第52話 贅沢な悩み

 お風呂から上がった私たちは部屋に戻る。まだ夜の8時になったばかり。

 旅先での時間の流れは不思議。

 日常だと少しぼうっとしてるだけのつもりがあっという間に1時間、2時間が経っているなんてことはざら。

 でも旅先だと温泉をたっぷり楽しんだつもりが、30分そこそこしか経っていなかったり。

 窓から見える夜の海辺を眺めていると、右肩に重みを感じた。

 静が寄りかかっていた。目は閉じて、口をぽかんと開けっぱなし。


「……静、寝るならお布団に入って」

「うーん……分かったぁ」


 そう言いつつ、動く気配がない。


「まったく」


 静にとっては初めてのバイト。疲れが溜まって当たり前ね。

 私は妹を抱き上げると、隣の部屋に敷かれた布団まで連れて行く。夜にトイレに行くことを考えて、一番手前の布団に寝かせ、薄手の掛け布団を肩までしっかりかける。きっと朝方には布団をひっぺがえしているだろうけど。

 起きている時には色々と生意気だったり小利口だったりするけど、寝顔は小さな頃の無垢なまま。

 私は手の甲で、静のやわらかな頬をそっと撫でる。


「ぁあ……んん~……」


 静はくすぐったそうに声を漏らし、顔を背けた。

 私は小さく吹き出す。


「おやすみ」

「にゃむ……むぅ……」


 くすりと微笑み、立ち上がった。

 寝室の電気を消すと、二間を隔てる襖をゆっくり閉めた。


「透、指は平気?」


 テーブルでお茶をのんでいた朝沙子が、スマホから顔を上げる。


「大丈夫。ほんと馬鹿やっちゃった」


 私は自分に呆れてしまい、苦笑いする。


「でもリューイチ、優しいよねー。意外に世話焼きみたいだし」

「……だね」

「旅行も、明日が最後だー」


 明後日はもう帰る。確かにあっという間。

 出かける前は3泊4日の旅行と聞いて、かなり長いなと思っていたけど。


「だからそろそろ」

「そろそろ……?」

「コクってくるねっ」

「っ!?」


 私は飲んでいたお茶を吹きだしかけ、ぎりぎりのところで飲み込む。

 ノドあたりがカアッと燃えるみたいに熱い。

 でもそんなことを気にならなかった。


「こ、コクるって……でも隆一君には好きな人が……」

「付き合ってないんだからフリーでしょ?」

「それは」


 朝沙子は浴衣を脱ぎ捨てて服に着替えると、さっさと部屋を出ていく。


「んじゃ、行ってくるねー」


 どうしよう。しんと静まりかえった部屋の中、私が真っ先に思ったのはそれだった。

 頭の中で、仲良く話す隆一君と朝沙子のイメージが思い浮かんでしまう。

 胸のモヤモヤしたものが刺々しい形に変わり、鈍い痛みとなって胸のあたりで暴れて、息苦しい。

 その時、向かいの部屋でごそごそと音がして、扉が開く気配がした。

 私は弾かれるように立ち上がると、こっそりと扉を開けて廊下を覗く。

 隆一君だった。隆一君はスマホを手に廊下を歩き出す。

 旅館室内用の下駄じゃなく、靴を履いている。

 隆一君の後ろ姿を見送った私は浴衣からシャツと短パンに着替えると、靴を履いていた。



『朝沙子さん、どこ?』


 俺はスマホでメッセージを送る。和馬や透さん、静ちゃんじゃない、別の人とこうしてメッセージのやりとりをしているのはなんだか変な感じがした。

 中学時代とか女子とメッセージのやりとりをすること自体、なかったのに。

 透さんと出会ってなければ、クラス1の、いや、学年1の女子とやりとりできるっていうだけで有頂天になっていただろう。

 でも正直、今はただただ気が重い。

 なんて言えば、あの過激なスキンシップをやめてもらえるだろう。

 好きな人がいるってことを素直に伝えるのが一番なんだろうけど……。

