跳ねる音

山後武史

跳ねる音

こんな話を聞いた。

Kさんは大学入学前の3月、1人で住む部屋を探していた。

父親と将来の進路で衝突し理解を得られない中、志望校へ合格を果たしたKさんは実家から出るつもりだった。

暮らしが始まれば金銭面の援助を期待できない。

そう思ったKさんは、とにかく安さを優先して部屋を探した。


時間があれば内見に行く日々を過ごしていた。

その日は築30年、3階建てのアパートに案内された。

最近外壁の塗り替えをしたということで白塗りの外観はきれいだった。

案内された部屋は2階にある洋室6畳ワンルーム。

元々持ち物の少ないKさんには十分に思えた。

窓は南向きで日当たりは良く、住宅街の中にあるため夜も静かそうだ。

狭いベランダへ出ると、目の前の道路を挟んだ向かいに古い2階建ての木造アパートが見えた。売り物件の看板が立っている。

2階へ上る階段の手すりは錆び、木製ドアの表面はボロボロに剥げた部屋ばかりだ。

Kさんはベランダから見えるアパートの一角に目が釘付けとなった。


真っ白な壁が風にそよぎ、蠢いていた。


よく見ると、表面に黒い模様や赤い図形が見える。

あれは何だろう、とKさんが見つめていると、強い風が吹いた。

バタバタバタッと壁が鳴った。

Kさんは理解する。


それは御札が幾重にも貼られたドアだった。


貼られた御札が風でめくれている。

それを見つめていた時、Kさんはぞっとしたという。

一番下に貼られた御札がめくれるとドアの板が見えるはずだが、大量の御札の下からこちらを覗く目と、目が合ったのだった。


「どうかされました?」


背後より不動産屋の営業マンから声がかかった。

驚いて漏れそうになった声を飲み込み、Kさんは尋ねた。


「あのアパートって……」


営業マンは苦笑いをする。


「廃墟みたいで危険そうですよね。でもあそこに不良が溜まるとか、事件が起こる、なんてことは聞かないですね。今の住民の方からも苦情は特に出ていません。まあ、うちの管理ではないので、何もできないんですが」


