9
国道を南下し、近道のため住宅街に入る。
閑静な町では少し遅い通勤や通学を行う人々とすれ違い、時折地域の住民が知樹と視線を交わした。
「おはよう」
「うっす、おはようございます!」
いつもの老婦人に会釈し、住宅街を抜けると、今度は長い線路が横たわっている。
通学するならベストな交通機関に沿って、狭い車道を駆け抜けていく。
この線路には反対側へ渡るためのトンネルが点在している。
車道となっているものもいくつかあるが、大半は歩行者向けの狭いものだ。
「おい、出せよ」
そのうちの一つから聞こえてきた。
───止まったら、遅刻確定だぞ。
脳内で反芻するが、溢れ出る好奇心と磨かれたばかりの自信がその足を止めさせた。
引き返すうちに、会話の輪郭が形を持ち始める。
◆ ◆ ◆
「さっきおっさんからもらってただろ。出せよ」
「え〜、なんのことかなぁ?」
少年一人を、20代程度の男が三人で取り囲んでいた。
男達の背中には地域の珍走団である
彼らの
「金だよ金。札束だ!」
相対する怒声に、少年は貼り付けた嘲笑を崩さなかった。
それは、明らかに異様だった。
「あぁ。おにーさんたち、これのこと言ってたんだ」
すると、パーカーのポケットからそれを取り出した。
こんな紙切れの束ふたつを。
そう言わんばかりに、粗雑に。
誰かが唾液を飲んだ。
「おめぇその年で持ってていい訳ねえだろ。出せ」
「しょうがないなぁ。はい、あげる」
まるでトランプを手渡すかのように札束が差し出された。
彼らの脳裏に偽札の可能性がよぎったが、その時はその時だった。
女と酒とバイク。
伸ばしたその手は空を切った。
「はいっ、あーげたっ」
あまりにも古典的な悪戯。
少年の頭上で揺れる万能引換券を見て、彼らはようやく正気に戻った。
「へっ、面白いじゃん。おい」
精一杯の強がりも、声を震わせていては
その直後に肩を押したのもよくない。
「あっ、殴った」
「うるせえっ、本当に殴るぞ」
男の一人が少年の肩を掴み、拳を振り上げた。
それが、彼に介入を決意させた。
重いものが空を切る音。
認識して反応出来たものはいなかった。
「があっ」
大きな隙を見せていた脇腹に、通学鞄がめり込んだのだ。
5キロ近くある重量物を喰らって平然と出来る人間は少ない。
攻撃をもらった男はその場にうずくまった。
「なっ、なんだあっ」
「お前は
驚くほど鮮明に、低い声が反響した。
「んだてめぇっ」
「待てっ、こいつは……!」
仲間をやられて黙っていられない。
勇み足で年下に歩み寄ると、素早いジャブを繰り出した。
手応えがない。視覚より早く、触覚が判断した。
長年のボクシングと喧嘩の勘が胸部を狙う。
しかし、二撃目は繰り出せなかった。
間合いに入り込んだ影は肘で顎を打ち、意識を刈り取った。
無防備になったところへさらに足払いで張り倒したのだ。
ガラ空きになった脇腹を踏みつけるのを忘れない。
「がっ、あっ、はあっ……!」
肺と横隔膜への一撃に、乱れた呼吸が響く。
残る一人は、対峙しているこの存在に心当たりがあった。
「おっ、あなたは……カス校の幕内か?」
影は否定も肯定もしない。ただ歩み寄るばかり。
それが、記憶にある凶悪な存在と結びついた。
痛い目を見ない方法。朧げな記憶を呼び起こし、行動する。
「許してくださいっ! もうしません!」
地面に顔面を擦り付け、土下座する。
それで唯一、難を逃れたという証言があった。
あとは関わらない。闇討ちなど
歩く気配が止まった。
───助かったっ?
願望は頭部に叩きつけられた蹴りが肯定した。
「消えろ、
強烈な衝撃と痛み。しかし、他二人はこの程度で済んでいない。
一人は駆け足で、残りは這いながら。
消えていく蘭走のメンバーを見送ると、幕内知樹はそこにいた人間を見た。
「そんなもん見せびらかすなよ」
まるで先ほどの争いが画面の向こうのように。
嘲笑がそこにあった。
「おにーさん、強いんだね」
「ああ。もちろん」
自身の鞄を回収すると、知樹は通学路へ向かう。
「次は大声出せよ。大抵のチンピラは逃げる」
「えーっ」
「えーじゃねえんだよ」
暗いところから、明るいところへ。
トンネルの中を一瞥すると、嘲笑はその場から動かずに知樹を見送っていた。
「気色悪っ」
正直な感想を吐き捨てると、知樹は再び足を回し始めた。
◆ ◆ ◆
静寂。
トンネルから人の気配が絶えた。
「ねえ、アレどうだった?」
そこに甘い香りが出現した。
染色されたツインテールをなびかせ、片割れの肩にのしかかる。
「うん。パパにできたらすごく便利そう」
「じゃあ、出て行けばよかった?」
その問いにパーカーは首を振った。
「いいよ。学園は覚えたから、どうとでもできる」
「すごーい。さすがおにいちゃん」
「それに今は、おかあさんの方が先だ」
その笑みに、一筋の執着が混じった。
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