第44話 海へ
そして迎えた旅行兼バイト当日の朝。
まだ街全体が目覚めておらず、夏の日射しも控え目な午前8時。
今日も暑くなりそうだと、雲一つない青空を見上げる。
駅に向かう足取りも軽い。
なにせ今日から三泊四日、透さんと一緒に過ごせるのだ。嬉しくないわけがない。
まだ時間に余裕はあるけど、一刻も早く駅前についておきたくて小走りになる。
と、行き交う会社員の数もまだそれほど多くない、集合場所の駅前に見慣れた人の顔。
「透さんっ!」
思わず大きな声をあげてしまう。
道行く人たちがちらっとこっちに視線をやる。
「隆一君」
透さんが小さく手をあげる。今日の透さんはキャップに半袖のティーシャツにブルージーンズ、スニーカーというシンプルな格好。着替えが入っているだろう、ドラム型のバックを肩に提げていた。
「おはよう。今日、晴れて良かった」
「おはよう。本当ね」
「もう、おにーさん! あたしのこと、見えてるっ!?」
「あ」
「あ、じゃないよぉ」
「ごめん。静ちゃん。おはよう」
「おはよー」
静ちゃんはキャップに、ブラウスにミニスカートで可愛さが引き立つ。静ちゃんも着替えが入っているだろう、バックパックを背負っていた。
「二人とも、ずいぶん早いんだね。まあ、俺も人のこと言えないんだけど」
本来の集合時間より30分も早い。
「静が急かすから」
透さんがやれやれと言いたげに肩をすくめた。
「むぅ。お姉ちゃんだって、早く着く分にはいいよねって言ってたじゃん」
「まあそうだけど」
「隆一君。今回のメンバーなんだけど、あとは新宮君だけ?」
「……だと思うけど。どうなんだろ」
「おにーさん、ノド渇いたから、コンビニ行くの付き合ってー」
「静、喉が渇いたなら一人で買ってきなよ。隆一君に行かせるんじゃなくって」
「おにーさんに買って来てって言ってるんじゃなくって、一緒についてきてって言ってるの」
「誰かと行きたいなら、私が行くから」
「お姉ちゃんはダメ」
「どうして」
静ちゃんの言葉に、透さんは眉をひそめた。
「あれ買うな、これ買うなうるさいじゃん」
「うるさいって……なに買うつもりなのよ」
「いいでしょ。ね、おにーさん」
「分かった。付き合うよ」
「隆一君、あんまり甘やかさないで、すぐ調子にのるから」
「あはは、へーき」
「へーきって、あたし、そんなワガママ言わないんだけどぉ」
「え、えーっと……、とにかく行ってくるよ。透さんは何か欲しいものは?」
「私は大丈夫。じゃ、静のこと、お願いできる?」
「任せて。行こう。静ちゃん」
というわけで、静ちゃんと連れだっ、駅前のコンビニに立ち寄る。カゴを掴んだ静ちゃんは飲み物とお菓子を次々と入れていく。
「ね、おにーさん……」
「んー?」
「お姉ちゃんと水族館、誘ったんでしょ」
「あ、透さんが言ってた?」
「ううん。偶然、聞こえちゃったの」
俺は苦笑してしまう。
「急用じゃしょうがないよ」
と、静ちゃんの顔が泣きそうになる。
「え、どうしたの……」
「おにーさん、ごめんなさいっ」
静ちゃんは深々と頭を下げた。いきなりのことに戸惑ってしまう。
「え? 急にどうしたの……」
「それ、あたしのせい……」
「あたしのって……急用って静ちゃんの用事だったってこと? いや、それこそ謝る必要なんかないから。こっちは大切な用事ってわけじゃないし……。水族館なんていつでも行けるんだしさ」
「そうじゃないの。急用ってね、美希ちゃんのことなの」
「冬馬さんの?」
「うん。実はね、この間の勉強会の時のこと、美希ちゃんに話したの」
「冬馬さんに? なんで?」
「だって、あれだけお膳立てしてあげたのに、おにーさん、何もしないし……」
「うぐ」
静ちゃんに古傷を
「で、でも今の話題と冬馬さんに何の関係が……?」
「多分なんだけど。美希ちゃん、おにーさんがお姉ちゃんのことが好きって分かったんだと思う」
「え、えーっと……?」
まだ話が見えない。
それでどうして透さんに急用が入るんだ?
「それからなの。毎日のようにお姉ちゃん、美希ちゃんと会うようになったの……。詳しい用事は分からないんだけど、お姉ちゃん、美希ちゃんから相談を受けてるって言ってて。もしかしたら、美希ちゃん、お姉ちゃんとおにーさんが夏休み中に会えないよう、何かしらの用事を作ってたのかも」
「え……」
そこまでするかと思うと同時に、透さんと冬馬さんが仲直りした現場で、
――あいつが彼氏とか認めないからねっ!?
