1-8 ♂ あくまで生理現象だから仕方ないよねっ ♀ 

「確かに、これはいくら時間があっても足りなかったかもしれないな……」

 

 俺は机にうなだれながら言った。

 仮にもカノジョである愛音あいねとのお泊り会ということで、なんやかんや言いつつも一時は浮足立っていたのだが……ここまでほとんどすべての時間が愛音による『女の子セミナー』に費やされた。


 マンションの中を探索しながら、そこにあるものをひとつずつ確認していく。当然ながら〝女子関連〟のものは、俺が男だった時の部屋には存在しなかったため、その都度こまやかに愛音が説明をしてくれた。


 特に化粧台ドレッサーまわりには時間がかかった。『これはコテだよー髪を巻くときに使うの』『それは美顔器びがんきだねー』『このアイパレットかわいー! あ、私もこのハイライト持ってるよー』『ヘアオイルにシアバター……あ、それは身体用だから顔には塗っちゃだめっ』などと言われても何がなんだかサッパリだった。頼むから日本語で喋ってくれ!


「なあ……女子って毎日こんなことしてるのか……?」


 基本のメイク講座をひととおり終えて。

 俺は『心・身・脳』すべてをぐったりと疲弊させて言った。

 

「ふふ。慣れたらそのうち楽しくなってくるよー」と愛音は笑った。「それに、みーくんはこんなに素材が良いんだからっ。活かさないともったいないよ」

「……俺は、男だ」

「今は女の子、でしょう?」

「うー……」


 否定できないことが悲しかった。

 今の俺は女の子だ。誰がどう見たって。誰にどう聞いたって。

 100人が100人そう答えるだろう。


「………………」

「あれ? みーくん、どうしたの? なんだかさっきからしてない?」

「へっ? な……なんでも、ない」


 まずい。

 気づかれた。


「どうしたの? 顔色もすこし悪そうだし……もしかして、体調悪い?」


 愛音が心配そうに顔を覗き込んでくる。

 俺は目をそらして、途切れ途切れに言う。

 

「大丈夫、だ。気にしないで、くれ」


 指摘をされたら余計に気になってきた。

 俺は身をよじるようにしてお腹に力を入れる。太ももを擦り合わせる。ふだんはそこにあるはずのが存在せず、内腿がぴったりと張り付いて不思議な感覚になった。


「みーくん? はっ……もしかして」


 愛音も気づいたようだ。

 俺の様子がさっきからおかしい原因。

 

「なあ愛音。講座ついでに、聞きたいことがあるんだが」

 

 それは――

 

「女子が、と……トイレに行かなくても済む方法を、教えてくれないか……?」


 どうしようもなく下半身をうずかせる〝尿意〟だった。

 

「……っ!」

 

 愛音は頬をぱっと赤く染めて、目を見開いて、『うううううん』と一瞬考えこむようにしてから、

 

「えへ――無理、かな」


 と恥ずかしそうに首を振った。


「女の子も人間だからね。っていうか! 我慢は身体に悪いよ? どうせいつかはしなきゃいけないんだし……ねっ? がんばってやってみよー」


 そんな『ためしにやってみよー☆』みたいに軽いノリで言われても。


「……む、無理だ!」

 

 俺からしてみれば大問題でしかないのだった。


「元男の俺にとっては、このカラダで用を足すのはハードルが高すぎる……うっ⁉」

 

 しかし膀胱には容赦の2文字はないらしい。

 俺は内また歩きで涙ながらにトイレへと駆け込んだ。

 


      ♡ ♡ ♡



「どう? 順調……?」


 トイレの扉一枚越しに愛音が聞いてきた。


「……まだ、だ。これ、から」

 

 俺は身をよじりながら答えた。

 いつの間にか呼吸が荒くなっている。

 何度もコトを試みようとしてみたのだが――


 俺は最後の一歩を踏み出すことができず、扉を開けて廊下に出た。

 

「や、やっぱり無理だ……!」

「みーくん?」と廊下に立っていた愛音が目を丸める。

「うー……どうしても踏ん切りが、つかないんだ」

「でも、それでどうするつもり?」

「……もう少し、がまんする」

「がまんして? そのあとは?」

「……うー」


 俺はそれ以上答えることができない。

 

(たしかに愛音の言う通りだ。人間である以上は、。だが、それでも――)


 洗面台の鏡に俺の顔が映る。視線がぐるぐると泳いでいる。冷や汗が滲んでいる。頬が赤くなっている。もう限界だ。色々と。

 