 朝沙子さんのことだ。目をキラキラさせ、誰が好きなんだとめちゃくちゃ聞いてくるだろう。その時、俺は透さんの名前を言わないでいられるだろうか。

 夜の海。今朝方見たのと同じ海のはずだけど、まったく印象が違う。

 海岸線には街灯があるけど、浜辺を照らす照明のたぐいはないせいか、潮騒だけが聞こえて海も浜も闇に沈んで見えないのはなんだか、不思議だ。

 幻想的と言うのだろうか。

 寄せては返す波の音が朝や昼間より、ずっと綺麗に聞こえた。

 昼間は人が多すぎて波の音とか気にしてる余裕がなかったせいかな、とそんなことをぼんやり考えていると、


「リューイチ!」


 朝沙子さんの声がした。

 そちらを見ると、朝沙子さんがこっちに向かって大きく手を振っている。

 青い月明かりが朝沙子さんを照らしだしていた。

 朝沙子さんはタンクトップにスカート。

 俺は自分が浴衣のまま来たことに思い至った。せめて着替えてくれば良かった、と後悔。

 とりあえず緩んでいた帯を締め直し、襟元も直して、横断歩道を渡って、朝沙子さんの素へ急ぐ。


「いきなりどうしたの、朝沙子さん」


 朝沙子さんの隣に並ぶ。


「だから、朝沙子さん、じゃないってばっ」

「……呼び捨てはちょっと慣れてないから」

「リューイチ、ウブだよねっ」


 ニヤニヤされてしまう。


「旅行も明後日までだよねっ」

「だね……おっと」


 朝沙子さんが俺の腕にしがみついてくる。頭一つ分ほど背の低い朝沙子さん。

 胸の柔らかな感触、温かさを肘で感じた。


「っ!」


 一瞬だけだけど、何も考えられなくなりそうになる。

 ダメだ。冷静になれ、と自分に言い聞かせる。


「……ね、もっと楽しくなりたくない?」


 朝沙子さんが囁く。

 降り注ぐ月明かりで、瞳が輝いて見えた。


「楽しく……?」

「私たち、付き合わない?」

「へっ」


 馬鹿みたいな声が漏れてしまう。

 すると、朝沙子さんがジトとっした目になり、唇を尖らせた。


「まさか本当に海を見るためだけに誘ったと思ってるわけ?」

「いや、思って……なかったわけじゃないけど……」


 でもまさかこんな単刀直入に告白されるなんて。

 ていうか、告白ってこんなヌルッとされるものなのか!?

 もっと一世一代!って感じじゃないのか……って、それはそれで重たすぎか……?


「それで? 答えて?」

「……っ」


 俺はごくりとツバを飲み込んだ。

 朝沙子さんはクラスの上位グループにいて。男どもは朝沙子さんに微笑まれれば、イチコロで。今からしようとすることをそいつらが知ったら、「お前何様だぁ、ゴラァ!」とタコ殴りに遭っても文句は言えないことで。すごく贅沢なことだ。

 それでも、それでも!


「……ごめん、朝沙子さん。朝沙子さんとは付き合えない」

「…………」


 しん、と静まりかえった。寄せては返す波の音が、頭の中でやけに大きく響く。

 朝沙子さん、何か言ってくれ……。


「あ、朝沙子さ――」

「そっかぁ。ざんねーんっ。リューイチだったら付き合ってもいいかなぁって思ったんだけどなぁ」

「え?」

「え、って何?」

「何って…………」


 正直、予想以上に軽いリアクションで、断ったこっちのほうが肩すかしを食らってしまう。

 もちろん泣き叫ばれて、どうしてと問い詰められることを期待した訳ではないんだけど。

 あれ? 告白ってこういうものだっけ?

 もっと断られたらショック的な?


「それってさ、好きな人がいるから? 静ちゃんから聞いたんだよね。リューイチには、ずっと好きな人がいるってさぁ」

「静ちゃんから!?」


 いやいや、静ちゃん、なんでそんな話をするんだ!?


