小説

@rabbit090

第1話

*故郷は遠かった。

 望郷の念に駆られることもしばしば、ぼくはこの何もない、ただのど田舎で日々を過ごしている。

 いや、こう言ったらここで生計を立て生活している人達に、甚だ申し訳ない。けれど、ぼくはまだ高校生で、自立なんかしていなくて、都会に住んでいたけれど、両親との折り合いが悪く、母の妹、りょうさんの住むこの土地に連れて来られた。

 ぼくは嫌だったのに、母も父も無理矢理、伶さんにぼくを押し付けて去った。

 「朝ごはん食べた?」

 「食べたよ、てか伶さん。これから仕事だろう?ぼくのことなんか放っておいてよ。」

 「何言ってるのよ。深司しんじはまだ高校生でしょ?それに私はあなたを皆子みなこから預かってんの!勝手言うもんじゃないわよ。」

 伶さんは母と一つ違いで、姉妹というよりは双子と言った方が正しいくらいで、でも容姿は全く違う。痩せてスッキリとした祖父の面影をはっきりと受け継いでいる伶さんと、背が低く愛嬌はあるがずんぐりとした印象が拭えない祖母の雰囲気をもらった母とでは、本当に姉妹かと疑いたくなる。

 けれど、二人は声がそっくりで、一緒にいると仲が良い姉妹だと周りに思われると伶さんが愚痴っていた。

 ぼくが東京に戻るまで、あと2年。

 今年高校2年になり、今はまだ4月だ。果てしない、まだまだ果てしなく長い、早くぼくは東京に帰りたいのに。

 渋谷や新宿、あの繁華街の喧騒が僕は好きだ。だから、駄目だったのかもしれない。

 ぼくは中学生の頃に問題を起こした。

 そのため、中3の大半は学校へ行っていない。一歩間違えば少年院送りで、とてもじゃないが優等生ではなかった。

*体育の授業の時だった。夏の暑さ真っ盛りな時に、それは起った。

 「園木そのき。」

 「はい!」

 僕は至って優等生、のふりをしていたのだと思う。学校では自分に余裕を感じていた。ぼくは、ほら、ああやって教室の隅で縮こまってぼくらを見ている彼らのように、いつも何かに怯えて暮らすということは無かった。学校はぼくにとって攻略可能な人生ゲームであったし、それをはっきりと自覚していた。こんな簡単なゲームをクリアするだけで、やすやすと息が吸えるのならば楽勝だ、と思い上がっていた。

 そう、思い上がっていたのだ。

 「…お前、あのな。」

 何だろう、いつも鷹揚な態度を取り、生徒、特に女子から好かれている数学教師の町田だが、今日はいつもと違って取り乱している。その瞬間に浮かんだことは、ぼくが何かをやらかしたということだった。けれど、心当たりなど無い。見かけだけは、優等生、教師から見れば扱いやすく可愛げのある、そんな生徒でいるはずなのに、バレたのだろうか。

 さっき、心当たりなど無い、と断言してしまったが、実はある。いや、正確には絶対にばれないという自信があったから。

 まさか、まさか。

 ぼくが同級生の、埴見上治はなみじょうじを殴っていることを、知ってしまったのだろうか。

 悪いことだとは分かっていた、けれど現実というものは、人の思い通りには進まない。一生懸命抗っても、ぼくはどこかが壊れていた。


 「おい埴見。」

 「………。」

 埴見は、無口な奴だった。ぼくの前だけで、彼は何も喋らない。ぼく以外の奴の前ではあんなに口達者でいるのに、ぼくは違う奴に、何で埴見ってぼくに話しかけたりしないんだろう、と質問してみた。

 だって、知りたかったし、とても傷ついていたから。埴見は、掴みどころが無くて変わった奴だった。だけどウィットがあって、妙に人を引き付ける何かがあった。だからぼくも埴見と話したかったし、それがそんなにいけないことなのだろうか、そう思っていた。

 「いや、園木はさ、何ていうか、あいつ。埴見って変だけど、だから何かあったんじゃない?知らないだけで、飯盗られたとか、足踏まれたとか、きっとそんな些細なことだよ。多分その内、あいつとも打ち解けられると思うぜ?」

 そう言ったのは、ぼくの親友、道野どうのだった。

 全くもってどうでもいい、そう思っていることがしっかりと伝わってきて、それに反するぼくの真剣さもあって、もどかしくて、何だか額から汗が伝わり落ちてきた。その冷たい汗で、ぼくは少し冷静を取り戻した。

*「おい、埴見。」

 「おい、埴見!」

 何度も、呼びかけた。それが重なる度にあいつは嫌な顔に深度を増した苛つきを含め始めて、ぼくは沸騰する激情を高めるしかなかった。

 全く、何で?