「……ふう。しょうがないなあ、みーくんは」


 そんな俺の様子を見かねたのか。

 愛音が優しい溜息をつきながら言ってくれた。

 

「じゃあ……一緒に、する?」

「へ?」と俺は目をまたたかせる。「はあああっ⁉」

「あ、へんな意味じゃないよっ?」


 ヘンな意味にしか聞こえなかった。

 

「扉越しにね、指示を出してあげる。だってさ? 仮に今、一時的にここから逃げ出したとしても、いつかは絶対に乗り越えなきゃいけないんだよ? だから、一緒に……ね?」


 言葉だけなら『同じ目標に向かって共に頑張ろうとする青春物語』のように聞こえるかもしれないが、実際はトイレに行くのを拒否して単に駄々っ子をキメてるだけだ。


 それでも。

 幼児おさなごでも頑張れば登れるようなその山が、今の俺にとっては日本一の富士山のように高く思えていることも確かだ。


「うー……わかった。愛音と、

「うんうん、いい子だね」


 とまさしく小さい子を褒めるかのように愛音は笑みを浮かべた。


 俺はふたたびトイレの個室の中に入る。

 扉越しに愛音の囁くような声が聞こえてくる。

 

「みーくん。私の言う通りにするんだよ?」

「……ん」

「まずはスカートの裾を、持ち上げてみて」

 

 俺はゆっくりと深呼吸をしてから――スカートに手をかけた。


「も、持ち上げ、た」

「そしたら前で束ねて、片方の脇に抱えこむようにするの」

「……し、した」

「片手があいた?」

「……おう」

「じゃあその片手で――

「っ⁉」


 おろしてみて。

 何を? とは聞かなかった。

 聞かずとも。

 分かったから。


「うー……っ!」


 俺はこくりと唾を飲み込み、意を決して。


 ピンク色のパンツを。

 つるつるとした生地の神秘の布を。

 爪先でくいとつまんで。

 

 ――おろしていく。

 

「ゆっくりで、いいからね」

「……ん」

「ゆっくり、ゆっくり。膝下くらいまで」

「……さげ、た」

「うんうん。そしたら、抱えた服の裾がつかないように――すわって」


 すわった。


「そしたら――全身の力を、ぬいて」


 ぬいた。


「……んっ」


 限界ぎりぎりまで我慢していただけあって。

 はすぐに訪れた。


「ぅ、ああああ……」


 同時に。

 骨の髄から全身に滲むように解放感が広がっていく。

 

「はああああああ――」


 口から不可避的に安堵の声が漏れる。

 漏れて――止まった。

 

「……お、おわった、みたいだ」

「ん……」と愛音はそこでどこか恥ずかしそうなうめき声を出した。「そうしたら、今度は拭いていくんだけど……いい? からにね。逆はぜったいに、だめ」

「うん? なんでだ……?」

「……ばいきんが、ついちゃうから」と愛音はすこし言いにくそうにした。

「ばいきん?」


 俺は頭の中で『後ろ→前』に拭いた時のイメージをしてみた。してみて……愛音が気まずそうにしていた理由を察し『わ、わかった……!』と慌てて忠告を受け入れた。


 

 ――じゃああああああ。


 

 ひととおりの後始末あとしまつを終えて、俺は水を流した。

 洗面台で手を洗って。タオルで拭いて。

 扉越しにずっと優しく声かけてくれていた愛音の前に立った。

 

「――おわった?」と愛音がきいた。

「……おわった」と俺は小さめの声で答えた。

「ちゃんとできたんだね。えらいよ、みーくん……!」

「――お、おう……!」


 愛音に褒められたことで、せきを切ったように達成感が俺の中から湧き上がってきた。


「俺……できた、できたぞっ……! あれだけ無理に思えた高い山を、登ることができたんだ……!」


 達成感から謎のハイテンションになりつつ、俺は愛音と抱き合い喜びあう。


「よくできたねえ、みーくん。すごいすごいっ」

「ああ、よかった……これでしばらくは、生きていける……!」


 ただ『トイレができた』というだけなのに。

 俺の目にはいつの間にか涙が滲んでいた。感動の涙だ。

 そんなふうに喜びで打ち震えていたら――

 

「うんうん。そしたら、この流れで――〝次〟いってみよっかっ」

「……え?」


 愛音は。

 俺のことを『えらいねえらいね』と褒める笑顔の延長線上で。

 まさしく幼児をおだてるように言った。

 

 

「今度は――入れるかな?」

 

 

 富士山を超えたあとには世界一高い山エヴェレストが待っていた。



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