「ね、それってうちの学校の人?」

「……ノーコメント」


 緊張とパニックで、口の中がカラカラだ。


「ふーん。ま、いいけどぉ。あーあ。フられたかぁ。リューイチ、私が抱きついたりすると鼻の下を伸ばしてたから脈ありって思ったんだけどなぁ」

「うふ」

「――あ、てかさぁ。それじゃ、ダメじゃん!」

「は、はい?」


 いきなりのダメだしに、声が上擦りまくる。


「好きでもない女から言い寄られて、あんなにデレデレしてちゃダメってこと。好きな人がいるんだったら、もっとしっかりしないとさぁ」

「き、気を付ける」

「リューイチって女子の免疫なさそうだもんねー。で、その子にはコクたわけ? それともこれから? それともフられたけど、未練タラタラ? どれ?」

「こ、告白はまだだけど。この夏休み中には告白したいとは思ってる」

「マジ!? 成功したら教えてよー。で、あたしとWデートしよ!」

「朝沙子さん、彼氏いるの?」

「あのさ、今リューイチにコクったでしょ。いるわけないじゃん。ま、フられたらからさ、バイト先かどっかで彼氏つくるし。だって、せっかくの高校2年の夏休みだよー。彼氏いないとかありえないし。あ、隼平さんとかいいかもっ。ね、どう思う? 男からしてさ、隼平さん、私に脈あり?」

「えっと、どうかなぁ」

「そっかぁ。だよね。リューイチに聞いても分からないよな。てことは、和馬かぁ。さすがに親戚だし、一応許可くらいとっておこっかなぁ。じゃ、リューイチ! がんばってね! ばいばーい!」

「……ば、ばいばーい……」


 朝沙子さんは突風のように去って行った。

 すごい。

 この置き去りになった感じ、デジャビュじゃない。あのボーリングの時と同じだ。

 フったのは俺なんだけど、この釈然としなさは一体なんだろう。

 いや、問題があっさり解決(?)したことを喜ぼう。


「険悪にならなかった。それだけで十分だ」


 俺も帰るか。

 その前にコンビニに寄る。

 スポーツドリンクの450ミリリットルのペットボトルをゴクゴクとノドを鳴らしながら飲みつつ、旅館に戻る――と、旅館の手前に透さんがいた。

 何かをしているわけじゃない。

 ただ旅館の前に立って、手持ち無沙汰で立っている。


「透さん、どうしたの?」

「あ、隆一君……」


 透さんはシャツに短パン姿。


「もしかして夜も走ってたの?」

「え。……あ、そ、そう。月が綺麗な夜だったから、いいかなって」

「そうなんだ。うん、たしかに夜のジョギングにはこのあたりの立地、いいよね。海風のお陰か、朝方よりも涼しいし」


 この辺りは夜はひっそりと静かで、通行量もいないから安全そうだ。


「隆一君はコンビニ?」

「まあ、うん……」

「どうかした?」


 話すべきか一瞬、迷う。でもきっと朝沙子さんのことだから、透さんに話すだろうし。

 断ったわけだから話しても問題ないよな。


「実は、朝沙子さんから告白されたんだ」

「朝沙子から? そうなんだ。おめでとう……」

「いや、断ったんだ」

「そ、そっか。朝沙子すごく可愛いと思うんだけど」

「あー……だね。朝沙子さんに告白されるとかすごい光栄なことだと思う」

「どうして断ったの?」

「……それは」

「他に好きな人がいる、から?」

「!」


 俺は動揺してしまう。

 好きな人がいることを指摘されたっていうのももちろん、ある。

 でも、何故か透さんは顔をくしゃっとさせ、まるで今にも泣き出しそうな顔をしていたから。

 透さんと朝沙子さんの関係を考えれば、友だちがフられたのだから、平気な顔はできないのは当たり前なのに、俺はなんてさらっと馬鹿なことを口にしたんだ。無神経すぎた……。