 ぼくが何かをしたのか、それしか考えられない、けれどぼくは埴見が嫌いじゃない。嫌いになれない、ちくしょう、何でこんなにクソみたいにぼくが疲弊しなくてはいけないのか、馬鹿らしくて嫌気がさした。

 そして、距離を置こう、と思いついたのだ。

 ほとほと自分の感情の暴走に疲れ果てたぼくは、緊急避難策として埴見を物理的に遠ざけることを考えた。

 ぼくの日常には、安定した人間関係があって、何も不足することなんてなかったから、大丈夫だと信じ切っていた。


 そうしてしばらくした頃、ぼくはいつも通り道野を誘って渋谷へ行くつもりでいた。

 けれど、道野は適当な言い訳をつけてぼくの誘いを断るようになっていた。

 ぼくは、なぜ?と、疑問以外の感情しか持っていなかった。


 そして、理由が分かった時に、ぼくは憤慨していた。


 埴見が、道野に伝えていたらしい。園木はやたらと自分に付きまとって気持ちが悪いと、臆面もなく、はっきりと。

 道野は最初、そう親しくもない埴見そう言われたからと言って相手にはしなかったのだが、ぼくらは思春期真っ最中で定まった自己などない、悪い感情はふわふわと回転し、伝染していく。

 気がつけば、ぼくは今までの友人をすっかりと失っていた。その寒すぎる喪失に、背筋が凍えるだけだった。

*正直に言えば、ぼくは追時常に漠然とした不安を抱えていたことに気付く。

 そうか、だからか、だからぼくは気がつけば一人になり、それが当然のこととして起こっているのだ、と解釈した。

 孤独は、ぼくを壊していく。

 とりとめる場所もなく、ズルズルと引きずり降ろされるように、ぼくはその日を迎えた。


 「おはよう。」

 妙に興奮した気持ちで、ぼくは声を出していた。何だか、無責任に何かを演じている道化のように、ぼくは確固たる態度と、沸き立つ不自然さを醸し出していた。

 分かってる、でもいい。

 その日も、学校へ来ていた。

 たった一人きりでもやめるつもりはない、ぼくの知っている世界の中で、手を伸ばして届くまともは、学校だけだから。

 「………?」

 埴見は不自然な化け物を見る様子でぼくを伺っていた。

 ぼくは、すでに埴見に対して抱いている感情が、憧れ、のようなものから変質した歪であると理解していた。

 「今、良いよな。」

 それでも、あくまで理性的に行動しようとは思っていた。

*「なあ、埴見。何でぼくのこと避けるの?ひどくない?」

 ぼくはただ、素直な感情を埴見にぶつけることで、今の理不尽だと思える状況を正当化したかったのかもしれない、しかし、

 「………。」

 埴見は、無言を貫き通していた。一体、ぼくの何が気に食わなくて、こいつはこんな態度を取るのだろう。全く、ふざけるな、そんな憤りがぼくを支配し始める。

 ぼくは、だから。

 目の前には、きっとぼくを見据える埴見の姿があるだけだった。その鋭い目つきに、飛んでいたような精神が、正気に戻る。

 やってしまった、埴見を殴ってしまった。そんなつもりはなかった、でも違う。ぼくは追い詰められていて、何ていうか理性のタガが外れていて、つまりどうかしていたのだと思う。

 血を流し口元を抑える埴見は、気が付けば立ち去っていた。

 やばい、どうしよう。やらかしてしまったのだろうか、告げ口をされるのだろうか、そりゃされるだろう、だって埴見はぼくを嫌っているから。

 ああしまった、家族に、両親に知られたらひとたまりもない、ぼくは年中を軽蔑の目で見続けられ、それを甘受しなくてはいけない。そんな生活、想像するだけで嫌だった。

 けれど、もう埴見はいない。ぼくに残されていたのは、ただただ莫大な不安だけだった。

 両親は、正直言って普通の人じゃなかった。ぼくが、まともに育てられたかと言えば、どう答えればいいのかが分からない。だって、彼らは忙しさという正当な理由を盾に、ぼくを放置していた。そんなことをしながら、社会で、会社のオフィスで、にこやかに笑っている姿を想像すると寒気がする。あいつらは、化け物だ。そう思ったことだって、本当はある。

 けれど、ぼくは両親がいくらダメな奴だからって、それでどうすればいいのかなんて、知らなかった。だって、お金はくれるし、望めば塾にも、大学にも行かせてくれる。でも、食事は作らないし、作ってもお米とみそ汁だけ、しかも自分が食べる時のついで、という場面でしか存在しえない。

 ぼくは、ぼくは。

 ああ、また考えがこんがらがってしまった。今は、埴見を殴ってしまったことを考えないと、埴見を殴ったのはさっきで、今は平穏を装って授業を受けている。技術の時間で、ひたすら木工を繰り返している。

