第49話 胸のもやもや

 起きると、見馴れぬ天井に一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなった。

 あぁ、そうだ。俺、旅行に来てるんだ……。

 起き上がり、隣を見ると和馬が寝息をたてて眠っている。

 寝ぼけた頭のまま手探りで枕のそばのスマホを掴んで画面を見ると、6時ちょっと過ぎ。

 旅行先の高揚感だろうか、いつもは絶対起きない時刻に起きてしまうなんて。

 喉の渇きを覚えた俺は浴衣から服に着替えると、散歩がてら近くのコンビニに向かうことにした。


 昨日は数メートル進むだけでも大変なくらい混雑していた歩道も早朝ともなると閑散として、擦れ違う人の姿もない。

 海の方に目を向けると、眩しさに思わず目を細めた。

 穏やかな海原が日射しを乱反射させて、キラキラと光っていた。

 地元にはない光景に、旅行に来ていることを意識した。

 早朝、人気の海水浴スポットとはいえ、まだ浜辺にいる人はまばら。

 犬を散歩させているお年寄り、サーフィンに着ている若者、夏休み中らしい子ども……。

 そんな非日常の雰囲気を楽しみつつ、早朝の空気を吸いこむ。

 強く香る潮風も気持ちいい。

 今日も暑くなることを予告するみたいな夏の日射しも、地元ではただただうんざりするだけだけど、ここでは特別なものに感じられた。


 空の青さはまだ淡い。

 街全体の時間の進みまでゆったりしているみたいだ。

 コンビニで飲み物と菓子類、朝食用のパンをいくつか見繕って購入して戻る。

 と、向かい側から人影が近づいてくる。

 透さんだ。

 タンクトップにジャージ生地のハーフパンツ姿。首筋で汗が光っていた。

 透さんも俺に気付く。


「おはよう、透さん」

「……おはよう、隆一君」


 透さんはかすかに肩を上下させながら、小さく応じてくれる。頬は赤らんで、息が乱れている。かなりの距離を走ってきたみたいだった。


「ジョギング?」

「そう」

「分かるよ。俺も普段起きない時刻に起きたし、海辺を走るって気持ちいいよね」

「それもあるけど、実は今、体力作りしてて……」

「そっか。鍛えてるんだ」

「っていうより、実は夏休み中、美希から頼まれて子どもたちに剣道を教える手伝いをしてて」

「剣道、またやることにしたんだ」

「ううん、そうじゃなくって。夏休み中だから子どもたちが毎日のように道場に来るんだけど、指導する人間の数が足りないって、美希から夏休みの間だけでもいいから手伝ってくれないかって。それで……」

