第2話

 私は、いつだって損をしている、と思っていた。

 いや、この考え方が染み付いていて、世界を曇らせているなんて、思わなかったのだ。

*私の、周りで起きる物事はだいたい、ドラマになってしまいそうな程奇抜だった。

 生まれてから、死ぬまで。

 て、まだ死んでいないわよ。でもね、私は一度死のうとした。死にたくなかったけれど、本当は死にたくなかったけれど、嫌だったのよ。

 だって、だから、私はただ死にたかったのだ。

 あいつは、昔からの幼馴染だった。

 知り合ったのは小さい頃、でも学校とかではない、私達はこの国ではなく、もっと遠い異国で、奴隷のように働いていた。

 見た目は、日本人に近い、だから私は今吟次花絵なんて名前を持っているけど、本当の所は自分の名前なんて知りっこない。

 母もいない、父もいない、家族はいない、なのに今、何の不自由もなくこの豊かな国で男に笑顔を見せている。

 好きじゃない、好きじゃないんだから、誰一人だって、いや正確には好きと言ってもいいのかもしれない、そんないい男には出会っていた。

 けれど、私には、どうしても削れない記憶があって、そいつは死んでしまって、死んでしまったのなら仕方ないんだけど、忘れられなくて、それはなぜか、分かっている。

 私はちゃんと分かっている。

*「クイソ、来てるか?」

 夫は私の手を引き、歩き出す。

 それだけなら良かった、けれど夫は私を見せびらかしながら、町の中を歩いていたいだけで、この手のぬくもりにはじっとりとした嫌らしさしか混ざっていなくて、私は毎日朝、この人の隣で目覚めるたびに逃げ出したくなる。でもでも、逃げ出さないのは単純に、私にはもう行く当てが無いからだった。

 今までに生きてきた中で、一番安定し笑っていられる場所はここだったから、私は他人の子供を、血の繋がらないこの子を、「好、今日何食べる?」私は少したどたどしい日本語で、でもまだ方言の名残と思えるレベルで、小さい彼女に言葉をかける。

 初めて見た瞬間は可愛い、とは思えなかった。

 けれど、夫に押しつけられ、まあ暇だったし世話をしていたら、その物事を口を開けて、瞳孔を開いて、じっと見ているような仕草に、畏敬の念を抱いていた。

 私はそういうタイプでは無かったら、その神のような思慮深さに、心を奪われていた。

 そして、それが次第に可愛いという感情に変換されていくのを私は感じていて、多分他人でしかない夫とのただの日常の中で見つけた、小さな希望のような存在だった。

*「クイソってば。」

 呼ばれてハッとした、クイソとは私の異国での呼び名だ、そもそも、私はどこで生まれたのかが分からないし、ここも、どこも、全てが縁のない土地でしかなかった。

 「ごめん、気付かなかった。」

 「もう、おっちょこちょいだな。」

 「えへへ。」

 夫は、私のことをドジなのろまだと思っている。痩せていて、目が大きく可愛くて、そんなところを好きになったと前に言っていた。

 私がこの国に来て、行く当てもなく彷徨っていた時に、救ってくれた人が今の夫だった。夫は、独身ででもお金をすごく稼いでいた。事業をしているわけではないが、個人事業主として物販をしているらしい。やってみようと思うことを有無も言わさず手掛けていくと、割と成功すると彼は高らかに語っていた。

 だから、「何で私と結婚してくれたの?」と思った疑問を口にすると、「寂しかったから。」と見た目とは反して繊細な答えが返ってきた。

 夫は、いかにも豪遊しているといった風体で、ちょっと太っている。

 そして、「お前がいてくれて良かった。」とたまに何気ない時に言われることがある。でも、元妻との間に子供がいて、その子を引き取ると聞いた時にはすごく驚いた。だって、そうしたら私が育てることになるからだ。私は、自信が無かった。優しいというか、私にとっては穏やかな夫のために、でも子供まで育てることができるのだろうか、と。私は、そんなことをしてしまえる程、今の生活を続けたいのか、と。