 でも、だれも気が付く様子がない。埴見は、もちろんいなかった。

 何だ、何だ。

 その日は、何事もなく終わった。


 次の日、学校へ来てみると、埴見が普段通りの格好で、自分の椅子に座っていた。口元には、特に見当たるあざや、傷はない。

 ほっとした、胸をなでおろした。

 ぼくは、何事も無くて、それで良かったのだと思っていた。

 けれど、違うってことが分かったのは、その日の2時間目、体育の授業の時だった。

*野球をすることになっていて、慣らしとしてキャッチボールをしなくてはいけなくて、ぼくは埴見と組むことになった。

 正直、嫌で嫌で仕方がなかったが、でもやっぱり埴見に話しかけることは出来なかった。

 でも、「埴見、やろうぜ。」ぼくは平然を装って何かをすることは得意だった。それがどんなに歪んでいることだって、無視する能力を兼ね備えている。

 「………。」

 埴見は、何も言わずにグローブを取り球を放る。そして、向かい合う目には色のない、無機質な埴見の姿があるだけだった。

 ぼくはだから、封印していたはずの、埴見に対する苛立ちがまた沸騰する様子を感じていた。

 抑え込もうと努力していた分、それは苛烈で歪だった、余計に、なおさら余分に、増幅していた。

 そうやって凝り固まっていたから、すっかりボールを放ることを忘れていた。

 慌てて、グローブの中でじっとしているボールを持ち、埴見に投げ返した。

 けれど、慌てて不格好な様子を見た埴見は、チッと小さな舌打ちをしていた。

 なんだか、なんでコイツってこんなにぼくを、不遜な態度で追い込むのか、理由が分からないから余計奇妙で、そこには確信した何かがあるように思えてならない。

 埴見は、ぼくの知らない何かを、きっと隠し持っている。

*違いない、じゃなかったら、ぼくはとても可哀そうな奴になってしまうから、ただ嫌われているだけの中学生、そんなの辛すぎるじゃないか。

 「…早くしろよ。」

 埴見は、どうやらぼくに言っているわけではないらしい。だが、状況はボールを持ったまま突っ立っている僕に対するいら立ちを示しているようにしか感じられない。しかし、埴見の顔は、何もない地面を見ているだけだった。

 これ程、無いものとして扱われることが、苦しいだなんて思わなかった。

 ぼくは、何かを壊したかった。だから、埴見を壊したのだと思う。


 「おい園木!行こうぜ。」

 「ああ。」

 道野は、ぼくを誘ってゲームセンターで課金しまくると言っていた。正直、ゲーセンって何が楽しいのか分からない、と一度言葉にしてみたら、一緒にいた道野も、仲間も、じゃあやめるか、とぼくの意見に従っていた。全く、単純だよな。

 ぼくは、ぼくの生活を取り戻した。

 馬鹿らしく縮こまっているなんて、ぼくらしくない。ぼくは、ぼくが、ぼくの幸せを掴めばいい、そのためには、悪いな。いや、そんなこと思っていないか、だって発端はあいつの極端な態度のせいだろう?そんなことを、言い訳のように頭の中で繰り返していた。

 「ごすッ。」

 何かをつんざくような音が響き、その低音の正体は、ぼくが埴見を殴る音だった。ぼくは、人を殴るとこんなに低くリアリティーのある音がするのかと、すごく驚いた。

 ぼくは、ぼくのために、埴見を殴ることにした。

 そうしていれば僕の生活は平穏で、誰にも壊せないものになるということを、知ってしまったから。


 「おい埴見、また遅刻か?」

 「…いや。」

 「分かった分かった、おまけするから席着け。」

 「はい、ありがとうございます。」

 埴見は、周りから人がいなくなったことに頓着していないようだった。ぼくは、全力で人に馴染み、埴見を排斥した。その間にもずっと、何も喋らない埴見に対して、僕は暴力をふるい続けていた。

 「あいつ、最近遅刻ばっかしているよな。」

 「なあ。」

 埴見は、あれだけ人から好かれていたのに、あっという間にクラスの変わり者になってしまった、つまり、ぼくが仕立て上げたのだ。

 この変わりようには、正直驚いた。だって、ぼくはちょっと前まで孤独になっていて、だから死に物狂いで人心を獲得しようと行動していた。元々、人から排斥されるようなタイプではなかったので、それは功を奏して、さらに埴見を輪の中から追い出すという副次的な事実まで付けられた。

 だけど、ちょっと前までは沼の底にいたぼくは、この人の変わりようが、さすがに恐ろしいとは思っていた。

*同時に、アホらしい、と世界を鼻で笑う感覚も、持ち合わせていた。


 それから、そのまましばらく経った頃、ぼくは相変わらず外面だけは優等生でいて、埴見は相変わらず平面な顔をして学校に来ていたが、そんな埴見をぼくはただ殴り続けていた。

 殴って、いたからだろうか。

 体育の授業だった。

 なのに数学の町田がやってきた。

 町田は、いつもより興奮しているようで、こいつは学年主任でもあったから、ぼくは少し動揺した。

 周りの奴らも、お前何かやらかしたのかってぼくを肘で小突いていた。

 やらかした、のだろうか。

 やらかした、のかもしれない。でも、そうやって指摘されればぼくは更に冷静になって、だけど大丈夫だという妙な、本当に奇妙な自信に支配されていた。

 「ちょっと来い、な。」

 町田は、爽やかないつもの口ぶりとは変わり、教師然とした態度でぼくにそう言った。

 「分かりました。」

 そう言って、ただぼくは従った。


 連れて行かれたのは、面談室という何も無い、あまり誰も使った形跡のない、がらんどうの部屋だった。むしろ、その静けさが不気味で、だから選んだのでは、と思わせる雰囲気がそこにはあった。

