第35話 公園

 そして俺は約束の時間どおりに駅前に到着した。

 待ち合わせ場所には、ティーシャツにジーンズ姿の透さんがいた。


「透さんっ」

「隆一君、来てくれてありとう」

「頭なんて下げないで。それじゃあ、行こう」

「うん」


 透さんと肩を並べて歩き出す。


「……実は今日、道場で稽古があるの」

「道場……。あ、透さんがむかし通ってた?」

「そう」

「そっか。だから、この時刻なんだ」

「今から行けば、稽古が終わる時刻あたりに到着できると思ったから」


 大通りを抜け、住宅街に入っていくと人の流れが途切れ、住宅街特有の静けさに包み込まれる。

 家の明かりはまぶしいくらいついているのに、物音がしない不思議な静けさ。


 七月も半ばを過ぎ、蒸し暑さが一段と厳しくなっていた。


「……仲直りできるといいよね」


 俺は沈黙を埋めるように言った。


「仲直りはできなくても……話したい」


 しばらく歩くと小綺麗なマンションの立ち並ぶ中、黒い瓦葺き屋根の平屋が見えてくる。

 遠目にも分かるくらい大きな看板に『黒岩武修館』と書かれていた。

 道場の周りはぐるっと塀で囲まれ、玄関前には折りたたみ式のアルミ製のゲート。

 透さんは腕時計で時間を確認する。もうすぐ8時半。

 看板には『平日稽古 18:30~20:30』と書かれていた。


「ここ?」

「そう」

「通ってた頃と比べてどう?」

「変わらない。私が通ってた頃のまま」


 門のそばで待っていると、玄関が開き、「ありがとうございましたっ」の合唱が聞こえ、子どもや大人が出てくる。

 服装も学校の制服だったり、私服だったりと様々。

 みんな俺たちを不思議そうな顔で見ては、解散していく。


「安達か?」


 30代くらいの恰幅のいい男性がびっくりしたような声を漏らす。


「箱崎さん。ご無沙汰しています」


 透さんは折り目正しく頭を下げる。俺もそれにならう。


「こんなところで何してるんだ?」

「ちょっと……」


 透さんは気まずそうに目を反らし、言葉を濁す。


「お前がいきなり辞めて、みんな寂しがってるぞ。そろそろどうだ。また通ったら。中学生最後の大会があんな風に無念な形で終わって、お前だって悔しいだろ……」

「は、はい」

「――透さん」


 俺はそっと肩を叩く。俺の視線の先には制服姿の冬馬さん。驚いた表情で透さんを見ている。


「箱崎さん、すいません」

「あ、ああ……」


 箱崎さんは何かを察したように去っていく。

 その場には俺と透さん、そして冬馬さん、そして声を漏らすのも憚られるようなひりついた緊張感が横たわる。

 冬馬さんが俺を見る。明らかにその目には怒りがあった。


「あんた、どういうつもり――」


 冬馬さんは俺に向かってくる。でも透さんが俺を庇うように前に立った。

 肩をびくっと小さく跳ねさせ、冬馬さんは立ち止まる。


「待って、美希。私がついて来て欲しいってお願いしたの……。一人じゃ、美希と会う勇気が出なかったから……」

「…………」

「自分勝手でごめん。でも話したかったの……。付き合ってくれる?」


 冬馬さんは俺と透さんとを見比べ、「……分かった」と少しの間をおいて頷いてくれる。

 どこへ? というやりとりはないまま、2人は当たり前のように歩き出す。

 冬馬さんが先頭を、次に透さん、俺は最後尾。

 3分くらい歩くと、公園が見えてくる。