 分かっている、私は夫に生かされている。この地縁もない国でたった一人、生きて行けるわけがない、そんなことは鼻から分かっている。

 私の、私は。

 「お母さん。」

 好は、そう言って私の手を強く握る。暖かくて、微笑ましい。この体温が私にいつも纏わりついていて、私は、こういう感覚を抱いたことが無かったから、ひどくくすぐったい。

 私が、私が知っているぬくもりはあいつだけで、でももうあいつは死んでしまったから。私は、家族を失ったのだ。誰にも頼れない状況で、お互いを大切に思い合える存在、その世界での唯一を、失ってしまった。

 なのに、「………。」好は静かな子だった、黙って私にくっついて、何かあると後ろに隠れる。とても可愛い。

 他人の子だから、なのかもしれない。私と好は、くっつきすぎず、離れすぎず、静かにいつも一緒にいた。

 夫が死んでも、ずっと。

 そしてついに、好が結婚して、それで。

 「お母さん、死なないで。」

 真っ暗な病室、ずっと体調が悪くて意識が飛んでいて、今がいつなのかすら分からない。

 私は、好の泣き顔を晴らそうとして、手を伸ばそうとするんだけど、届かない。

 好は、だからずっと泣いている。

 ごめんね、私はもう、死んでしまうのだから、好は家族と、幸せになってね。

 私はただ祈ることしかできない、体が不自由になってしまったから、声すら出せなくなってしまったから、ただ祈るのだ。

 好の幸せを。

*意識がすうっと遠くなり、また闇の中へと戻るのだと妙な穏やかさが自分を包んでいることにひどく安堵していた。

 


 「クイソ、クイソ。」

 「何?」

 「何って、逃げるぞ。」

 「…は?」

 私は動かなくなった体を動かしながら、賢明に彼にくっついていく。今、右足が不自由で、よく動かせない。

 日々の労働と窮屈な場所での寝食に体がもう耐えられなかったらしい。

 幼い時から逃げることを考えてはいた、けれどそれを実行できる気はしていなくて、私はただ苦しみ続けるぬるま湯を選んだ。

 なのに、やめてよ。

 「行かない、私は。」

 「……来い。」

 「行かないってば、見つかったらどうなると思ってるの?私は嫌よ、嫌なんだってば。」

 「それでも来い。」

 彼はそう言って、ズルズルと足を引きずりながら歩く私を引っ張った。

 そして、私も本当は逃げ出すことを痛切に望んでいたのだと、気付く。


 外の世界は、それ程開け放たれていて、ひたすら自由だった。


 私と、彼は一緒に暮らしている。

 逃げ出したから、国や、法律に縛られる生活をしなくていいから、プランターで野菜を栽培し、ほぼ時給自足の生活を続けている、というのも都市で生活するのには、お金が必要だったし、でも私達はバレるわけにはいかなかった。

*「ジャガイモ育ってるなあ…。」

 「そうね。」

 とりあえず、芋があれば植えることは無い。この場所は雨が少なく、あまり食物が豊富じゃなかったから町はひどく荒んでいた。人々は争い、奪い合った。私達は、でももうそんなところから離れていて、ただひっそりと二人だけで生きていて、なのに。

 「働くから。」

 「え?」

 「じゃあな。」

 「それ、どういうこと?」

 そう言ったのに彼は、もういなくなっていた。手にかばんを持ち急いで出て行ってしまった。

 そんな、今までは仕事なんてしないで、ひっそりと隠れ家を見つけて、点々と暮らしてきたのに、食料は栽培すればいいし、日銭を稼ぐために私は外で、少しだけ、仕事をしていたし、そのくらいはいい、別に知らない男と一緒になったって、私には彼がいるから、だから大丈夫だった。

 かくいう彼の方は、でもそのことをひどく気に留めていた。これが無かったらロクにお金すら稼げないことが分かっているのに、彼はそれでも抗議を続けた。

 「別に、いいのよ。」

 「良いわけがない、何でそんなこと言うんだ。お前、気付いてるか?だんだんとぼうっとしたような顔になって、輪郭がぼやけていることを、自分を失っていることを、分かってるのか?」

 彼は顔を歪めながらそう言った。でも、私達はそれ以外で生きる方法なんて無いでしょ?