 そして、促されるままに、ぼくは席に着いた。

*「園木、飲むか?」

 「はい、いただきます。」

 普通教師は生徒にコーヒーなど差し出さない。まして、今は昭和でもない、令和だ。何だって一体、ぼくはこんな待遇を受けているのだろう。

 出されたコーヒーをズルズルとすすりながら、ぼくは町田の様子を窺った。町田は、至って平然としたまま、同じコーヒーを飲んでいるだけだった。

 「お前な、あのな。落ち着いて聞けよ。お前のこと、別に責めたいわけじゃない。けど、お前が同級生をいじめているってことは、分かってるよな。」

 「え…それって。」

 ぼくはまだもったいぶっていられた、きっと埴見のことだろう、だけど大丈夫、僕はこの場をうまく切り抜けられる、そう思っていた。けれど、

 「お前、捕まるかもしれない。やったこと、分かってるよな?」

 「…はい、あの。」

 埴見のこと、と言おうとしたんだけど、町田が口にしたことはもっと違っていた。

 「お前が同級生をいじめてるっていうのは、他の生徒から聞いたんだ、でもそれはこの学校の内輪のこととして、その生徒も処理するくらいでいいと言っている。それでな、それでな。」

 「………。」

 え?埴見のことじゃないのか、じゃあ?

 「お前、万引きしただろう。」

 「え?」

 していない、した覚えもない。

 はっきりと否定したいのに、なぜかこういう時に限って口が全く動かない。どうすればいい、それが分からなかった。

 「いや、証拠はあるんだ。コンビニの防犯カメラにはお前の姿がはっきりと写っていたらしい。」

 「だから、今から店の人と話をしに行こう。まだ中学生だっていうことで、話し合いの場を設けてくれるそうだ。けどな…お前の両親、連絡したけど断られたよ。忙しいってさ、すごく社交的な言い方で、あたかも正しいことを言っているような口調で、そう言っていた。お前、ホントに苦労してるんだなあ、って思ったよ。」

 町田は、どうやらぼくの両親に連絡をして、そうだ、あいつらは自分たちがおかしいってことを隠せなければ、何が悪いのだと開き直るような態度で、粗を隠す。粗だなんて、知らない、そう貫き通せる強さを持っていた。

 でも、今はそんなことはどうでもいい、一体、万引きだって?やった覚えなんか一向にない。

 ぼくは、その手の犯罪に手を染めたつもりは一切ない、だからこそこの状況の気味の悪さに、ただ足元から凍り付くような感覚を覚えた。

 「………。」

 口からはまだ言葉が上手く出てこない、そしてそうしているうちに、ぼくは町田に連れられそのコンビニへと向かうことになった。

*そろそろと足を踏み出す。世界は、今ぼくの味方ではない、そう感じながら。


 「いらっしゃいませ。」

 笑顔で迎えられたけど、ぼくらの姿を捉えると、40代程の男性は、表情を引き締める。

 「来なさい。」

 そう言って裏口へと連れて行かれる。けれど、そんな態度を取られても、ぼくは平気で、だって身に覚えがなく、平然としていられたから。

 きっと何かの間違いだ、そう信じていられたのは、この時までだった。

 「ほら、見て。」

 そう言って見せられた映像にはぼくが映っていた。

 言い訳ができない、ぼくが普段着ている服、そして髪型、仕草、ぼくだ。ぼくだ。

 なぜ?

 「お前…。」

 町田は、映像を見て僕を見る、それを2、3度繰り返して眉を寄せた。

 「そういうことです。」

 店長の札を下げた男は、町田を見てそう言った。

 だけど、

 「…身に覚えがありません。」

 ぼくは迫りくる寒さに抗うようにそう口にして、それからは一言も喋らなかった。

 喋るべき言葉が見当たらなかったから。

 

 とりあえず釈放されたぼくは、当面家にこもることにした。

 町田は、学校には来なさいと強く言っていたがぼくは、状況が分からないのに歩き出すことを、ためらってしまう。

 そうして一週間が過ぎた。

 「…いる?」

 珍しく母の声がする、今日は何の用なんだろう。だって、母はぼくに関心などないはずで、部屋を見に来るなんて珍しいことだから。

*「………。」

 ぼくは返事をしなかった。

 そうすることでただ、何か反感を示したかったのかもしれない。けれど、

 「ガチャ。」

 ドアが開く音がして、心臓が高鳴った。何だよ、久しぶりに他人が、自分のそばに来ている。その事実に体が少し、硬くなった。

 「………。」

 母は黙っている。ぼくは、だからチラリと母の顔を盗み見る。

 そして、驚いた。

 母は、泣いていた。

 なぜ泣くんだ、お前だって勝手なんだから、ぼくだってもう、なるようにしかならない。それでいいじゃないか、努力をしたり、気を張ったり、疲れてしまった。

 なのに、なぜ?

