第7話 感覚【7月18日】

♪スタスタスタ(靴と図書室の絨毯が触れる音) 


 未来を保育園に送り届けたあと、今日は学校の図書館に行くことにした。本当は、今日は海の日で祝日なのだけど、未来が通っている保育園が祝日預かりだけはしてくれるのだ。


 星が丘高校は施設の開放に積極的で、教会を地域開放したり、図書室を生徒向けに祝日は開放してくれたりしている(らしい)。らしいというのは、図書館についてはこの前掲示板に張り出されているチラシをたまたま見て知ったので、実際に行くのは今日が初めてだからだ。

 夏休み初日の週末だから、わざわざ図書室に行くのは僕ぐらいだろう。1人で涼しい部屋にいたかったので好都合だ。


 校内に入って、図書室に向かう。


 図書室の扉を開くと、受付カウンターが目に入ったけど、そこには誰も座っていなかった。図書の点検でもしているのだろうか。

 立ち並ぶ書架を見つつ、何を読もうかと考える。

 高校2年生の夏は、有名大学に進学したければ受験勉強を始めなければいけない時期だけど、僕は進学するかどうかも悩んでいる。僕が卒業するころに未来はまだ3歳だし、大学に行ってやりたいこともない。家を離れたい気持ちもあるけど、それだけで今の状況が180度変わるわけでもないだろう。


 でも、少しだけ興味がある分野があった。

 それは法律だ。

 両親が離婚するとき、父と母が揉めていたのは知っている。離婚の理由はわからないけど、結局、今日子さんが僕と未来の親権をとって、いわゆる母子家庭というものになった。

 そのとき、僕たち、と言っても未来はまだ何もわからないから、僕に選択肢はなかった。もし、子どもの立場で意見を言うことができたら?そうしたら、両親が離婚しないで、僕は普通の高校生活を送れたかもしれないし、未来だって、普通に両親がいる家庭で生活できたかもしれない。

 法律は、自分たちの生活を守るために決められたルールだから、僕たちの生活を守るための方法も書いているはず。


 あった、法学の書架だ。日本国憲法、民法総則、刑法、少年法・・・どれも難しそうな本ばかりだ。もっとわかりやすそうな本はないかと探すと、こども六法という本が目に入った。

 これなら、導入としてはちょうどいいか。借りる前に内容を確認しておこう。とりあえず、座って読むために読書用の机に向かう。



♪パタパタ・・・・パタパタ・・・・(風であおられたレースカーテンがなびく音)


 机が並んでいるスペースに行くと、そこには1人、読書中の生徒がいた。


 換気のために少し空いた窓から流れ込んでくる風に、艶やかな黒い髪が少しだけなびいている。そう、浅見河原由依だった。


 背筋を伸ばして、両手で本を押さえながら、定期的にページをめくっているようだった。

 僕は、彼女と1つ机を挟んで、向かい合うように座った。

 気づいていないのか、目線を本から上げることはない。


 他に生徒はいなくて、椅子は司書さんが机にきっちりと付くように並べてある。ただ、浅見河原さんの隣の席の椅子は、少しだけ机との間が空いていた。


 改めて彼女の顔をうかがうと、キレイな顔立ちが印象に残る。この前はだいぶ距離があったから、なおさらだ。

 進学科で勉強ができて、親が社長で経済的にも恵まれていて、しかも容姿も整っている。何も不満がないように見えるのに、どうしてあんなに真剣に祈りを捧げていたのだろうと、ぼんやりと彼女の隣の隙間がある席をぼんやりと見ながら考えていた。


「何か、見えるの?」

 不意に声をかけられる。突然だったので、質問の意味が理解できなかった。


「ごめん。ただ、考えごとをしてて・・・。図書室には浅見河原さんしかいないように見えるけど・・・。」

「そう。それなら、ごめんなさい。すごく真剣にこちらを見ているようだったから。」

「こちらこそ、誤解を与えてしまったみたいでごめん。あの・・・、先週の金曜日も浅見河原さんに会ったんだけど、覚えてますか?」

「覚えていないわ。ごめんなさい。」

「そうですか。変なこと聞いてすいません。」


 僕がそう言うと、夏の湿った風が図書室の冷房で少し冷やされて、こちらに運ばれてくる。


 そんな一瞬の間があったあと、


「もう1度聞きたいのだけど、私以外、何か見える?」


 僕は、室内を見渡す。浅見河原さん以外の人影はなく、特に変わった様子もない。


「見え、ないです。何か気になることでもあるの?」

「いえ、何もなければ大丈夫。変なことを聞いてしまってごめんなさい。」

「あ、はい。」


 それきり、浅見河原さんとの会話が終わってしまった。しかし、彼女は、僕のことを気にせず手元の本を読み進める。


 浅見河原さんの質問の意図はなんだったんだろう。心霊現象に興味がある、ようには見えないし、星が丘高校の図書室に怪奇が起こるなんて聞いたこともない。

 これ以上、僕から振る話題もないし、図書室は本を読む場所だ。僕も浅見河原さんにならって、持ってきたこども六法を読むことにした。


 しばらく二人でそれぞれ本を読み進めていると、彼女は、自分の隣の空いた席に時折、目線を送っていることに気づいた。

 僕もそれとなく、その席を見てみるが、やっぱり誰かいるわけではない。彼女は、隣が気になるのか、先ほどよりページをめくるスピードが落ちているようだった。


 そのとき、また柔らかい風が図書室を通り抜けた。


 僕は、その風を感じながら、Yシャツの左の半袖が、風ではない何かに引っ張られるような感覚を覚えた。

 でも、そこにはやはり、誰もいない。

 顔を正面に向けると、浅見河原さんがこちらを向いていた。

 少し彼女と目が合ったあと、浅見河原さんは目線を誰もいない右下に向けて、何か小声で話しているようだった。話し終わったあと、今度は僕の方に顔を向ける。

 そして、真剣な眼差しで僕を見たあとに、


「名前を聞いてもいい?」

「僕の?」

「そう。」

「奥山公太です。公平な太郎で、公太。」

「奥山公太・・・わかった。奥山くん、私は今日は帰るわ。帰るときに図書室に誰もいなければ、職員室に先生がいるから、一声かけていって。」

「あの、浅見河原さん。」

「由依でいいわ。」

「えっ」

「名字、長いから由依で構わないわ。」

「う、うん。それじゃあ、由依さん。僕の周りに何か見えるの?」

「いいえ、何も見えないわ。さっき私が言った話は気にしないで。」

「そう、何かに左の袖を掴まれた感じがしたんだけど・・・。」

 由依さんは、少し困ったような顔を一瞬だけ僕にむけて、

「たぶん気のせいだと思うわ。それでは、また。」

「うん、また・・・。」

 また、と言って由依さんは図書室から出ていった。

 

 結局、それ以降、さっきみたいな感覚はなくて、14時ごろには冷房も追いつかないぐらいの暑さになってきたので、僕は、途中まで読んだこども六法を書架に戻して、誰も図書室にいないことを確認したあと、職員室で1学期の残務処理をしていた知らない学年の先生に、図書室が1人もいないことを告げて、いったん家に帰ることにした。

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