「ごめん」

「……違うの。責めてる訳じゃなくって。隆一君は、朝沙子の告白を真剣に向き合って、答えてくれたんだよね」

「うん」

「そっか。じゃあ、ありがと」


 透さんは控えめに微笑む。もうさっきの泣き出しそうな顔ではなかった。

 俺たちは一緒に旅館に入ると、部屋の前で別れた。


「ただいま」

「どこまでトイレ行ってたんだよ」


 和馬は開口一番聞いてきた。

 俺は朝沙子さんから告白され、それを断ってきたことを告げた。すると、和馬は何が面白いのかニヤつく。


「なに笑ってるんだよ」

「いや、お前のことだから、もしかしたら朝沙子に告白されたら、安達のことなんて忘れて受け入れるのかなって思ったんだけど、ちがうんだなって関心してるとこ」

「なんだよそれ。信用なさすぎだろ」

「でも朝沙子だぜ。中身はともかく、イケてんじゃん」

「それは、うん」

「なんだ、今さら逃がした魚の大きさにビビってんのか?」

「違う」

「じゃあ、どうした?」

「何でもない……」


 思い出していたのは、透さんの泣きそうな表情。直接的に透さんのことではないとはいえ、あんな顔をさせたくはないのに。


「ま、明日は大きいイベントが待ってるし、いよいよ安達にコクるんだろ」


 そう、旅行で過ごす最後の夜。もういい加減、じりじりした気持ちでただ透さんに見とれる時間は終わりにしたい。

 たとえどんな結果が待っていても、告白する。その気持ちはブレてない。


「大きいイベント? なんだよそれ」

「内緒」

「思わせぶりな奴だな」

「楽しみにしとけって。んじゃ、明日に備えてさっさと寝るか」

「ああ」


 そういうわけで布団に潜り込んだ。

 色々と悩みはあったけど、睡魔には勝てず、あっという間に意識を手放すことになった。



 隆一君と別れ、部屋に戻る。朝沙子の姿はなかった。

 隣の部屋を覗くと、朝沙子は三つ並べたうちの真ん中の布団で寝ている。それだけを確認して、襖を閉めた。

 熱めにお茶を入れて飲む。


「……はぁ」


 私、なに安心してるんだろ。

 朝沙子をフるくらい、好きな人がいるという事実が分かっただけなのに。

 朝沙子は可愛い。それはクラスの男子もよく朝沙子のことを噂にしているから分かっていたこと。

 女の私から見ても朝沙子は可愛い。

 女の子らしいし、話してて楽しい。ノリもいい。

 告白されて拒む男性なんていないだろうって女の私でも思う。

 それくらい朝沙子は魅力的なんだから。

 そんな朝沙子からの告白を、隆一君は断った。

 隆一君が朝沙子の告白を断ったからって、私が付き合えるわけでもないのに。

 それも、私は朝沙子がフられたことを知っていた。

 話を盗み聞きしてたし、朝沙子がビーチから旅館に戻ると知って慌てて部屋に戻って、何食わぬ顔で朝沙子を迎えて。

「はぁ~、フられちゃったぁ」

 そのことを朝沙子から教えてもらって。

 私は隆一君がなかなか戻ってこなかったことが気になって、旅館の外に出た。そこでコンビニ帰りの隆一君と鉢合わせたのだ。

 隆一君がそこまで夢中になる人、好きな人って誰なんだろう。


 私ははじめて、クラスメートたちが恋愛関係の噂話に夢中になる気持ちが分かった気がした。

 みんな、今の私みたいなそわそわした気持ちで、誰かの好きな人が気になっていたんだ。

 理由はただの野次馬だったり、やっかみだったり、話題に出ている人のことをひそかに想っていたり――様々なんだろうけど。

 私はこれまで気になる人なんていなかったから興味がなかっただけ。

 恋愛に向いてないとか勝手に想っていただけで、ただ単に好きな人がいなかっただけ。

 だから、初めての恋のせいで、自覚してしまうくらいに動揺している。

 明日がバイト最終日。

 こんな気持ちのまま、旅行を終えたくない。

 告白するべきなんだろうけど、でも、フられた後のことを思うと、とても出来ない。

 断られたら、私は絶対、朝沙子みたいにあっけらかんとは諦められない。

 隆一君と、今までのように接することはできなくなる。

 隆一君と会うたび、彼が好きな人と一緒にいることを想像してしまうだろうし、それが私でないことを悩み続けてしまうだろう。


「……恋愛がこんなに辛いとか……」 

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