飛べない小鳥が飛ぶところ
尾八原ジュージ
飛べない小鳥が飛ぶところ
別に贅沢なことは望んでないつもりだった。たとえば「世界一ピアノが上手くなりたい」なんて言ったことはない。世界一どころか日本一でも無理だってことは、小学校中学年くらいからもう悟り始めていた。確かに同い年の中ではピアノは弾ける方だと思う。小さい頃から評判のいい教室に通って、そこの門下生の中では小中学生まで合わせてもたぶん一番だと思う。そんなに大きな規模じゃないけどジュニアコンクールに出て一応入賞したりして、それはそれでおれの誇りだし自慢したいことではある。が、ピアノやってる人ってめちゃくちゃ母数が多くて、その中のてっぺんオブてっぺんっていうのは、もう「明らかに格が違う」って感じのめちゃくちゃ一握りの天才が目指すところなのだ。で、おれは違う。それなりにがんばってるけど自分が凡才だということはわかっている。だからこそ願っていたのだ。「せめて学年で一番くらいになれませんか」と。
彼女の指が鍵盤を叩いた瞬間、クラスの全員がピアノの方を向いた。もう上手いなんてもんじゃない。何の曲かはわからない、でもその全然知らない旋律に心をがっと持っていかれて、一瞬で彼女が世界の中心になった。演奏はほんの一分くらいだった。でもその一分が終わったとき、「割れんばかりの拍手」ってのはこういうものなんだなと納得いっちゃうような拍手喝采が巻き起こった。すごいすごいと言いながらピアノと白鳥さんをわっと取り囲む皆の後ろで、おれはボンヤリしていた。今のは一体なんだったんだ? 魔法か?
「ねぇ、今の何て曲?」
誰かが聞いた。おれは聞き漏らすまいと耳をそばだてたが、白鳥さんは照れながらこう答えた。
「えーとね……適当」
思いついたまま、今、アドリブで、即興で演奏したという。(あっ死んだ)おれはとっさにそう思った。実際に死んだわけではないけど、でもこの時は「死んだ」と思ったし実際ちょっと心臓が止まっててもおかしくないと思う。もう明らかに格が違うってやつを、つまり天才ってやつを、おれはまざまざと見せつけられたのだった。
それから白鳥さんはよく学校でピアノを弾くようになった、というか「弾いて」と頼まれるようになった。彼女が演奏するのは「適当」だったり、流行ってる曲をアレンジしたものだったり、おれがやってきたクラシック曲中心のレッスンからはかけ離れたものだったけれど、毎回おれに「うわぁ死んだ」と思わせるのだった。最初は悔しかった。みんなおれがピアノ弾けるってこともう忘れてんだろうな~なんて、卑屈になったりもした。が、(そういうところを表に出すとかっこわるい)と思って、ひたすらスカした顔をしていた。もしかしたら学校だけじゃなくピアノ教室でも無双されるのでは……とびびっていたが、幸い彼女が同じ教室に入会することはなかった。きっとどこか別の場所ですごい先生からレッスンを受けているのだろう、とおれは考えた。
奥歯をギリギリ噛みながら食い入るように白鳥さんの演奏を聞いているうちに、悔しさもちょっと麻痺してきて、そんな頃だった。卒業式でみんなで歌う校歌、それのピアノ伴奏を決めなければならない時がきた。
そいつは毎年卒業生の中からオーディションで決めるというのが恒例なのだが、おれは何としてもその座を手に入れたかった。というのもおれは歌がヘタだ。「ほんとに音楽やってんの?」って聞かれるくらいヘタなのだ。だからぜひピアノ伴奏に回してほしいし、それにやっぱり「卒業式で卒業生が歌う校歌」って特別な感じがする。自分が曲がりなりにも「特技」だと思ってることで参加したいし、そのために練習を重ねてきた。だからオーディションは余裕で突破するつもりだったし、みんなも「
「校歌の伴奏は小鳥遊くんでいいんじゃない?」
拍子抜けである。白鳥さん弾かないの? そんなピアノ上手いのに? 合唱練習のとき一人だけずっと座ってられるのに?
