第19話 誘い【8月5日】

 僕はあれからというもの、未来を保育園に送ったあと、図書室に行き、凛とした姿勢で読書をする由依さんとともに読書をし、時折会話をして、また時折何か触れる感触を感じ、最後に別れの挨拶を交わして、家のルーティンをして、未来を迎えに行き、帰りに色葉さんの家に寄って、チーちゃんの自転車の練習を手伝うという毎日を過ごしていた。


 特に大きなイベントはない。


 でも、自分の日常の中に、自分(と未来)以外の誰かが関わっていて、しかもそれが日常的に続くだなんて思ってもいなかったから、今年の夏休みは退屈しなかったし、どうして彼女たちが僕と関わってくれるのか不思議ではあったけど、あえてこの日々を拒みたくはなかった。


 そんなある日のお昼頃、いつものように由依さんと図書室で読書をしていたところ、由依さんが不意に、


「奥山くんは、学校の教会で祈りを捧げたことはある?」

 と聞かれた。


「いや、ないよ。特にキリスト教を信じているわけでもないからね。」

「そう。もしよければ、今から私と教会に行かない?」

「いいけど・・・邪魔にならないかな。」

「あなたなら大丈夫よ。確認したいことがあるの。」

「わかった。」


 僕たちは、図書室を出て、職員室で先生に報告して(今日は姉崎先生はいなかった)、教会へと向かった。



♪スーーーーーー(教会の吹き抜けを空気が通る音)


 今日も教会は開放されていたけど、教会の中には誰もいなかった。

 外は今日も真夏日だが、学校の教会は天井が高いのでそれほど暑くはない。

 

 由依さんは、いわゆるヴァージンロードというやつを僕を先導するようにして少し前を歩く。

 長くサラサラの髪が、歩くたびに細やかに揺れる。その後ろ姿は、僕が下手な比喩表現を使うまでもなく、ただ美しいの一言だった。


 ヴァージンロードの先には祭壇が置いてあり、その奥の壁には大きな十字架が掲げられている。僕は無宗派だから、キリスト教の詳しい思想は知らない。さすがに、十字架はイエスキリストが磔の刑に処された場所であるということは知っているけれど、どうしてそんな好ましくないものを宗教的な象徴にしているのだろう。僕だったら、大切な人が殺された場所をそう何回も見たいとは思わない。


「この前、私がここで祈りを捧げている姿を見たのよね。」

「うん。中に誰かいるのとは思わなかったから、勝手に見てしまってごめんね。」

「大丈夫。誰が見ていようと関係ないわ。それぐらい、この行為は私自身にとっては意味がないものなの。」

「改めて聞きたいんだけど、どうして由依さんは祈りを捧げるの?」

「そうね、彼女のためかしら。」

「彼女・・・。」

「どんなことでもいいから、私と同じように祈ってみてほしいの。そうしたら、奥山くんにも分かるかもしれない。」

「うまく理解できていないけど、やってみるよ。」


 今は由依さんの言うとおりにするしかなさそうだったので、僕は由依さんに従うことにした。

 由依さんは、この前と同じように、両膝をついて、両手を組み、十字架に向かって祈りを捧げる。僕も同じように、祈りを捧げる姿勢をとった。


 由依さんが言ったとおり、僕も何も願うことはなかった。

 姉崎先生は、祈りを捧げれば神に会えるかもしれないと言った。

 神様にお願いしなければいけないほど、急務の願いはない。僕の人生は、満足がいくものではなかったけど、僕よりも不幸な人はきっとたくさんいる。だから、僕がその人たちに向けられるかもしれない神様の救済を奪うわけにはいかないのだ。


 僕は、隣にいる由依さんの姿をうかがった。

 彼女といることは、何故だが居心地がいい。それはきっと、由依さんが僕に何も求めてこないからだろう。期待されないから、悲観することもない。

 ある意味で、彼女のプラスでも、マイナスでもない接し方が僕にはちょうどよかった。


 そうだな。絶対に叶えてほしいというわけではないけれど、できれば、この由依さんや、色葉さんたちとの日常が続けば嬉しいのかもしれない。

 今の僕に青春はないし、彼女たちとの日常が青春なのかも分からないけど、彼女たちとの時間がもう少しだけ続けば、僕は今までよりも少し、楽しく過ごすことができるかもしれない。



 この日常が、続きますように。



 僕は最後にそう願って、つぶっていた目を開ける。

 由依さんは祈りを終えて、僕の方をじっと見ていた。


「どう、何か変わったことはある?」

 由依さんが尋ねる。


「これといって変わったことはないかな。」

「そう。ありがとう。まだ、奥山くんには早いということなのね。」

「どういう意味だろう。」

「いえ、気にしないで。きっと私と同じになるはずだから。もしよければ、時折でいいからこうして祈りを捧げてくれない?奥山くんの祈りも必要だと思うの。」

「由依さんがそう言うなら、それに従うよ。ただ、一人だと少し気恥ずかしいから、由依さんが行く時でもいいかな?」

「ええ、そうしましょう。きっと、その方がいいわ。」


 由依さんとの約束を取り付け、僕たちは教会をあとにして、校門の前に着いた。彼女は、


「それでは、また。」


 と言って僕と反対方向に歩き出す。

 また、彼女との日常が続きそうなことに、きっといるであろう神に向かって礼を伝えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る