第13話 練習
♪チリーンチリーン(風で風鈴が鳴る音)
僕は家に帰ると、今日子さんから指示のメッセージがきていたので、指示どおり作業を済ませて、未来を迎えに行くことにした。
色葉さんからは、特に連絡は届いていないので、予定どおりでいいのだろう。
今日は、外で活動することになるから、水分補給のためのお茶を持っていこう。時間がそれほどかかるわけではないから、氷をたくさん入れておけば温くなることもないだろう。
僕は、僕が時折使っている飲み口の部分にふたがついていて、直接飲むタイプの水筒にたくさんの氷とお茶を入れて外に出た。
冷蔵庫の氷がちょうどなくってしまったことに気づいたけど、帰ってから氷を作ろう。自動製氷機がないから、トレーに水を入れて自分で作らなければいけないのが少しめんどくさい。
保育園に着くと、未来が玄関口にやってくる。
部屋はクーラーがついていたけど、額の髪の生え際には汗が出ている。子どもは暑がりだから、汗もよくかくことが多い。
僕は、持っていたタオルハンカチで未来の頭を拭き、担任にお礼を行って保育園を出た。
昨日は無意識に色葉さんの家に着いたから、よく考えてみると、どうやって行けばいいのだろう。
たしかあの通り道に出るところだから、いつもはまっすぐ行く道を、ここで右に曲がったんだろう。
僕は、歩道を右に曲がり、未来を抱えながらしばらく進むと、生ぬるい夏の風とともに、風鈴の涼やかな音色が聞こえてきた。
「あっ、奥山くーん!」
色葉さんが庭先から声をかけてきた。どうやら道は合っていたようだ。
今日も昨日と同じようなラフな格好をしている。Tシャツだけは、昨日と違うキャラクターだ。
「約束どおり来てくれたんだね。ちょっと無理なお願いしちゃったかと思って心配しちゃった。」
「うん、大丈夫だよ。特に予定もないし。」
「夏期講習とかは行かないの?」
「進学するかどうかも分からないからね。未来の面倒もあるし。」
「わかるよー。私も将来はなんにも決まってないや。誰かお嫁さんとしてもらってもらえないかなー。」
いつもどおり、色葉さんは、暗い話も明るい話題に変えてしまうほど元気いっぱいだった。
「あっ、今日は未来ちゃんが起きてる。こんにちは。私は、色葉穂花です。」
「わたしは、いろはちかげでしゅ。」
チーちゃんも挨拶する。4歳ぐらいだと、サ行の発音が難しいようだ。
未来は、少し人見知りをしているようで、僕にさっきよりもしがみついてきた。
「今は人見知りの時期だよねー。少しずつ、未来ちゃんともお友達になろうね。さて、じゃあ、さっそく奥山教官の実技講習といきますか。」
「なんか教習所の鬼教官みたいだね。」
「あっ、私の可愛い妹を泣かせたらダメだよ!さすがの奥山くんでも、メッセージに呪いのメッセージを送りつけちゃうからね。」
さらりと怖いことを色葉さんは言う。
「がんばるね。まずは、片方のコマを外してみようか。」
「こわい?」
チーちゃんが聞いてくる。
「大丈夫だよ。足も地面に着くから、少しずつコマがない状態に慣れていこう。」
僕は、色葉さんからペンチを借りて、右のコマを外す。こっちの方が、乗りやすいとネットに書いてあったからだ。
ついでにサドルの位置も少し下げておく。本当は、ペダルを外した方がもっと早く上達すると書いてあったけど、特殊な工具が必要になるので、今回はペダルをつけたまま練習することにした。
チーちゃんは、ペダルが片方なくなったせいでサドルにまたがるのを怖がっていた。
僕は、ちーちゃんの脇を抱えて、サドルの上に乗せる。未来よりは重いけど、まだまだ4歳児は軽い。
「倒れないように支えているから、まずは足を伸ばしてみてくれる?」
