第14話 閉じる【7月20日】

♪バーン!(冷蔵庫が勢いよく閉まる音)


 朝、大きな音がして目が覚める。

 間髪を入れずに、僕は今日子さんに叩き起こされた。


「どうして氷が一つもないの!ストックがなくなったら、忘れずに作っておいてってこの前言ったよね!」

 しまった。氷を作り忘れていた。


「すいません。忘れていました。」

「今日も仕事が大変なのに、私に温いお茶を飲めっていうの!どうして言われたことを完璧にできないの!」

「すいません。」

「本当に反省しているの!そんなんじゃ、社会に出てやっていけないわよ。もっとしっかりしなさい!」

「わかりました。」

「あーもうっ! 出る時間になっちゃった。今度は忘れずに作っておいてよ。あと今日は夜勤だから。しっかり未来の世話をしておいてね!」

「はい。」


 起きたらいきなり嵐のようだった時間が、今日子さんがいなくなることで静けさを取り戻す。

 本当に台風みたいな人だ。台風の方が予想進路がわかってマシか。

 気づいたら未来も起きてしまったようだ。これだけの騒ぎだから仕方がない。


 僕は、テレビの電源をつけて、朝のこども番組を映す。

 その番組から楽しそうなこども向けの歌が流れる中、朝ごはんの準備を始めたものの、心の動揺を抑えきれない。

 今日子さんの要望に完璧に応えることは難しい。

 そのため、いつこうして地雷を踏むかは分からないけど、地雷を踏んだ時に言われる一つ一つの言葉が僕に重くのしかかる。初めのうちは、もっと怒ったりしていたように思うけど、今となってはただ、その言葉が僕自身を否定するものとして残り、陰鬱な気分を引きずることになる。


 朝の準備を終えて、未来を保育園に送り届ける。未来は、僕の気持ちを察してか、いつもより少しだけ強く、手を握っていたように思う。


 今日は何もやる気が起きない。図書室に行くことも、色葉さんの家に行くことも、自分の家に帰ることさえも億劫になっていた。

 こんなときは、いつもあそこに行く。そこは、線路の高架下にある公園で、それほど広くないからか、いつも人が少ない。高架下には程よくベンチがあって、日陰を作ってくれるので、意外に暑すぎるということもない。


 公園に着くと、案の定、誰もいなかったので高架下のベンチに座る。

 隣には灰皿が置いてある。こんなとき、タバコでも吸えれば気分が晴れるんだろうか。補導されるのは嫌なので、吸うことはないけれど。

 公園内では、みんみんセミが今日も元気に鳴いている。でも、僕の気持ちは沈んでいるので、うるさいセミの声も少ししか聞こえてこない。


 閉じられた世界に、きっちりとフタをする。

 誰の干渉もいらない。

 人と関わるからコンフリクトが起きる。

 どうして僕をほっといてくれないんだろう。

 僕は関わることを望んでいないのに。


 気づいたら、僕は寝ていた。寝ていたというよりは、堕ちていたようだ。時間は午後3時になっていた。

 そろそろ帰っていつものルーティンをしなければいけない。

 僕は、気だるい体をベンチから起こして、ゆっくりと歩き出す。

 本当は、何もしたくないし、全てを捨ててしまいとも思う。

 でも、一人になっていくあてがあるわけではないし、生活をしていくお金がたくさんあるわけでもない。

 だから僕は、自分がただ生きていくだけのあの家に戻るしかなかった。



♪ガラガラ(保育園の玄関の引き戸を開ける音)


 洗濯を取り込んで、皿を片付けて、掃除機をかけ終わった僕は、未来を迎えにいくため保育園に向かった。


 保育園に着き、園庭を抜けて、未来のクラスの玄関の引き戸を開ける。

「こんにちは、奥山です。」

「公太くん、いつもご苦労さま。未来ちゃん、今日は寝ちゃってるから抱っこして帰れる?」

「はい、大丈夫です。」

「今日は未来ちゃん、なんだか元気がなかったわ。家で何かあった?」

「特にないです。いつもどおりですよ。」

「そう、それならいいんだけど。何かあったら相談してね。」

「ありがとうございます。」

 そう言って僕は、未来を受け取り抱きかかえる。


 こうして優しい言葉をかけられても、僕は反応することができない。

 ここで今の気持ちや、今までの気持ちを吐露したとしても、きっと状況は変わらない。

 愚痴を言って一時的に気持ちが晴れても、僕の環境が変わるわけではないから。


 保育園を出て、色葉さんの家に向かう歩道の交差点に出る。ここを右に曲がれば色葉さんの家に行くことができる。

 でも、こんなモヤモヤした状態で色葉さんや千景ちゃんにあって、彼女たちは楽しいだろうか。色葉さんのことだから、僕にものすごく気をつかうだろう。


「うん、今日はやめておこう」


 僕はそうつぶやいて、交差点を右に曲がらず、真っ直ぐ進んだ。

 こうして関わりがなくなれば、色葉さんも僕のことなんか忘れて、いつものクラスで元気に振る舞うクラスメイトに戻るだろう。

 たった、2日間の関わりだったけど、その時間が楽しかったことは、僕の中に微かに残る、それだけでも、去年よりは良かったといえる夏休みになったと言えると思う。


 僕は、自分に言い聞かせるように思考を巡らせて、急いで家に帰った。

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