第32話

 12月28日。

 午後1時。


「眉美、よく来てくれたな」


 スチール製の引き戸を開けて顔を出すと、城ケ崎は屋上の中央で腕組みをしてわたしを待っていた。


 吐き出した息が、白く変わる。

 雪上には城ケ崎一人分の足跡が真っ直ぐ伸びているだけだった。


「当然です。わたしは先生の助手ですから。先生がわたしを必要とする限り、地の果てでも付いて行きますよ」


 わたしは引き戸を閉めると、地下室から持ってきた護身用の剣をそこに立てかけた。

 依然風は強いままだが、吹雪は一時的に止んでいるようだった。

 遮蔽物が一切ない屋上からは、灰色の空がどこまでも広がっているように見える。


「ですが、一つだけ訊かせて下さい。先生は何故わたしを部屋ではなく屋上に呼び出したのですか?」

 わたしは予てからの疑問を口にした。


「それはこれからする話を、他の者に聞かれたくないからだ」


「…………」


 城ケ崎は至極当然のことを言った。

 それはそうだろう。

 わたしをわざわざ呼び出して二人で話すのだから、他の探偵たちには内密にしておきたい話であることは間違いない。

 しかし、わたしが知りたいのはそんなことではない。


「いえ、わたしが知りたいのは何故今回に限って指定場所が先生の部屋ではなく、屋上になったのかということです。犯人がどんな方法で殺人を行っているのか分からない以上、極力部屋の外に出ることは避けるべきだと思うのですが?」


 わたしがそう言うと、城ケ崎は人差し指をピンと立てた。


「館の中には盗聴器が仕掛けられている」


「え?」


 まさか。

 そんなこと、考えもしなかった。


「思い出してみろ。烏丸はお前のことを何と呼んでいた?」

 わたしは脳細胞を総動員させて、そのときの記憶を掘り起こす。


「えーと、確か『鈴村様』って」


「お前は烏丸の前で自分の名を言ったか?」


「あ」


 わたしが名乗ったのは食堂で鮫島に絡まれた、あのとき一回だけだ。

 そしてそのとき、烏丸はわたしたちが集まる食堂にはいなかった筈ではないか?

 にも拘らず、烏丸はわたしのことを「鈴村様」と呼んだ。

 名探偵である城ケ崎なら兎も角、本来招待されてもいないわたしの名前を烏丸が知っていたとは思えない。

 恐らく烏丸は別室で食堂の会話を聞いていたに違いない。


「ここならたとえ盗聴器が仕掛けてあっても、この風の中では殆ど音は拾えないだろう。これで思う存分話が出来るというわけだ」


「……場所を屋上に指定した理由は分かりました。それで先生がわたしに話したいことというのは?」


「その前に一つ、お前に謝っておきたいことがある」


 城ケ崎の意外な申し出に、わたしはどうしていいか分からなくなる。


「謝るだなんて、そんな」


 そんな謂れはない。

 謝るのはむしろ勝手な真似をしたわたしの方で、城ケ崎がわたしに謝ることなどないのではないか?


「今朝、オレの部屋から綿貫が出て来たことで、お前を少なからず混乱させてしまったかもしれない。そのことについて、少しだけ弁明しておきたいと思ってな」


 混乱。

 確かにわたしは綿貫が城ケ崎の部屋から出てきたことで酷く混乱した。

 ショックを受けた。

 しかし、そもそも何故わたしはそんなことで動揺しなければならなかったのか?

 わたし自身にも自分の感情の正体が掴めなかった。


「昨夜、シャワーから部屋に戻る途中で綿貫に声を掛けられた。綿貫は不破が殺された不安から、一人で部屋にいることが耐えられないと言ってきた。そこで、オレの部屋に一晩泊めて欲しいと頼み込んできたのだ。当然オレは断った。それで綿貫が犯人だったときには目も当てられないからな。それにお前に言った通り、一人で考えたいことがあったのも事実だ」


「…………」


 あの綿貫が城ケ崎を頼りに来た?

 本当に?

 何時も不敵な綿貫のイメージからはとても考えられない話だ。


「だが綿貫もそう簡単には諦めてくれなかった。そこでオレは彼女に条件を出すことにした。オレの部屋に来たくば、地下室にある目隠しと拘束具を装着しろ、とな。綿貫はそれでも構わないと言った」


「……ちょっと待って下さい。それはあまりにも酷い条件ですよ。それでは先生だけが綿貫さんのアリバイの情報を得ることになります。綿貫さんに何のメリットもないではありませんか。そんな条件を綿貫さんが飲むとは思えません」


「そうか? お前なら綿貫の考えていることが分かると思ったのだがな」


「…………?」


 わたしには城ケ崎の言わんとしていることが分からない。

 城ケ崎の話を本当に信じていいのかすらも分からなかった。


「だがオレとしてはそんなことはどうでもいい。綿貫が条件を飲むのなら、オレに断る理由はない」


 それはそうだろう。

 城ケ崎にとってそれは破格の条件なのだから。

 合理を重んじる城ケ崎なら断る筈がない。


「だが誤解しないでくれ。オレは綿貫に対して疚しいことは何もしていない。彼女に対して特別な感情を抱いたわけでもない。あくまでゲームに勝つ為に利用してやったまで。それだけだ」


 城ケ崎がゆっくりとわたしの肩を抱き寄せながらそう言った。


「オレが大切に想っているのは眉美、お前だけだ」


「……え? ……いや、あの、ちょっと」


 今度は本当に言ってる意味が分からなかった。

 一体何を言ってるんだ。この人は?


「……えーと先生、一旦落ち着きましょうか。それから、ちょっと顔が近いです」


「オレは何時だって冷静だよ」


 わたしの肩を抱く城ケ崎の手に、一層力がこもる。

 ぞくり。

 わたしの全身に怖気が走った。


「……あ、あのですね先生、わたし、一応男なんですけど」


「何を当たり前のことを言っている? お前の方こそ少し冷静になった方がいいんじゃないのか?」


 城ケ崎の表情のない、白い顔がすぐそこまで迫っていた。


「…………」


 拙い。

 このままでは済し崩し的に唇を奪われてしまう。


「……や、やめて下さい!」


 わたしは城ケ崎を強引に突き飛ばした。

 城ケ崎はわたしの抵抗を予期していなかったのか、大きく体勢を崩し、雪の上に尻餅をつく。


 ――やってしまった。


「……すみません」

 自分のしでかしたことの重大さに気付いて、わたしはその場に固まってしまう。


「眉美、危ないッ、伏せろッ!」


「え?」


 次の瞬間、わたしは後頭部に衝撃が走る。

 何者かに背後から殴られたのだ。


「眉美ッ!」


 城ケ崎が慌ててわたしに駆け寄ってくるのが見えた。


「……せ、んせい…………」


 わたしはその場に膝から崩れ落ち、次第に意識を失っていった。

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