意した。

 きっと妻は悲しむだろうし、ぼくにはそんな彼女しか身内と呼べる人物はいなくて、他はみんな他人でしかなくて、そう考えると少し、いやかなり悲しいような気もしたのだが、でも平気だ。

 全然大丈夫、怖がっていたってそれはほんのちょっとの些細なことで、ぼくにはその全てがどうでもいいと思えるくらい、持っているものが1つもないことに思い当たる。

*降り立った場所は山の中で、こんなところまで来ると死ぬとか死なないとかどうでも良くなって、寒くて怖くて暗くて、そういう精神的な、物理的な、とにかく目の前の事象が目新しくて興奮して、ただぼんやりとしていた。

 だが帰るつもりはない、そんな気持ちではもういられない。正直、何だか全てがどうでも良くてくだらなかった。嫌だった、逃れたかった。

 目を閉じる、持参していた寝袋を土の上に広げる。これだけできっと、ぼくは死ねる。

 気づけば朝ではなくて、きっとどこか別の所、そう思えばグッスリ、眠ってしまえる気がした。


 「はあはあ…。」

 でも大丈夫、私は深司の持ち物にGPSをつけているから、運良く彼はそのチップが入っている手帳を身に着けていったようだ。

 けれど、場所が何だ?山奥じゃないか、そんな所良くなよ、全く。

 好さんから連絡を受けて、私はそれを伝えた。

 瞬間、安堵のため息をついた彼女を見て私はちょっと悔しかった。大事な甥は私じゃなくて、彼女のものなのだ。

 人生の中でそういう唯一人、それが彼女。

 でも私は教えてやった、深司の居場所は分かるってこと、大丈夫とかそんなことではない、けれど行けって、背中を押してやった。

 だって私が行ったってきっと、深司は帰ってこない、それが分かっているから彼女に頼んだ。

 彼女の声は、ちょっと湿っていてうっとおしかったけど。


 「…え?」

 頭が混乱している、だけどぼくが園木深司であることは分かる。

 生きてる、嘘だろ?

 生きていて良かったなんてヤワな感覚は、もう持ち合わせていなかった。何でだよ、まだ続くのかって、そういう類の絶望がぼくの中に確かに存在していた。

*「良かった、目ぇ、覚めたのね。」

 聞き覚えのある声がぼくにそう語りかけていた。

 好だ、そうか。ぼくは死ねなかったのか、瞬間なんだか暴れ出したいような焦燥感を感じたのだが、彼女はただ黙々と話し続ける。

 「あのね、伶さんが、あなたのおばさんがね、あなたがいる場所を把握していてくれたの。」

 「そう…。」

 「だから助かったのよ、本当に良かった。」

 好は泣いていた。でもぼくはそれを拭ってやることもせず、ずっと考えていた。

 次はいつ死にに行こうか、そんなことを。

 一度でダメだったのなら、次がある。

 そんなことを暗い顔をしながら考え続けていた。

 「じゃあ、目覚めたってお医者さんに伝えに行くから、待ってて。」

 好は急いだ様子で部屋を出た。

 ぼくは彼女の後ろ姿を見ながら、体が動かないことを感じていた。

 どうしよう、今すぐここから出て行って、早く死んでしまいたいのに、どうしよう。

 尋常じゃない精神だったのだと思う、ぼくの目はすごく虚ろだったし、本当は目を離したくなかったと後で好に聞いた。

 そしてしばらくした頃、ぼくは何年も目覚めることは無かった。

 運良く、そんな状態の怪しいぼくを見ていてくれる人がいて、その人がたまたまヤバい人がいると言って海に飛び込んだぼくを助けてくれなかったらきっともう死んでいた。


 「紅茶淹れたよ。」

 「うん、ありがとう。」

 「ねえあなたと一緒にいると幸せだわ。」

 「…ごめん。」

 「何言ってるのよ、私はね。あなたといたかった、だからずっと諦めなかったの。」

 「そうだったね、好。」

 静かな午後だった。ぼくたちは午前中お互いの仕事があったから終わった後に、一緒にくつろごうねと約束を交わしていた。

 平和だ、と思っている。

 ずっと死にたかったぼくを、失わないで支えてくれた彼女には、感謝しかない。ぼくは、だからもうどこへも行かないと誓う。何があっても絶対に、彼女の傍にいようと決めたから。

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小説 @rabbit090

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