「こう?」
チーちゃんが足を斜め下にまっすぐ伸ばした。
「うん。じゃあ、ゆっくりと後ろから押すから、コマがつかない状態に慣れてみよう。」
僕は、チーちゃんの脇を抱えたまま、地面についていたコマを少しだけ浮かせて、まっすぐ前に進む。
「ちょっとこわい」
「大丈夫。僕がもっているから安心して。」
そう言って、庭の端から端まで、ゆっくりと歩みを進める。
色葉さんと未来は、軒先で僕たちの様子を見守っている。
「ハンドルがブレるとフラフラしちゃうから、なるべく真っすぐにしてね。」
「がんがる」
そう言って、チーちゃんは肩をギュッとすぼめて、ハンドルを固定する。
そのおかげで、無事に庭の端までたどり着いた。
「何回か同じようにやってみようか。」
「チー、すごい上手! お姉さんみたいだよ。がんばれー。」
色葉さんも声を出して応援してくれる。未来もなんだか楽しそうだ。
そうやって、何度か庭を往復すると、チーちゃんも怖さが少しずつ薄れてきたようだった。
次はペダルをこぐ練習をしたかったけど、さすがに普通の一軒家の庭では広さが足りない。
「今度はペダルをこぐ練習になるんだけど、今日はここまでにして、また今度公園で練習しようか。」
「うん。チーはおねえしゃんになったから、あしたもがんがる!」
「ちょっと汗をかいたから、冷たいお茶を飲もうか。」
僕は、僕自身も喉が渇いていたので、もってきた水筒からお茶を先に一口飲んで、チーちゃんに差し出す。
チーちゃんには少し大きめの水筒だけど、冷たいからか、両手で一生懸命もって勢いよく飲んでくれた。
「はい、ホノもおいしよ。」
チーちゃんは、水筒を色葉さんに差し出す。
「ありがとう。いただきまーす。」
色葉さんも、チーちゃんと同じように両手で水筒を持って、水筒の飲み口からお茶を飲んだ。色葉さんの方が女の子らしい飲み方ように感じた。
「はい、未来ちゃんも水分とろうね。」
そう言って、色葉さんは水筒の飲み口を未来にあて、少しずつお茶を飲ませてくれた。
「ありがとう、奥山くん。キンキンですごくおいしかったよ。」
色葉さんは、僕に水筒を渡そうとした瞬間、ハッと何かに気づいて、少し恥ずかしがりながら水筒を返してくれた。急にどうしたんだろう。
「そろそろ僕たちは帰るね。」
「ありがとう、奥山くん。これならあっという間にコマが外せそうだね。」
「うん。チーちゃんが頑張ってるからだよ。」
チーちゃんは、そう言われて嬉しそうだった。
「明日も練習、付き合ってくれるのかな?」
僕から言おうか悩んでいたけど、やっぱり言うのをやめたことを察したように、色葉さんが明日の予定を聞いてきた。
「そうだね。じゃあ、そうしようか。」
「あしたもおっきゅんといっしょ。えへへ。」
チーちゃんがさらに嬉しそうな笑顔でそう言った。
おっくん、と言われたのは何年ぶりだろう。小学校の時のあだ名だったけど、今となっては僕のことをそのあだ名で呼ぶような友達もいない。
「おっ、チーいい呼び名を考えたね。では、おっくん教官。明日もよろしくお願いしますです。」
「しましゅでしゅ。」
「わかりました。じゃあ、また明日。」
「未来ちゃんもバイバーイ!」
未来も少し慣れてきたのか、小さく手を振り返した。
僕と未来は、色葉さんの家をあとにして、自宅へと向かう。
何もなかったはずの夏休みが、三人の女の子と話すことになるなんて、終業式の日には想像しなかったことだ。
今年の夏休みは、少し何かが変わるのかもしれない。そんなことを思いながら、帰路へとついた。
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