 公園と言っても猫の額ほどの広さしかないし、遊具もない。外灯に照らされたベンチが1つ置かれているだけ。


「ブランコ撤去されちゃったんだね」

「……うん。半年くらい前に」


 透さんの呟きに、冬馬さんが答えた。

 透さんが冬馬さんと向き直る。


「美希」

「……何?」

「ごめんなさい……」


 透さんが深く頭を下げた。

 頭を下げ続ける透さんを、冬馬さんがじっと見つめる。

 どう反応していいのか分からず、困惑しているようにも、今にも泣き出しそうにも見えた。


「……とりあえず、座ろう」

「うん……」


 二人はベンチに座る。


「透さん、俺は席を外すから」


 さすがにここまできたなら、俺はいらないだろう。


「待って。そこにいて」


 しかし冬馬さんに呼び止められた。



「どうせ、後で透から私と何を話したか聞くことになるんだろうから」


 俺は透さんを見る。


「……隆一君がいいなら、そこにいて」

「分かった」


 俺は公園の出入り口の車止めに腰かけた。


「こうしてちゃんと話をするの、二年ぶりだよね?」

「前回のビンタのことを抜かせばね」

「……うん」

「それじゃあ話して。どうしていきなり私のことを、顔が見たくないくらい嫌ったのか」

「ちがう……」

「何が違うの。だってそうでしょ。私のメッセージをさんざん無視して、家を訪ねても会ってもくれない。それをどう受け止めればいいわけ?」


 透さんは浅い呼吸を繰り返す。そして、俺にしてくれたのと同じ話を、冬馬さんの前でする。その話を、冬馬さんは黙って聞いた。

 ピアノ教室、ミニバスで感じた周囲からの重たすぎる期待と、想像もしなかった友人との軋轢。

 そんな中で出会った剣道と、冬馬さん――。


 蒸し暑く、重たい初夏の空気の中、透さんの消え入りそうな声がひっそりと静まりかえった公園を漂う。


「――待って」


 不意に冬馬さんが言った。

 それは、透さんが、自分が勝利してしまったことで誰より大会出場のために頑張っていた冬馬さんからの機会を奪ってしまったことを後悔した、という下りの時。


「じゃあ、私を全国大会に出すために、仮病を使ったってこと?」

「…………そう」

「見損なわないで!」


 冬馬さんの声が震えるほどの感情を剥き出しにした。


「っ」

「私は、そんな小さい人間でも、弱い人間でもないっ! 透が病気で辞退して代わりに私が出場して、それで私が本気で喜んだと思ってる?」

「でも……美希は大会のために毎日、きびしい稽古にも耐えて……。夢を語ってくれた。だから……」

「ぜんぜん、分かってない! 私がどんな想いで大会に出たと思ってるのっ? 透が病欠してくれてラッキーって思ったっていいたいわけ!? 透には、私がそんな人間に見えてた!?」

「…………」

「ここまできて、黙るの?」

「違う。美希はそんな子じゃない……」


 膝においた透さんの手が硬く握りしめられていた。


「病欠した透の為にも絶対に勝たなきゃって、その一心だったんだよ!? それを、透は……!! それって結局、私だけじゃない、伝統ある大会まで馬鹿にしたってことなんだよ!?」


 冬馬さんの荒い息遣いが静まりかえった公園に響く。


「初戦で負けて、ただただ透に申し訳がなくって……。透だったら絶対、あんな相手にも負けない、私よりずっとすごい試合が出来たってはずだって……ず、ずっと後悔してて……っ」