そう思いっきり冬馬さんから言われたこと思い出してしまう。
「待って。それじゃあ、今日は?」
「よく分からないけど、もしかしたら断ったのかも」
「……そうなんだ」
もしそうだったら、それはそれで嬉しい。
親友より、俺との約束というか提案のほうを優先してくれたってことだから。
「だから、ごめんなさい。あたしが余計なこと、美希ちゃんに言っちゃったから。おにーさん、勇気を出してお姉ちゃんのことを誘ってくれたんだよね」
図星ではあるけど。さすがの俺もそれを今言ったら、静ちゃんを責めることになってしまうことくらい分かる。
わざわざこうして顔を合わせて話してくれたんだ。それくらい静ちゃんからしたら罪悪感があったってことなんだろう。そんなこと、気にする必要ないのに。
だから極力、気を遣わせないように笑顔になる。
「平気だよ。静ちゃんは悪くない」
「そんなこと……」
「大丈夫だって。仮に冬馬さんが妨害しようとしても、俺だって負けるつもりはないからさ。透さんへの想いはそんな簡単に折れないし」
「おにーさん……だったら勉強会の時に告白すれば良かったのにぃ」
「……それは言わないで……」
俺は咳払いをして、どうにか立て直す。
「今日から三泊四日、透さんと一緒に過ごせるんだから、そこでどうにかする」
「告白するの!?」
静ちゃんが満面の笑みになる。
「で、できればいいなあって……」
「すっごく不安なんだけど」
「まあいいから、任せて。ほら、静ちゃん、笑って。バイトではあるけど、旅行なんだからさ」
「うんっ」
「じゃあ、この話はこれで終わり。買い物は?」
「これでいい」
「じゃあ、お会計して戻ろう」
腕時計を見ると、もう待ち合わせの時間だ。
会計を済ませ、俺たちは小走りに透さんの元へ戻る。と、そこにはすでに和馬はきていたんだけど、俺の目は透さんと話しているもう一人の方に向いた。
「橘さん!?」
「あー! 近藤君、やっほーっ!」
こっちに大きく手を振るのは、明るい茶髪を後ろで結んだ橘朝沙子さん。
バケットハット、サングラスに、ショッキングカラーのタンクトップ、ハーフパンツという出で立ちで、伸びやかな手足をこれでもかと露わにしている。
化粧バッチリでキメていた。
俺は和馬に視線をやる。
「人数は多いほうがいいだろってんで、朝沙子にも声かけといたんだ」
「ちょうど金欠でさ、バイトしなきゃなぁって思ってたから助かっちゃった♪ ――あー! かわいいー! その子、誰? 近藤君の妹?」
静ちゃんは少し恥ずかしそうに、俺の背中に隠れる。
「キャー! マジ、可愛い!」
「その子は静。私の妹」
「え、透の!? あ、そう言えば、前に言ってたっけ。清学なんだっけ?」
「……あ、はい」
「静、この人は橘朝沙子さん。私たちの同級生。ちゃんと挨拶して」
恐る恐るという風に、静ちゃんが俺の背中から顔を出すと、ぺこっと小さく頭を下げた。
「安達静です。よろしくお願いします。橘さん」
「もー、橘さんなんでやめてよー。朝沙子でいいから!」
「あ、朝沙子さん……」
橘さんの勢いに、静ちゃんは完全に圧倒されていた。
「静ちゃんってば、最高! 透、静ちゃん、あたしにちょうだい!」
「もう、朝沙子ってば何言ってるのよ」
「いいじゃん、いいじゃーん!」
「――ハイハイ、挨拶はそこまでにして、さっさと行くぞ。電車に乗り遅れる」
和馬を先頭に俺たちは駅へ向かう。
「朝沙子さんのネイル素敵っ」
静ちゃんは、橘さんのネイルに興味津々だ。
「ま、夏休みだからねー。可愛いっしょ」
「はい!」
「静ちゃんもネイルやってあげよっか?」
「でも、あたしはあんまり似合わないと思います……」
「絶対に似合うって。せっかくの夏休みなんだから、羽を伸ばさなきゃ」
「朝沙子、あんまり変なことふきこまないで」
「変ってなにさぁ。あ、透にもやってあげるから」
「い、いいよ。私は。似合わないから」
「ちょっとちょっと、姉妹そろって素材がいいくせに何言っちゃってるのー? せっかくの夏なんだよ!? オシャレして、彼氏つくって、弾けようよ! どーせ、来年は受験で夏休みなんて楽しめないんだからさ!」
「私は恋愛とか、興味ないから」
「またまたぁ」
ワイワイ盛り上がる女性陣の会話を聞きながら、俺は透さんの言葉に若干の動揺を覚えてしまう。
「ま、透がさ、あたしたちの王子様でいてくれるのは嬉しいけどー」
「誰があたしたちの王子なの。そんなものになったつもりはないんだけど。もう」
「あはは。ね、静ちゃん、お兄さん欲しいよね」
「はい!」
元気いっぱいな静ちゃんの声。
「ちょ、ちょっと、静、何言ってるのよ」
「静ちゃんてば素直ー。透にもこの素直さの十分の一でもあればねー。彼氏が欲しくない十代女子とか存在しないし! 楽しいよ。一緒にデートして、買い物行ってー、食事してー、でどっちかの家に行ってー」
「はいはい。ていうか、そういう朝沙子は彼氏はいるじゃない。弾けようだなんて、浮気でもするつもり?」
透さんの声には若干、疲労の色が滲む。
「あー、あいつとは別れた」
「え……」
「だって、休みの日にゲーセンばっかり行きたがるんだよ? そりゃボーリングとかダーツとか嫌いじゃないけどさ。もうちょっと恋人同士だからこそ行ける場所にして欲しいから。だから、あたしは今、フリー!」
朝沙子さん、めっちゃテンション高いなー。俺は背中ではしゃぐ朝沙子さんの声を聞きながら、しみじみ思った。
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