 ぼくが多分目を見開いて、母を凝視していたから、母は涙を拭った。

 そして、言うのだ。

 「あんた、深司は、ねえ。なんてことしてくれたの?あんたが、万引きをして私の職場で、バレたのよ。私、教師なのよ。しかもこの都内で、勤めているの。みんな、親切な顔をして、いつも厳しい私を笑っているわ。ホント、あんた。」

 母は、息も絶え絶えといった様子でそう告げる。あまりにも苦しそうだから、すごく理不尽なことを言われているはずなのに、申し訳なくて背中をさすりたくなる。

 けど、「知るか。」そう言ってぼくは部屋を出、家も出た。

 友人の家に行こうか、と出た瞬間は思ったが、この気持ちのざわつきはそんなものでは収まらない。そう思ったからぼくは、ずっと出たことの無かった、東京から脱出した。


*所持金は、結構ある。

 両親は教育にあまり関心がないというか、母は教師のくせにぼくのことは適当に放っておけば育つ、と思っているらしい。それには母の母、祖母がたった一人で母を育てあげたからかもしれない、と思ったことがある。母は子供は、放っておいても育つ、私もそうだったから、とでも思っているのだろうと解釈した。

 でも、祖父が病気で死に残した莫大なお金で、祖母はあまり働かなかったのだという、じゃあ、母の世話は祖母がしていたのだ。なのに、母は勝ち気で、自分の手柄が全てだ、という様な極端な発想をする人間だった。

 「もう、めんどくせえ。」

 駅のベンチに座りながら、ぼくはぼやいた。こうやって一人になってみると、母のことも、父のこともだんだんどうでも良くなってきていて、何だかくだらないことにこだわっていたなと恥ずかしくなる。

 そして、帰りたい、という感情も感じる。けれど、ぼくは今、万引きを疑われ、訳が分からない、そんな変な立ち位置でいるしかないのだ、だからぼくはここにいる。

 初めて、自分のいるところを脱却した、そう思いながらまた再び、前へ進む。

 そもそも、なぜぼくは疑われたのだろうか。

 万引きなんてしていないのに、おかしい。もしかしてはめられたとか?ぼくの格好をしてぼくに恨みを持つ人間が、そんな行動を取ったと思えばつじつまが合う。でも、見たところカメラに写っていたのはぼくだ、まず間違いなくぼく。人は、そういう、何ていうか歩き方とか、立ち居振る舞いで誰だ、と分かるのだと、その映像を見て思った。

 ぼくは、いつも緊張していて、でも格好をつけた様に仕草を動かす。

 アホらしいけど、それがぼくだと知っている。

 実際に目で見ると、ちょっと恥ずかしくなるくらいだった。

 電車に揺られながら、ぼくはいつも乗っている路線を乗り換え、海へ向かうことにした。海なんて、しばらく行っていない。だから、行く。

 思いついたところがそんな単純なことばかりで、ちょっと自分に嫌気がさす。

 その先はどうするのか、大きい川が光りながら車窓を流れていくのを眺めながら、ぼくはぼんやりと考える。


 「着いた。」

 着いてしまった。

 まず、近くのコンビニで手頃な飲み物と、おにぎりを二個買った。しかし、ぼくの残高は増えることは無く減るだけで、なるべく慎重に使おうと心に決めていた。でも、まず泊まる場所はどうすればいいのか、という疑問が浮かんだ。

 ホテル、は高すぎる。じゃあ、野宿。

 よし、野宿だ。

 決心してからの行動は早かった。寝袋を買い、しばらくはこれで過ごそうと心に決めた。だいぶ田舎に来たので、きっと警察に捕まることも無いだろう、という無知な考えが、でも功を奏したようでぼくは全く、一週間をそうやって過ごすことに成功した。

 お金は、父と母は小遣いを通帳にいれることをさせていたので、ぼくの残高はかなりの額になっている。

 まったく、こんな時だけありがたい。

 なんて思いながら少しはにかんだ。そして、気付く。家を出る前は、あんなに全てのことに不満があった様な感じだったのに、なぜか今はスッキリとしている。親としての役目を果たさない両親にも、万引きしたと決めつけられた現実にも、何だかどうでもいい、と思えるようになっていた。理不尽だったはずなのに、ぼくはもう、大丈夫になっていた。

 そして、チラリと脳裏をよぎるのは、なぜ誰もぼくを探しに来ないのだろう、ということだった。さすがに公共交通機関を使ってここまで来たのだ、しかも電車で半日もかからず来れる、というかほぼ2時間あれば着く、こんな、こんな分かりやすい場所にいるのに、なぜ。

 胸をかすめる疑問に、ぼくは少しだけまた、あの奇妙な苛立ちを覚え始めていた。

*とは言っても、帰る気にはならない。

 というか帰る必要なんて無いのではないか、そう思えている。

 ここは、人があまり立ち寄らず、ただ孤独な場所だった。例え人が通っても寝袋にこもれば不審を抱かれないということに気づき、しかし1日ごとにちょっとずつ場所を変えながら何とか、やっていけている。

 とりあえず、所持金が尽きるまでは、ぼくはここに居続けるつもりだ、最早それ以外の選択肢は浮かばない。

 

