第56話 1日の終わり

 お色直しってなんだろうか……。

 透さんと智恵子さんが旅館の中に戻ってから10分ほど経つ。

 俺は手持ちぶさたで旅館の前を、動物園のクマよろしく行ったり来たりを繰り返していた。


「――りゅ、隆一君……」

「あ、透さん。お色直しってどういう……」


 瞬間、俺は言葉を忘れ、ただただ見入ってしまう。

 透さんは、涼やかな水色に白い花柄をちりばめた浴衣姿に濃いめの紫の帯を締めて。

 透さんのすらりとした綺麗なスタイルともあいまって、すごく似合っていた。足下は素足に、青い鼻緒の下駄。

 そして手元には明るい紫色の小物入れ。


「…………」


 透さんがちらりと俺を上目遣いに見て来る。


「…………」

「……ど、どうかな」

「に、似合ってるっ! すごく綺麗だっ!」


 透さんから声をかけられ、俺は呼吸さえ忘れるくらい見入っていたことを自覚した。


「……ありがとう。でももう少し声を抑えてくれると……」


 道行く人たちがチラチラ見られてしまう。


「ごめん……。そのあたり、歩こうか」


 透さんは頷いてくれる。

 智恵子さん、グッジョブ!


「ようやく透さん、いつもの笑顔だ」

「え?」

「花火を見ながらため息ついてたから、どうしたのかなって思ってたんだけど」

「あ、ごめん。楽しんでなかったわけじゃないの。あれは……実は、お祭りに行く時に女将さんから浴衣を勧められてて……。でも見せる相手がいないからって断って。そのことをずっと後悔して、隆一君に……告白、してもらう前だったから……」

「!」

「だから……隆一君も、本当は浴衣の子と一緒に歩きたかったんだろうなって思ったら……」

「そんなことないよ。もちろん、今こうして浴衣姿の透さんと歩けてるのはすごく嬉しい。でも浴衣じゃなきゃダメなんてぜんぜん思ってないから。透さんがどんな格好をしていても、一緒にいられて……それだけで……」


 胸がいっぱいになる。


「そう言ってもらえると気持ちが楽になる」

「今のはお世辞でもなんでもないから」

「分かってる」


 ふぅ、と小さく息を吐き、海を眺める。もちろん真っ暗だから海なんて見えないけど。


「この海とも、明日でお別れだ」

「でもまた来ればいいから。海はどこにも逃げないし」

「確かに……って、そうだ」

「ん?」


 俺はスマホを取り出した。


「撮らせてもらっていい、かな。透さんの浴衣」

「あ……もちろん。でも、」

「でも?」

「完全にタイミング逃しちゃった。本当は花火を背景に取れたら、最高だったのに」

「それこそ、次のチャンスまで取っておく。夏はまだあるし」

「……そうね」


 透さんは耳にかかった髪をそっと掻き上げると、スマホに向かって薄く微笑む。

 やっぱりどこまでも透さんは絵になる。和服美人。

 写真を何枚か撮影した。


「あとで送るよ」

「ありがと」


 透さんはビーチに下りていく。潮の香りを意識しつつ、波打ち際を歩く。

 青白い月明かりに照らされ、神秘的な世界。

 穏やかな波音が聞こえる中、暗がりの中で何かが動いた気がして俺は目を凝らす。


「っ!」


 思わず足を止めてしまう。


「隆一君、どうかした……」


 俺の視線をたどったらしい透さんが、「……あっ」と小さく声を漏らす。

 そこにいたのはカップル。

 女性のほうは浴衣姿で、彼氏は普段着。二人は抱き合い、顔を寄せ合う。


「! 透さん、い、行こう」

「そ、そうね……」


 居たたまれなった俺たちは場所を移す。

 でも。

 気付くと、そこかしこにカップルの姿があった。

 海岸線はともかく、ビーチまで下りると人工の照明はなく、月明かりだけ。

 ロマンチックだから海辺を歩くことにした。でもロマンチックだと考えたのは何も俺たちだけじゃないってことを忘れていた。

 カップルはみんなそれぞれ自分の世界に浸っている。

 透さんもどう反応していいのか、目元を真っ赤にしたまま視線を足下に落としている。

 どうしよう。こういう時って何を話したらいいんだろう。

 しかし仕切り直そうと冷静になれと自分に言い聞かせても、頭の中にはイチャつくカップルの残像がしっかり残って消えてくれない。

 そんな中、頭に浮かんだのは、俺たちも同じ事を――ということ。

 しかし浮かべた瞬間、俺は振り払う。

 いやいや! それは早すぎる!

 ついさっき告白して、恋人同士になったばかりなんだ。こんなところで、その場の勢いというか雰囲気に流されて、変なことはしたくない! いや、本心ではしたいけど……。


「透さん」

「な、なに?」

「……自販機で何か買わない?」

「そうね。ちょうどノドがカラカラだったから」


 俺たちは気分を切り替えたいのと、一刻も早くこの刺激の強い場所から離れたい一心で足早に自販機に向かった。

 透さんはそこでミネラルウォーターを、俺は強炭酸の清涼飲料水を購入した。

 強炭酸をぐっと煽り、すぐにむせた。


「大丈夫?」

「へ、平気……っ」


 そんなこんなありつつも、どうにかクールダウンすることに成功した。


「……そろそろ、戻ろうか」

「うん」


 透さんは小さく頷いた。

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