 冬馬さんの声が涙で濁り、言葉は明瞭さを失う。


「美希」

「……今さらやめて」


 透さんは一歩後ずさりかけ――一歩前に踏み出した。


「やめてって、聞こえなかったの……」

「聞こえた」


 透さんは、顔を覆ってうずくまる冬馬さんを抱きしめた。


 透さんが差し出したハンカチを、少し躊躇ってから冬馬さんは受け取り、目元にあてがった。

 冬馬さんの荒い息づかいが、公園に響く。


「――もう二度と、たとえどんな理由があっても、勝手に、一方的に関係を断つのはやめて……っ」

「ごめん」

「謝らなくていいっ。約束してっ」

「約束する。約束するよ……」


 外灯の下、透さんの目元が光る。


「――ハンカチ、洗って返すから」

「いいよ。大丈夫だから」

「……返すから」

「分かった」


 冬馬さんは、透さんに抱きしめられたまま深呼吸を繰り返す。


「美希、ちょっと待ってて」


 透さんは立ち上がると、公園の片隅に置かれている自販機で水のペットボトルを購入すると、ベンチに戻って冬馬さんに渡す。


「ありがとう……」


 ノドを潤した冬馬さんは、いくらか落ち着きを取り戻す。


「……噂は、もう平気なの?」

「噂?」

「あいつが言ってたの。私がビンタしたせいで、変な噂が流れたって」

「大丈夫。噂はなくなったわけじゃないけど、そもそも気にしてないから」

「……叩いたことは、謝らないから」

「分かってる」

「間違ってたなんて思ってないから」

「……うん」

「あの時に戻れたとしても同じことを、するから」

「うん」

「でも……」


 冬馬さんが目をぎゅっと閉じながら顔を差し出すと、透さんが困惑する。


「な、何?」

「私のことも叩いていいから。でも、一度だけ。私だって、一度しか叩いてないんだから」

「そんなことしない。叩かれるだけのことをしたのは、私のほうなんだから」

「後でやっぱり叩かせてって言っても叩かせないよ?」


 透さんは小さく吹きだした。


「そんなこと言わないから」

「……分かった」


 俺はほっと息を吐き出す。

 2人の間にあった緊張感はだいぶほぐれている。

 全てが元通りになるわけじゃないだろうけど、でも新しく進むべき未来は見えた。


「ね、透。聞きたいことがあるんだけど……」

「何?」

「私と会おうって思ったのって、あいつに言われたから?」


 冬馬さんは俺を指さす。


「会おうって決めたのは私の意思。でもそのきっかけをくれたのは隆一君」

「きっかけ……?」

「うん。これ」


 透さんはジーンズの後ろポケットからスマホを取りだしてみせる。


「あっ」


 外灯に照らされた冬馬さんの顔が驚きに包まれ、胸ポケットからスマホを取り出す。

 お互いにスマホカバーを見せ合う。


「「『キュートだよ、鏡さん!』」」


 透さんと冬馬さん同時に言った。


「そう、そうだよ。美希が同じスマホカバーを使ってるってことを隆一君が教えてくれて、まだ共通点があるって言ってくれたの……」

「コラボカフェは行った?」

「予約がなかなか取れなくて一回だけだけど」

「えー、羨ましぃっ! 私なんて予約抽選にも外れたから。なにかグッズは手に入った?」

「シークレットのコースターが当たったの」

「本当!? 見たいっ!」


 透さんは深呼吸をして、頷く。


「いいよ。今度、うちに来て」

「……いいの?」

「もちろん」


 そっか、と冬馬さんは口元を緩めた。まだ他所のぎこちなさはあるけれど、それでも2人の仲の良さが伝わってくる。


「透。あいつとはどういう関係なの? 私の前では透の友だちって言ってたんだけど」

「隆一君は友だち」

「本当に? 本当にただの友だち?」

「う、うん」

「あいつが彼氏とか認めないからねっ!?」

「な……っ!?」「え……っ!?」


 俺と透さんは同時に声を上げていた。


「違うったら。言ったでしょ。隆一君とは友だちだって……! だいたい、私みたいなデカくて、色気も何もない女を好きになる男の人なんているわけないし……っ!」

「――そんなことないよっ」


 思わず口を挟んでしまった俺に、透さんと冬馬さんの視線が俺に集まり、「う」と言葉に詰まってしまう。


「そんなことないですよ、ってどういうこと?」


 冬馬さんの鋭い眼光がとんでくる。


「デカい、とか、色気も何もないってことはない、と思うし。透さんは綺麗、だから……」

「りゅ、隆一君……っ」


 透さんは何て言っていいのか分からないのか、俯いてしまう。


「ま、見る目はあるみたいね」

「美希!?」

「透はまず、その自己評価の低いところを直したほうがいいって、中学の頃から言ってるでしょ?」

「そ、そうだけど……」

「じゃあ、私、帰るから。透、また明日、話そ。今度はちゃんと2人きりで」


 冬馬さんは俺の脇をすり抜けて公園を出ようとして足を止めた。


「?」

「ちゃんと透を家まで送りなさいよ。それから、透に変なことしたら許さないからっ」

「す、するかよっ」

「ふうん。ま、それだけは信じる」


 疑わしそうな目をしながらも、冬馬さんは帰っていく。

 若干の気まずさを意識しながらも俺が「い、行こうか」と促すと、透さんは「ん……」と小さく頷いた。



 冬馬さんと別れ、俺たちは夜道を歩いていた。

 行く時は重たい足取りだったものの、今は軽快だ。


「冬馬さんのこと、良かったね」

「ぜんぶ隆一君のお陰」

「俺は何もしてないよ」


 謙遜でも何でもない。本当に俺はいただけだから。


「ううん、そんなことない。隆一君が美希が同じスマホカバーを持ってたって教えてくれたでしょ。だから、会う勇気が持てたの……」


 それから、と透さんは言うけれど、言葉が続かなかった。


「透さん?」


 住宅街の中の淡い外灯に照らされ、透さんの真っ赤だった。


「あんなこと言われたの初めてだったから」

「あんなこと?」

「ほら……だから……………………………………………………………き、綺麗って……」


 透さんは小さく息を吐き、自分の身体を抱きしめる。


「本当のことだから」

「ごめん。こういう時になんて言ったらいいのか分からなくって……。こういう場合、ありがとう、でいいのかな……?」

「そ、そうなのかな」


 俺も困ってしまって、曖昧に頷く。


「……ありがとう」

「うん」


 何となく気まずいというか、むずがゆい気持ちで再び歩き出す。

 そしてマンションの前まで来る。


「お茶、飲んでいく?」

「今日はもう遅いから、もう帰るよ」

「今日は無理言って付き合ってくれて、本当にありがとう」

「おやすみ、透さん」

「おやすみ。隆一君」


 透さんがエレベーターに乗り込むのを見届け、小さく手を振る彼女に振り返し、俺は自分の家へ戻っていく。


 今日はよく眠れそうだ。

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