 「………。」

 ぼくは、今照明だけが明るく、窓には遮光カーテンが貼り付けられ、剥がせないようになったこの部屋に、閉じ込められている。

 ちょっと前までは、海にいたはずなのに、なぜだろう。

 いや、理由は分かっている。

 母が、ぼくを呼びに来た。

 来い、と言っていた。

 所持金も減ってきていたし、そろそろいいか、と思っていたけれど、母は久しぶりに再会した、しかもまだ中学生のぼくを、見ることもなく顔を顰めていた。いや、正確には見てぼくをぼくだ、と確かめてはいたが、それ以外に何か言葉を発するとか、そういうものとは無縁だった。

*正直学校の人間も、母親でさえぼくを気にかけていないのかと、思ったことはあったけれど、ぼくは万引きを疑われていて、そもそも学校へは行っていない、だから多分、学校にはバレていない、じゃあ母と、父は?

 父は、仕方が無い。きっと家にはあまり帰ってこないから知らないのだろう。けれど母は毎日家に帰り、職場とは打って変わり自室でぐったりと寝そべっている。

 「だらしねえな。」

 ちょっとした苛立ち紛れでぼくは母の部屋の前でそう言ってしまったことがある。すると、「ちっ、うるせえなあ。」と母がぼやく声が聞こえた。

 この女は、本当にダメな奴なのだなと、その時は呆れた。

 だから、なぜ。いくらなんでも息子が帰って来なかったら、探すくらいのそぶりは見せるはずだ、でもそれをずっとしていなかったってことは、ぼくの家族は本当にやばい奴らなのかもしれない、と思っていた。

 その結果が、これ。

 一体何だって言うんだ、そもそも息子が万引きを疑われたら事情を聞いてくれるものじゃないのか、それに真偽も分からないのに鵜呑みにしているなんて、身勝手だ。

 そして、なぜぼくはこんな作り付けのような安い手製の監禁部屋に閉じ込められているのだろう、やっぱり分からない。

 悪いのは、ここまでされる程悪いのはむしろ、母なのではないかと思える程の仕打ちに、ぼくは唇を噛む。この強い苛立ちでさえ、発散することのできない小さなこの部屋の中で、ぼくはただうずくまるしかない。

 

 「おばさん、帰ったよ。」

 「おばさんじゃない、伶さんと呼びなさい。」

 伶さんは最初にそう言って、ぼくに自分をそう呼ばせた。だって、母と一歳しか違わない伶さんを、別におばさんって呼んだってかまわないじゃないか、そう思ったけれど、「私はね、まだ未婚なのよ。未婚の女性がババアって呼ばれると、嫌なの。」と屁理屈をこねていた。

 だって、誰もババア、だなんて言っていない。

 そんな感じでぼくは、母の妹である伶さんと同居を始めた。

 ぼくの万引きは結局、うやむやになったまま幕引きを迎えた。万引きの被害を受けた店の方は、あんな不遜な奴少年院に入れろ、と怒っていて、ぼくは危うくそうなりかけたが何とか、主に教師である母の力によってそれを免れた。

 しかし、問題が大きくなったためぼくはもう卒業までは謹慎していろということになり、それに従って家に籠っているしかなかった。母が作った、あの光の入らない監禁部屋で、ぼくは一年程、息をひそめ続けていた。

*伶さんのおかげで、ぼくは学校へ通えている。

 本当はこんな田舎に来て、また引きこもってやろうかとさえ思ったが、伶さんはそれを止めた。

 ただ、静かに「行きなさい。」とだけ言い、ぼくも暇だったから仕方なく、従った。

 

 「授業始めるぞ、席に着きなさい。」

 その声がかかるとみな、話をやめ自分の席へと戻っていく。

 ぼくは、元々席に座っていたから特に、ただ授業が始まるのを待っていた。

 高校の授業は、自分が思っているよりも面白く、勉強に集中していればぼくは、他の煩わしいことから開放され朗らかでいられた。

 そのせいか、ぼくは学年の中でもぶっちぎりの一番という成績を得、そのまま夢というか、だってずっと住んでいたんだし、でも念願だった東京へ、戻ることに成功した。


 ぼくは、国家公務員になり、そこで研究を主な仕事としている。

 給料は薄いが、日々はとても充実していた。

 人生は、自分の手の平の中で転がせるのだと、ぼくは大人になり知った。

 

 「園木さん、います?」

 「います。」

 「いるんだ。」

 急に砕けた口調で、話しかけてきたのは同じ職場で働く、事務のおばさんだ。

 何か、話しかけられたから適当に相槌を打ちあしらっていたら、おばさんはムキになり声をかけ続けていた。

 その過程の末、ぼくらは変な、親しいというのだろうか、つまり、妙な関係を築いていた。

*「何ですか?」

 ぼくは少し呆れながら、おばさんの方へ顔を向ける。彼女はよく、職員にコンタクトを取っていて、それは事務的なことでもあったし、また私的なことでもあって、それをする時間があるということは、彼女の仕事は常にやや暇であるのだと感じてしまう。