「わたし、まだよく知らない曲だから……」
なんて白鳥さん、そんな情けを垂れるようなことを言ってくれちゃってアハハまたまたそんなご謙遜を――と、ムカッときた。で、おれはつい、みんなの前で白鳥さんを捕まえて言ってしまったのだ。
「伴奏はオーディションで決めるってことになってるんだよ」
と。そして楽譜を差し出した。実質挑戦状である。どう見たってお前もやれの意である。白鳥さんは困ったように目をぱちぱちさせていた。
それがオーディション予定日なんと前日、本番は予定通り翌日の放課後に行われた。つまり白鳥さんには一晩しか練習時間がなかったわけだが、ぶっちゃけおれはそれをハンデと思っていなかった。なにしろ小学校の校歌の伴奏である。超絶技巧なわけがない、というかむしろ弾きやすい。おれですら初見のときに通しで弾けたくらいだから、彼女レベルだったらこの程度の曲、朝飯前より簡単に弾きこなすに違いない。だからおれは気を抜かなかった。抜いている場合ではない。前日めちゃくちゃ練習した(そしていい加減にしろと親に叱られた)し、家の神棚も拝んだし、朝から肩が凝りそうなほど緊張していた。その日はやけにじりじりと時間が過ぎ、ようやく放課後になった。
オーディション参加者はおれと白鳥さんのふたり。審査員はおれたちの担任、学年主任、音楽担当の外部講師の三人だ。まずはジャンケンをして、先攻がおれ、後攻が白鳥さんということに決まった。こういうときマンガだと大抵後攻のやつが勝つんだよな――なんてことを考えてしまう。でもおれは退かない。これまで練習してきた月日を信じる。白鳥さん、おれの全てをぶつけてやるよ。
椅子の高さを調整したらいよいよ本番だ。一礼してピアノの前に座り、鍵盤に指を載せて一呼吸、そしておれは演奏を始めた。何度も弾いてきた曲だ。暗譜は完璧だ。真っ白な五線譜にいきなり書き出せそうなくらい覚えている。でも大丈夫じゃない――というのが本番の魔力だ。おれは知っている。努力は時に報われない。どんなに練習しても、ステージの上で全部吹っ飛んで真っ白になるということはありうるのだ。実際(やっと中盤に来た)なんて頭の隅っこで考えているおれはメンタルが擦り切れそうで、集中しろ集中しろと思えば思うほどに(からあげたべたい)みたいな邪念が湧いてくる。そんなときでも手は動きを覚えていて、習慣というのはすごいなと思った。努力は時に報われない。でもハナから努力しないやつに報いることはない。
もう楽しさなんかどこかに行ってしまって、たぶん普段よりもよくない演奏で、それでもおれは必死で、ようやく最後の和音を奏でた。手汗がすごい。ぷるぷると立ち上がると、先生たちが拍手をしてくれた。白鳥さんもだ。オーディションに興奮しているのだろうか、いつもより頬が赤くて、目をキラキラさせている。
おれは心の中で彼女に語りかける。白鳥さん、これがおれの実力さ。なさけねー、おれなんか凡人だよ。白鳥さんの脚元にも及ばない、飛べないヒヨコさ。でもそれでも戦ってみたらさ、億が一くらいはおれが勝つ可能性だってあるじゃん? 何事にも絶対ってことはあんまりなくって、たまには世界のどこかで何かしらのジャイアントキリングが起こったりするわけじゃん? だから勝負したかったんだ。きみと。あのままおれの不戦勝なんて、きっと大人になっても後悔するだろう。さぁ正々堂々とやってくれ白鳥さん。次はきみの番だ。
「小鳥遊くん、すごく練習したわね」講師の先生が言った。「前から上手かったけど、どんどん上手になるね」
やっとこさ「アリガトウゴザイマス」と返したけど、なんだか褒められるのがすごく恥ずかしかった。とにかくおれの出番は終わった。さぁ来い白鳥。おれを殺せ。
白鳥さんはぺこっとお辞儀をしてピアノの前に座った。譜面台に楽譜を広げ、唇をきゅっと結んでそれを見つめる。そして彼女の指先がポンと最初の音を叩く。その最初の一音で(ああ負けた)と思った。おそらく誰もが彼女の勝利を確信したイントロ終了直後、はたと彼女の指が止まって動かなくなった。静まり返った音楽室、白鳥さんがピアノの椅子を降りる微かな音が聞こえた。
「すみません、弾けません」
そう言った声はとても寂しそうに聞こえた。
一礼してさっさと音楽室から出て行った彼女を、おれは後先考えず追いかけた。(おれが白鳥さんを傷つけたんだ)と思った。三階の廊下でやっとこさ追いつくと、おれはまず「ごめん!」と叫んだ。
「白鳥さんごめんおれ無理言った、意地悪とかじゃなくてきみなら絶対弾けると思って言ったんだけど、でもすごかったじゃん最初のとこ」
だんだん何を喋ってるかわからなくなって、耳が熱くなった。白鳥さんはぽかんとした顔でおれを見て、それから「へへ」と笑った。
「やっぱり一回聞いただけじゃ、全部は覚えられなかったや」
は?
