第16話 ゼロ【7月25日】
♪パタパタ・・・・パタパタ・・・・(風であおられたレースカーテンがなびく音)
今日は、月曜日。
昨日、今日子さんは夜勤だったので、昼頃には帰ってくる予定だけど、日によって早かったり遅かったりするので、決まった時間は分からない。
未来が保育園に行ってしまうと、今日子さんと二人になってしまうおそれがあったので、僕は、未来を保育園に送り届けると、先週と同じように、図書室に向けて歩みを進めていた。
もちろん、図書室でなければいけないわけではなかったけど、なんとなく由依さんのことが気になったので、様子を見てみたかった。
僕がいなくても、由依さんになんの影響を与えるここともないだろうけど、また会う約束をしているとも言えるから、由依さんがいるのかどうかを確認しておきたかった。
図書室に着くと、いつものように由依さんが座って本を読んでいた。
彼女が僕に気づくと、
「おはよう。」
と声をかけてきた。
「おはよう。」
「久しぶりね。」
「うん、いろいろあってね。」
「そう。そうね、生きていればいろいろあるわ。でも、生きている、ってどういうことなのかしらね。」
「こうして由依さんと話していることは生きていることに入らないの?」
「奥山くんがそう思うなら、それは一つの答えかもしれない。でも、私は違うわ。」
「由依さんは、どう思っているの?」
「わからない。」
「そう、なの?」
「ええ、私は、自分が生きている意味がわからないの。」
「こうして話していても?」
「そう。息をしたり、話したり、ご飯を食べたり、生理的な現象ではなくて、生きている実感がないの。」
「でも・・・っ」
僕は言いかけて、続きを言うのをためらった。
「でも?」
「でも、由依さんは、この前教会ですごく真剣に祈りを捧げていた。」
由依さんの表情は変わらない。
どちらかと言うと、僕の話の意図がつかめていない様子だ。
「何か思うところがあったから、あんなに真剣だったんじゃないの?」
「あれは・・・そうね。奥山くんの質問に答えるのであれば、『生きる』の逆を思っていたのかもしれないわ。」
「それは、生きたくないっていうこと?」
「それも違う。私は、生きることも、死ぬことも、感じないの。ただこうして存在しているだけなのよ。」
「そんな・・・」
僕は、それ以上、何かを言うことができなかった。
由依さんは、僕が想像していたような環境にある人ではないようだ。
僕がマイナスの世界に入り込むように、
色葉さんがプラスの世界にいるように、
由依さんは、『ゼロ《無》』の世界にいるということなのか。
彼女はそれきり、自分の読書へと戻っていった。
でも、彼女は、僕を拒まない。それがなぜか、それほど居心地の悪いものではなかった。
マイナスの僕よりもゼロの彼女の方が数値に上だから、かもしれない。
僕は、書架へ行き、今日も法律関係の本を手に取る。
そうして今日も、由依さんと二人だけの時間が過ぎていく。
午後2時、由依さんは自身の本をたたんで、いつものように
「私は帰るわ。また。」
と言ったので、
「うん。また。」
と僕も返した。
由衣さんが図書室から出て行こうとしたとき、なんだか頭を優しくなでられたような感覚があった。
でも、由衣さんが僕にしたわけではない。彼女と僕との間には物理的な距離があったからだ。
それを見ていた由衣さんは、少し困ったような、でもそれを見守るような表情をしていた。
結局、それ以上彼女は何も言わずに図書室を後にした。
この図書室にいると不思議なことばかり起こる。僕はそれをちょっと楽しみにしているのかもしれない。
さて、僕もそろそろ帰ろう。
今日も最後の一人だったので、職員室に寄ることにした。
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