 かくいうぼくら研究を主たる業務とするものは、全く正反対に常に忙しい。忙しくてどうかしてしまいそうな程、ぼくらは余暇を失っていた。

 「そろそろ昼休みね。」

 「そうね、ってそれ見計らって来たんですか?」

 「そうよ。」

 全く潔い、何て勝手な人なんだ、ぼくの貴重な休息時間を拘束してしまおうなんて、はあ、まあいいや。

 「で、用件は?」

 もう、ぼくとおばさんの間には失礼、という言葉は存在しない。そう言えば、家族の様ともとれるけど、違う。

 おばさんは、何ていうかそういう遠慮を必要としない、ドシッとした安定の中にいる人物だったのだ。

 「ふふ、あなたにいい話だと思うの。」

 何だ、そう思ってぼくは眉を寄せた。

 「あのね、お見合いしない?相手は私の娘よ。」

 「は?」

 「は?じゃなくて。」

 「………。」

*なぜぼくがおばさんの娘とお見合いをする話になっているんだ。え?おばさんって、ぼくのこと好きじゃないだろ、気に入っていないはず、なのに大事な娘を紹介するのか?まあ、職業的に言えばぼくは国家公務員だし、婿に欲しいという年老いた親ならあり得るかもしれないが、なにぶん話してみれば不遜であまり可愛い我が子を、とは思えないだろう。

 なのに、一体?

 「いやね、実はね。うん、急にこんな話をしてごめんね、実はうちの娘ね、あ。実の娘じゃないの、そこははっきりさせておかないと、あとでめんどくさいでしょ?」

 「いや、そういうことじゃなくて、あの。」

 そういうことじゃなくて、なぜ見合い、なぜ娘、なぜ…。

 「よしっていうの。可愛い名前でしょ?今の夫の前の奥さんとの間にできた子で、大半は私が育てた。だから、とても大事なの。でもね、もう立派な大人なのに社交性が無くて、ずっと家で在宅ワークをこなしているの。それ以外の世界を知らないから、お酒を飲んだことも無い。ちょっと馬鹿らしいけど、私。あの子に幸せになって欲しくて、あなたはほら、割と勝手だから。気に入らなかったらいいのよ、でもね。一度だけ、社会経験として、お願い。」

 おばさんは少し背をかがめて、ぼくを見上げるような格好になった。

 ぼくは、いきなりの話で何だ、とは思ったがそりゃ、ぼくだってそろそろ結婚したいとは思っていたし、まあいいかと考えて承諾した。

 それをおばさんに伝えると顔をほころばせて、ありがとう、と言っていた。

 何だかくすぐったいくらい、見たことのないおばさんの一面を垣間見た気がして、少し動揺した。

 

 その日は、いつものTシャツにジーパンというラフな格好をやめて、シャツにスラックスというちょっと洒落た雰囲気の服を、同僚から借りた。

 おばさんに、これでいい?と聞いたら、まあ、いいじゃない。と言われて、ぼくはあんたは誰目線なんだよ、と呆れながら、笑っていた。

 実は、この前このお見合いの話をもらってから、よくおばさんと飲みに行くようになった。最初は、ちょっと話さない?という軽いテイストだったのだが、何だかお互い、話してみると世代差があるのに楽しくて、仕事の疲れを晴らすために夕食兼飲み会を結構共にするようになっていた。

 だからぼくらはより遠慮を知らない間柄になっていて、同僚からもお前ら親子、とかからかわれるようになっていた。ぼくは、そうやって何だか親しくなっていたおばさんの娘だから、きっと気さくで愛嬌のある女の子が来るのだろうと、全く疑っていなかった。

 けれど、実際に現れたのは、身長がぼくより少し高く、下を向きがちな地味な女の子だった。そうか、家で在宅ワークをしていると言っていたが、そうか。こういう子は、そうだ。多分外では働けない、そう、ぼくもたったの初対面で思ってしまっていた。

*「あ、初めまして。」

 とりあえず挨拶をする、正直少し帰りたかった。だって話ができそうな雰囲気ではなく、とにかく暗い感じで、おばさんも同席しているわけではなかったし、適当にコーヒーを啜って帰ることにした。

 「初めまして。」

 その子は、でも話しかけたらスッと言葉を返すような、見た目とは違うキレ味を持っていた。へえ、と思っていたら、「あの、何飲みます?」とその子は言った。

 「えっとぼくはコーヒーで、吟次ぎんじさんは?」

 「あ、私はココア。」

 じゃあ注文しようという段になって、彼女は目を見開いた。

 「あれ、それ。」

 「え?」

 彼女が見ていたのは、ぼくが指にはめていたリングだった。

 おしゃれ、ではないけれど、常にアクセサリーを身につけることを習慣としているから、特に不審には思っていなかった。ていうか、不審というか、彼女の目はやたらとこのリングに集中していて、妙だった。