「もしかして、それが急用?」

「……うん。ごめんね。ちゃんと話せば良かったんだけど」

「そうだったんだ。透さんの道着姿、格好いいんだろうな」

「そんなことない。普通よ。ただの胴着」

「そ、そっか……」

「うん……」

「俺はコンビニから戻ってきたところなんだ」

「そっか……」


 透さんの反応は薄いというか、会話をしているはずなのに、独り言を言っているような錯覚を覚えてしまう。


「私、汗かいてるから、お風呂に行ってくる」

「あ……了解」


 足早に透さんは旅館に消えていく。

 俺は透さんの背中をただ見送ることしかできず、うなだれた。



 どうしてあんな素っ気ない態度とっちゃうんだろ。絶対、変だって思われた。

 私は隆一君と別れ、自分の部屋に戻る。部屋の隅に置いたカバンから替えの下着の入ったバックを取り出す。


「お姉ちゃん、おはよー」

「…………」

「お姉ちゃん?」

「え?」

 はっとして我に返って顔を上げると、布団から起き上がったばかりの眠い目を擦る妹と目が合った。

「静、な、なに?」

「おはようって言ったのぉ」

「ああ、おはよ……」

「どこに行ってたの?」

「……ちょっと走ってたの」

「そうなんだ。気持ち良かった?」

「まあね……。お風呂行ってくるから」

「あ、待って」

「何?」

「なんかあった?」

 静はびっくりするくらい鋭い。美希には「透って結構、ぼけーっとしてるよね」ってよく言われるのに。

「何でもない。ただペースを考えずに走ったから疲れてるだけだから」

「今日もバイトだけと大丈夫なの?」

「生意気いわないの。隼平さんに迷惑をかけるわけないでしょ。それから、あと30分しても朝沙子が起きなかったから、起こしてあげて。支度しないと遅れちゃうから」

「はあい。いってらっしゃーい」

「いってきます」


 朝沙子は今もまだ夢の中。はだけた浴衣を軽く直してから、部屋を出て地下の温泉へ。

 静まりかえった早朝の脱衣所。

 誰もいないことにほっと安心した。今は一人になりたかったから。

 汗を吸った服を脱ぎ、浴室へ。

 早朝の穏やかな日射しが窓から差し込み、たちのぼる湯気をほんのりと照らし出している。

 かけ湯をして、身体を洗い、爪先から温泉に浸かる。少し熱めのお湯が、ジョギングで疲労した身体にじんわりと染みた。

 考えることは昨日の朝沙子のこと。

 朝沙子はびっくりするくらい、隆一君にモーションをかけていた。

 隆一君には他に好きな人がいるって知っているのに、あそこまでアタックをかけられるなんてすごい。

 学校でも、それに旅行が決まってからも、ずっと隆一君のことを近藤君って呼んでいたのに、今では当たり前のようにリューイチ呼び。

 朝沙子は気分屋だけど、あの後先考えない情熱はすごく羨ましい。

 それは私にないもの。

 行動しようとする前に、私はどうしても失敗した時のことを考えてしまう。そのせいで一歩進むことをためらうし、臆病になる。

 剣道をはじめるきっかけは美希がいたから。

 美希と仲直りするきっかけは、隆一君がいたから。

 誰からか後押ししてもらえないと、私は先に進めない。

 自分でも呆れてしまうくらい他力本願。

 でも、今この胸のもやもやはきっと誰の後押しも意味がない。私が自分でなんとか折り合いをつけなきゃいけないもの。


「……それにしても、隆一君も鼻の下のばしすぎじゃない?」


 誰に告げるでもない言葉を呟いてしまう。

 好きな人がいるのに。

 朝沙子は可愛いけど、あんな風にデレデレするとか隆一君が片思いしている相手に失礼じゃない?

 男の子ってああいうもの?

 隆一君のみせた朝沙子への反応に、胸のモヤモヤが濃くなるのを意識してしまう。

 ボディタッチされただけで、頬を緩めるとか。

 自己嫌悪の末の八つ当たりだって自覚はあるけど。


「……でも、もっとひどいのは、私」


 隆一君と目が合わせられない。

 隆一君の戸惑いが分かっているのに、目を反らして、会話もそこそこに打ち切って。


「私、可愛くない……」


 これじゃあ、誰も好きになってくれるはずがない。

 隆一君が好きになってくれるわけも――。

 でも隆一君が好きな人って誰なんだろう。学校の人? それとも違う人?

 その相手は、隆一君の心に気付いているのだろうか。

 お湯をすくい、顔を洗う。

 今回の旅行、隆一君に誘ってもらった時はあんなに嬉しかったはずのに。

 水族館の予定を断って、ずっと悩んでいたから。

 でも美希からのお願いもあった。仕方ないと思いながら、何度もスマホを見ては、隆一君に連絡をしたいと思っていた。

 そんな時にかかってきたのが、このバイト兼旅行の話。

 美希に急用が入ったと言って道場を休ませてもらってまで来たのは、隆一君のそばにいたいと思ったから。

 でもそんな気持ちは宙に浮いたまま、行く宛てもなく、さまよっている。


「はぁ……消えたい……」


 そう呟いてみる。

 それから、しっかりしないとと気合いを入れる。

 隼平さんのバイトはしっかりこなさいと。

 そのために来たんだから。

 脱衣所のほうが騒がしくなる。おばさんたちの話し声。

 そろそろ出ようと、私は立ち上がった。

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