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2021年5月3日


 午前4時。

 幕内知樹の朝が始まる。


「うっし、畑ヨシ」


 自宅の庭には家庭菜園があり、そこそこの種類が植えられている。

 作物に水分と栄養をくれてやると、雑草を引き抜く。


「いただきまーっす」


 次は朝食だ。

 三合の玄米・鶏肉・ほうれん草・ブロッコリーを鍋に放り込み、相応の水で煮込む。

 最後に味噌を溶かせば味噌粥の完成だ。

 肝心なのは栄養補給であり、味は二の次である。


 腹を満たせば、トレーニングだ。

 ウェイトベストを装備し、自宅の塀へ向かう。


「ひゃくじゅうご……ひゃくじゅうろぉく……」


 両腕に全体重を任せ、上下する。

 懸垂である。

 20分間にどれだけできるかを試すものであり、回数に制限はない。


 定刻が過ぎると、上から下へ。

 横になると、転がしてあった丸太を抱え、白んだ空を仰ぐ。

 そして、上体を起こす。


「87、88、89、90!」


 水分をたっぷり含んだ木というものは、想像を絶する質量を持つ。

 これでもまだ、この訓練は最も辛い段階に達していない。

 自身が納得できるレベルまで達したらば、泥の中で行う予定だった。


「97、98、99……98、97、96……」


 腕立て伏せ。背負った丸太を転がさないよう、慎重に上下する運動。

 100数えるまで行うとは決めているが、数が増減しないとは誰も決めていない。

 彼が納得するまで、修練は続く。


 肺が痛くなってきたが、まだ終わらない。

 今度は地面に深々と突き刺さった丸太と相対する。


 そして、拳で突く。

 こびり付いた赤黒い汚れは打撃の跡であり、切れた拳は重ねた鍛錬の証拠だ。


 これは肉体の精錬ではない。精神の鍛造である。

 知樹の父曰く。


『戦いでは、相手が防具に身を包んでいることもある。

 その時武器を持っていればいいが、ないこともある。

 しかも、戦わねばならないこともある。


 そんな時、指を咥えてされるがままか?

 否! 拳が割れようと、腕が折れようと、構わず相手を叩け!


 防具は重要だ。切り傷ひとつで戦闘力はガクンと落ちる。

 鎧があるのとないのとでは大違いだ。

 故に、その油断を突け! 突くために、痛みに慣れろ!』


 既に知樹の拳はかさぶたに覆われ、バンテージは外せない。

 そこまでして、彼は痛みを無視出来ると知った。


 地面を揺らすことしばらく、腕時計を一瞥すると定刻が迫っていた。

 身体を休めるため、縁側に腰掛けると鞄から教科書とノートを引っ張り出す。


 今日の授業の予習である。

 肉体錬成はもちろん、勉学の重要性も父から教わっていた。


 現文・古文は完全に理解し、数学・物理・生物も内容は把握していた。

 史学は嘘ばかりでろくに読んでいなかったが、英語は敵性言語だからこそ習得に努めた。

 保健体育は───恥ずかしくてよく読めていない。


 公立と比べて、授業のレベルは2、3上がっていた。

 それでも追いつけるのは、普段の予習復習の成果である。


 体内時計が定刻を知らせる。

 実際の針を見れば、7時30分。学園までは徒歩で60分かかる。

 つまり、普通に歩けばギリギリである。


「止まったら、遅刻確定だぞ」


 自身に言い聞かせるように呟く。

 上に学園制服、下にジャージと奇妙な出立ちで家を出ると、知樹は一直線に駆け出した。

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