 「アクセサリー、好きなんですか?」

 「はい。」

 「でも、身につけていませんよね。」

 「いや、着けてますよ。恥ずかしいけど、ほら。」

 そう言って彼女はコートを脱ぎ、首にかけたネックレスと、腕に巻いた金属製のリングと、そして足にかけている何重ものトゲトゲ、等々…。

 ヤバい、そう思った。

*「え、印象と違い過ぎるでしょ。」

 「ははは。」

 彼女は笑う、いや、笑い事じゃないって、何言ってんだよ、ぼくはあまりのそのギャップさに、失礼なことを口にしてしまったようだった。

 「地味、ですよ?」

 「えぇ?」

 彼女はあくまで自分が地味だと主張し続けている。

 でも、「そのアクセサリーは?もっと見せれば。」そうだ、もっと表に出せばこの女は間違いなくヤバい奴になってしまう。

 「いや、駄目です。それは恥ずかしいんです。私、人の注目を引きたくてアクセサリー、着けてるわけじゃないから。」

 えぇ?アクセサリーつける目的なんて、それ以外にないだろう。

 「じゃあ何?」

 「はい、あの。もう言っちゃいます。私、アクセサリーつけてると高揚するんです。何か、変身ヒーローみたいな、物持ってると強くなるやつ、私は私の土台にアクセサリーを埋め込まないと、一日が辛すぎるんです。といっても、ずっと家の中なんですけどね。」

 もう何だか分からないくらい流ちょうに話す彼女に圧倒されながら、「ねえ、お母さんから社交性が無いっていうか、あの。外が苦手みたいなこと聞いたんだけど、全然違うよね。」

 ぼくは思っていることを口にする、だって、知りたかったから。

 「あはは、私、そうですよ。友達とかいません。でも、だから自分がどんな人間なのか、よく分からないんです。私は、多分人とはうまく付き合えなくて、そう思ってるんですけど、あれ?園木さんから見たら、違うんですか?」

 確かに、見た目では地味で髪は黒くカールしていて、ちょっと話しかけづらい見た目をしていた。けれどよく見れば目は大きく、肌はきれい。

 「いや、あの、可愛いと思います。本当に。」

 あ、言ってしまった。ぼくは何をとち狂っていたのか、彼女に向かって多分本音を、伝えてしまっていた。

 「え…え。何ですか、あの。」

 急にそう言われて、かなり動揺している。ぼくも心底驚いていた。彼女は、なぜか彼女に対面すると、口が滑りだす。普段はこんなめんどくさい言葉、呟かないのに。

 「えー、ありがとうございます。」

 そう言って彼女は頬を染めた。

 何か、お見合い的には良い流れになっているのでは、彼女もぼくももうお互いまんざらでは無かったような気がする。


 朝の陽ざしが優しい。

 空気も澄んでいて、おいしい。

 「行ってきます。」

 「行ってらっしゃい。」

 妻が、目を見開き僕にそう言った。妻は、目をこすりながらも必ず、早くに起きてぼくを送り出してくれる。妻の仕事は家でやる仕事で、夜不定期に仕事が入って寝られないのだ、だから、それなのに外で働くぼくに合わせて早起きをしてくれる妻に申し訳なくて、でもぼくはそれがないともう仕事に行くことですら苦しくて、という、そんなのろけが今の僕らを支配していた。

*ふう、家を出るとやっぱり、何か現実に戻ったというか、世界が冷たくて澄んでいるということを思い出させてくれる。

 「愛妻弁当ですか?」

 同僚の、まだ未婚の奴らからよくそうからかわれる。けれど、これは僕が作ったもので、決して愛妻弁当ではない、でも妻の体面を保つためにそういうことにしている。

 結局の所、ぼくはあっさりと吟次好と結婚してしまった。してしまえばあっけなく、ただ安定した平穏な毎日が続くだけで、もう不満なんてあまり抱かない。

 いや、人間なんだから、不満はある、でもそれが大きくならず、家に帰れば些細なことだと笑ってしまえる。

 全く、知らなかった世界だったけど、知ってしまえばこれでいいのだという以外の感想が浮かばない。

 だからぼくは、今夜おばさんに会いに行く。

 

 「入ります。」

 手には駅で買った少し高いお菓子を持ち、反対側の手で扉を開く。

 「………。」

 返事がないことは分かっている、でもぼくは頓着しない。

 「お久しぶりです。」

 と言ったが会うのは、一週間ぶり、こうやってぼくは毎週、おばさんの元を尋ねる。

 おばさんは、何も話さない、いや、何も話せない。

 「お元気ですか?」

 でもぼくは言葉をかけ続ける。それがいいと医者に言われたから。

 

 おばさんは、もう意識が朦朧としていて、あまり定かではない。薬の副作用でそうなってしまったのだ。

 でも、それ程薬を飲まなければ、もう彼女は生きていられない。

 病気って、どうしようもない。

 ぼくはすでに、40代にさしかかり、妻もいい大人だった。けれど、おばさんは年を取り、そして病気を患った。娘のことに心を尽くしていた彼女は、もう見る影もなくやせ衰えている。

 ぼくは、そして妻も、二人を幸せにしてくれた彼女のために、何ができることはないかと模索していた。

 だって、生きて欲しかったから、生き続けて、ぼくらをもっと見ていて欲しかった。


 けど、もう遅くて、もう手遅れで、起きることの無くなった彼女は、冬の寒い朝に息を引き取った。

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