Kさんは先程見たものは錯覚か見間違いだろうと思うようにした。

ただ、今はアパートの方を向くことはできなかった。

念願の1人暮らしの部屋から見える景色としては不気味だと思ったが、家賃の安さが魅力的だった。

親には簡単に頼るわけにはいかなかった。結局、この部屋に住むことに決めた。


実家を出る朝、Kさんの母親が玄関で見送ってくれた。

父親は早朝から仕事に出かけていて家にはいなかった。勤務時間が流動的な仕事のせいだが、それはいつものことだった。

Kさんは母親からお守りを渡された。近所にある神社のものだ。

Kさんが礼を述べると、父からだと母親は言う。


「あの人も素直じゃないのよ。色々言われてたけど、あなたのこと応援してるはずよ」


Kさんは自分のキーケースにそのお守りを結んだ。

こうしてKさんの1人暮らしは始まった。


1か月ほど経った夜のことだ。

Kさんはバイトに励みサークルへ顔を出して大学生活を満喫していた。

向かいにあるアパートのことは段々と気にならなくなっていた。

その夜は提出期限間近のレポートを仕上げるため、Kさんは自宅のPCに向かっていた。


コッ、コッ、コッコッコッココンコンコン。


何かが落ちて跳ねる、軽い音がした。

音の方を振り返る。

オレンジ色のピンポン玉が床に転がっていた。

Kさんは卓球サークルに所属している。

ラケットやシューズといった道具類をベッド脇にある棚の上にまとめて置いていたが、そこから落ちたのだろう。

Kさんはピンポン玉を棚に戻し、再びレポートへ取り掛かった。


コッ、コッ、コッ、コッ、コッコンコン。


Kさんが振り返るとまたしてもピンポン玉が床に転がっている。

不思議に思ったが、レポートを仕上げることが最優先事項だったので、Kさんは卓球の道具を大きな袋へまとめて入れて床に置いた。

その夜、ピンポン玉が転がることはなかった。


それ以降、Kさんは不思議な現象に悩まされ始めたという。

棚や机などの上に置いたものが勝手に落ちていくのだった。

一度、まな板の上にあった包丁が足のそばに落ちてきたこともあった。

Kさんは床にピンポン玉を置いてみたが、自然に転がることはない。

床が傾いているということはなさそうだ。

不動産業者へ相談はしてみたが、問題なしという答えしか返ってこなかった。

思い切って大家へ、実は昔この部屋で何かあったのではないか、と尋ねてみた。

Kさんの頭には事故物件という言葉がよぎっていた。

この建物ではどの部屋でもそういうことはない、と大家はすげなく答えた。

Kさんは引っ越そうと考えたが資金がなかったし、親にすぐ頼ることは自分自身が許せなかった。金が溜まるまでの我慢だと言い聞かせ、部屋を模様替えし危険な物はすぐ片付けるようにして日々を過ごした。


蒸し暑い日の夜だった。

Kさんは冷房の効いた涼しい部屋で発泡酒を飲んでいた。

2、3缶を空けてKさんはベッドに横になる。

天井を眺めながらぼーっとしていた。


コッ、コッ、コッ、コッ、コッ、コン。


Kさんは飛び起きた。

ピンポン玉が床に転がっていた。

あり得ない。

卓球の道具類は袋に仕舞って、床へ置くようにしていたからだ。

酔った頭では考えがおぼつかない。

Kさんは水を飲もうと台所に立つ。

水を一杯飲み干して、ベッドに戻ろうとすると足の裏がヒヤリとした。

足元を見ると、包丁が床に落ちている。

刃の腹の部分を踏んでいたのだ。

驚いたKさんはすぐさま包丁を拾い、戸棚の中へ入れた。

なぜこんなことが起きるのか、Kさんにはわからなかった。

居間から布が引き裂かれたような音がした。

Kさんは慌てて居間へ戻った。

卓袱台の上のキーケースが目に入る。

あぁ、と力ない声がKさんの口から漏れたという。

父親からもらったお守りが一部裂けていたのだ。

Kさんはキーケースごと手に取り、布団を頭から被ってぎゅっと目を瞑る。


コーン、コーン、コーン、コーン、コーン、コーン、コーン、コーン、コーン、コーン、コーン、コーン、コーン、コーン、コーン、コーン、コーン、コーン……。


ピンポン玉が大きく跳ねる音がする。だが、いつまでも鳴りやまない。

Kさんはとにかくお守りを握りしめて布団の中で助けを求めた。父や母の顔を思い浮かべながら。


コーン、コーン、コーン、コーン、コン……ぬちゃ。


湿った音を最後に、部屋は静かになった。

静寂が不気味だった。

Kさんは布団を少しずつめくっていく。

部屋に変化はないと思えた。少しずつ、少しずつ見える範囲を広げていく。

卓袱台、テレビ、ノートパソコン、煌々と明かりのついたいつもの部屋。

そろそろと起き上がり、ベッドの下へ足を下ろした。

足先に何かがぶつかった。

足元を見たKさんは声も出なかった。


爪先に触れていたのは、濡れた女の首だったからだ。

あるべきはずの首から下の部分は見当たらなかった。


長い髪で顔はほぼ隠れていたが、髪の毛の間から覗く目はKさんを見つめていた。

青白い目は瞬きもしない。

女は口をかぱっと開いた。

口からはざらついた声が漏れ出てくる。


ア、ア、アガ、アガ、アガナ、エ……。


そこから先のことをKさんははっきりとは覚えていないと言った。

「気付いたら実家の前に立ってたんだ。部屋から逃げ出してたんだ。親には頼らないって決めてたのに、しばらく実家暮らしに逆戻りになったんだよ」

そう言って苦笑いするKさん。

今は両親との関係も良好になったという。

「結局、あれは何であの部屋に現れたのか、わからないままだな」

ぽつりとKさんはつぶやいた。

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跳ねる音 山後武史 @sangotakeshi

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