8.邂逅

――上二段活用

(き、き、く、くる、くれ、き……きた?きぬ?)


「『きよ』かぁ…」

テスト範囲である、古語活用法を睨む事30分。

珠里はいまだに活用法を覚えきれないでいた。

普段から本を読まないからか、高校から始まった古典の授業中は睡眠導入剤を投薬されて眠りに落ちないようにするだけで精一杯の苦痛の時間だった。

授業が終わるとノートには毎回シャーペンが残した謎のメッセージが2枚に綴られ、頭を抱えるまでが珠里のルーティンと化していた。その日の昼休憩のあまり時間で愛美が書いた完璧に要点がまとめられたノートと珠里の悲惨なノートが並べられるのも日常となりつつあった。


ノートを写すだけでも寝落ちしそうな珠里を見かねていつからか、『多分ここ出るから今日はこれだけ覚えとき』そう言って青ペンで四隅に小さく花丸を書いてくれるようになったのは3回目にノートを拝借した時だった。


――古語活用法は丸暗記。

愛美のお手本のような筆記体が、珠里の丸文字が並ぶ中で異彩を放つようにそこに書かれている。

集中して音読をした30分で誦じて言えると胸をはれるのは四段活用のか、き、く、く、け、け――のみ。

古文のテストの赤点回避のためには、他の教科の時間も注ぎ込まなくてはいけないかもしれない。


絶望感漂う成果に肩を落とす。

珠里はヤケクソで教科書を机の隅に寄せた。

古典は幸いなのかなんなのか、最終日。

(…気晴らしで数学でもしよ)

そう思って鞄を引き寄せた時だった。


――カラン、と

引き寄せた鞄が机に当たり、揺れた衝撃で簪が床に落ちた。

お風呂上がりに後で直そうと教科書の上に置いていたのを珠里はすっかり忘れてしまっていた。


…簪がっ!

慌てて簪を拾い上げそっと光にかざす。

幸いにもガラス玉には傷がなくてほっと息を吐く。



―美味しそうだネェ―


耳元でキチィと、音が鳴る。

肩に乗る質量を見ずともわかる。


―――後ろに、ナニかがいる。


珠里は振り向く勇気もなく、眼球だけで重さを感じる自分の肩を見た。喉が恐怖のあまり引き攣って、悲鳴がひしゃげる。


「……ひっ!」

ソレ、は昆虫の足を思わせる形をしていた。

現実にはあり得ないほどの長さをしている足が、珠里の頬を撫でる。ピリッとした痛み。爪で傷をつけられたと思い当たってますます珠里は身を固める。

(…また、食べられる!)


―直ぐ、喰うてやル―


2本の足が珠里を絡めとる。逃げる暇もなく、捕らえられた痛みで珠里の手から簪が転がった。

身体ごと簡単に抱えあげられ、そのまま後ろに強い力で宙に放り出される。

絡まっていた足が離れ、全身が浮遊感に包まれる。

体制を整えようとするが、力が入らない。


(床に叩きつけられるっ…!)

次に来るはずの衝撃への恐怖に珠里はぎっと目を閉じた。




――リン、と聞き覚えのある鈴が鳴る。


恐る恐る目を開けた珠里の目に映ったのは、腹に回る人の腕。

(一体これはなに?…リアルな夢?)

次から次へと舞い込む問題の嵐に巻き込まれて、珠里の思考回路は早々にオーバーヒートを起こしていた。一層のこと夢であれと願いながら腕の持ち主を珠里は見上げる。


そこに立っていた人は、――随分と美しい男だった。


金色の髪はまるで月明かりを閉じ込めたような神秘的な色をしていた。珠里を腕に抱いて覗き込むような体制のせいもあって、長い髪が珠里を守るように取り囲むように広がっていた。

蜂蜜をそのまま固めた色の目は一本筋が入った切れ長で、瞳孔が縦長に伸び、今は驚きに見開かれている。

女神の彫像を思わせる顔立ちは、男らしい凛々しさも持ち合わせつつ見れば見るほど人間離れした秀麗な顔をしていた。


「…そろそろ撤退してもいいかい?主殿」

見つめあったままの二人に痺れを切らした白い男がくすりと、笑う。

揶揄いたくて仕方がない声音を隠しきれない声だ。


弾かれたように男が、珠里を見下ろして口を開こうとするのを白い男が止めた。

「後でにしよう、騒ぎになっても困る」

何をと、珠里が疑問の声を出す前に意識が遠のく。



それからすぐ、先程までの騒動が嘘だったように、辺りに静けさが戻った。

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