「あのね小鳥遊くん。実はわたし、楽譜読めないの」
へぇ?
「ピアノ教室とか通ったことないの。前は近所のおばちゃん家で弾かせてもらってたけど、ほんとにそれだけ。ほら、教室行くとお金かかるでしょ? うちお金ないから……だからほんと、あの適当に弾くやつとか、聞いたことある曲耳コピするとか、そんなのしかできないんだ。楽譜通りの演奏なんか絶対無理ってわかってた。でも今更読めないって、恥ずかしくて言い出せなかったんだ……」
おれはポカーンと口を開けたまま彼女の告白を聞いていた。そんなばかな。おれ、家でもめちゃくちゃピアノ弾いてるだろうと信じて疑わなかったんだが? すげー師匠がいると思ってたんだが? そんなことある?
誇張でなく震えた。「まじですごいよ白鳥さん」口からぽろっと言葉がこぼれる。「最高じゃん」
そこからはもう、絶対ピアノやった方がいいよいっぱい弾きなよって詰め寄った。「弾くとこないならうち来ていいよ! アップライトだけどピアノあるし! 親も楽器やるから防音室だし! 楽譜とかめっちゃ貸すし! 読み方も教えるし!」
白鳥さんは俯いて真っ赤になりながら「じゃあ、たまに行っていい?」なんて聞くから、おれは「毎日来いよ!」と前のめりに答えた。すると白鳥さんが、笑った。顔全部がふわ~っと幸せそうな感じになって、それがこれまでのおれの人生であった嬉しいことを全部なぎ倒しててっぺんで輝いちゃうくらい可愛くて、(あ、死ぬ)と思った。死ななかったけど。
それからおれんちに通い始めた白鳥さんが意外と譜面を読むのは苦手で苦労したり、卒業式の校歌はおれが伴奏で白鳥さんはみんなと一緒に歌って、おれは(ちくしょう歌もうまいじゃん)なんて思いながらステージでピアノを弾いたり、あとはおれの親と姉貴が白鳥さんのことをめちゃくちゃ気に入ったり、遠い街から白鳥さんと彼女のお母さんを探して押しかけてきた白鳥さんのどーしようもない父親に、中坊になったおれがびーびー泣き喚きながら殴りかかったりして色々大変だったけどそれも今となっては昔のことだ。今、大人になった白鳥さんは世界を股にかけちゃうすごい音楽家で、そして世界一のお嫁さんになって平凡なおれと一緒に暮らしている。まぁ彼女、一年の半分以上は演奏旅行に行ってて実際に同じ屋根の下で過ごせる日はあまりないんだけど、それでも幸せだ。
結婚してから一度話したことがある。「小六のときのオーディション覚えてる? おれの演奏ひどかったよね」って、笑いながら。でも妻は大真面目に「そんなことないよ」って否定した。
「実はあのときからだよ、好きになったの。あなたがピアノ弾いてるところ、すごくかっこよかった」
そう言ってもらえたので、オーディションはおれの大勝利だったということにした。誇りである。
飛べない小鳥が飛ぶところ 尾八原ジュージ @zi-yon
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