 それを目で訴えたつもりだったのに、彼は私の方をきつく鋭くとがらせた目で見つめるだけだった。

 「俺が、何とかするから。」

 最後に彼はそう言って、家を出た。きっと無理だろう、そう思いながら私は、ジャガイモで作った料理を、一口口に入れる。いつもよりもっさりとして、悪い出来だったなと思っていた。

 なのに、彼は、仕事へと毎日出かけている。

 どこに?と聞いても答えてはくれない。仕事に行けば、人と関わるようになれば、私達を奴隷として働かせていた権力者に、知れ渡るのかもしれない。それはダメだ、私はもうあそこへは戻りたくない。もしかしたら、彼より強くそう思っているのかもしれない。だって、外の世界を知ってしまったら、あそこの中にいた私は、殺されていたんだと気付いたから。

 不安が蓄積していく、けれど為す術はなく、私はただ家の中にいることしかできない。本当は、嫌だったのだ。仕事だと思って割り切っていたけれど、彼がお金を稼いでくるようになって、働く必要が無くなって、自分がすごく嫌なことを自分を殺しながらやっていたのだと、寒気すらしてしまう程、ゾッとしていることに気付いてしまった。

*「もう出よう。」

 安定してきた日々の中で、彼はそう言った。

 私は拒んだけれど、それでも有無なんか言わせない、力強い勢いで、そのままそこを去った。

 去り際にチラリと見た家の中には、強い生活臭が残っていて、私はただ名残惜しくて仕方なかった。

 小走りで彼の手を握っている。

 さながらヒロインのようだと笑いたくなる。

 すごく疲れて足がもつれて、転んでしまいそうで、やめたくて馬鹿らしくて笑いだしてしまいそうだ。

 「ちょっと休もうよ。」

 私はもはや自分の気持ちが掴めない、もう何がなんだかよく分からない、でもそれでも良かった、足元が崩れるような絶望を抱いても、ふと前を見れば彼がいて、それだけで救われるのだから、そう思っていたのに、死んでしまうなんて、思わなかった。

 いや、本当は分かっていたのだ。

 人の世界で生きている限り、そこから離れることなんて許されなくて、彼が仕事をしていた頃から、気付いていた。

 ああ、そろそろ終わるのだと。

 私と彼だけで成り立っていた世界は、もう無くなってしまうものなのだと。知っていたのだ。

*「………。」

 しばらく呆然とした日々を過ごし、そのまま何事も無かったかのように日常を生きた。

 死物狂いで生き抜いた、そうして私は安定を取り戻していった。

 この国は、初めて来た時から、恵まれているのだと思っていた。けれど人はそんなことには気付かずに、誰かを傷つけ自分が傷つき、至って馬鹿だなあ…と家に帰り声を漏らした。

 かくいう私は、仕事以外にすることはなく、あれ程嫌だと思っていたことですら抵抗が無くなっていった。

 そうやって、過ごした日々を今でも、私はあまり思い出せないでいる、記憶がカウントされ始めたのは、だから夫に出会った頃なのかもしれない。

 「クイソ、って言うのか?」

 「そうだけど。」

 たどたどしい日本語を話すだけで、彼等は私を下に見る。それを安堵と捉えて貪り付く、自分の醜さになんか気づかないで、ただ平気に善良な顔をしている。

 私は、それをひたすら念じるように考えながら、その場をやり過ごす。

 全力で、そいつらのことを、馬鹿にしながら。

 「ちょっとあなた、しないの?」

 「しないよ。」

 夫は変わった人だった。

 彼は私に触らず、ただお金と食事を与えてくれた。

 あいつに対する思いが、私にとっては強かったから、あいつが家族だとしたら、夫は兄弟だった。

 だから、私はただ次第に夫の前だけでは、ぐにゃりと豆腐のように甘えてしまっていた。

*好きでは無かったあの人が、だから死んでしまった時にはとても傷ついていた。好の父親、ということもあったし、死んでから分かったのだ、私にとって夫の存在は、どうしようもなく重いものだったのだと。自己中で、あまり愛情深くないようなさっぱりとした物言いしかしなかった夫だったけれど、私のことを大事にしてくれていることは分かっていた。ありがたかった、だから報いたかった。

 「好、行こう。」

 私は彼女の手を引き、歩き出す。

 夫が残してくれたものは全て、この子のために使うのだ。

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