SAVE.304:行軍演習④

 背嚢を枕に、薄手の毛布を冷えないようにミリアの体にそっとかける。静かに眠る妹の横で、俺は拾った枝を火にくべていた。薪が湿気っていたせいで煙と臭いが充満し、思わず咳き込む。それからそんな初歩的な失敗をした自分に呆れてしまう。


 今日の俺は、こんな失敗ばかりだった。傘の話だってもっと上手く誤魔化せただろうし、カイゼル卿との戦いだってもう少しやりようがあっただろうに。


「守りたいものもなく、愛する人もいない……か」


 どんな一撃よりも重い言葉が自然と口から漏れていた。思うのは、娘の婚約者にどんな気持ちで言ったのだろう、という事だ。


 シャロンが嫌いな訳じゃない、むしろ好意的だと思っている。聡明で努力家で思慮深い彼女は、まさしく王妃として相応しい存在だ。信頼も信用もしているし尊敬だってしている。


 こういう感想が、カイゼル卿の『愛する人もいない』という言葉の原因なのだろう。


 シャロンに対する好きという感情は、愛する異性に対するそれじゃない。生涯側にいて欲しいとか、共に幸せな未来を築きたいとか、そういう人並みの夫婦が望むような言葉が出てくるような相手ではない。年の近い親戚の姉のような、そういう相手だ。


 政略結婚だから当たり前だ、もっと酷い結婚なんてその辺に転がっているだろうと、つい自己弁護してしまう。いっその事、神託みたいに婚約破棄でもしてやろうか。悪いなシャロン、好きな女が出来たからお前とはこれっきりだ。涙目のシャロン、見下ろす俺、それから隣には……。


「……何であの女が出てくるんだよ」


 妄想の人選に失敗した俺は、思わずため息を漏らしてしまった。なんであのはた迷惑な女の顔が思い浮かんだんだよ、俺は。


「クリス、か」


 彼女の名前を小さく呟く。何故か隣にいるべきだと、思ってしまった彼女の名前を。幸いなのは、降り続ける雨がかき消してくれたおかげで、誰の耳にも届かなかった事だろうか。




「呼んだ?」




 ――そんな事は、なかった。


「……っ! 何で」


 いた、クリスが、目の前に。赤い傘をさして呑気な声で現れるものだから、思わず悲鳴を上げそうになる。だが彼女は人差し指を口に当て、寝ているミリアを顎で指す。そうだな、ミリアは起こさない方がいい……そうしたら絶対、面倒な事になるのだから。


「俺の妄想か?」


 深呼吸して落ち着いた俺は、当然の結論を言葉にした。こんなところにクリスがいるわけないし、この場所を知っているのは俺の周りの数人だけ。なので、目の前にいるクリスは俺の妄想の上での存在だ。どうだ、完璧な推論だろう。


「へぇ、君の妄想に出られるなんてあたしも随分出世したね」

「最悪、本物だ」


 返ってきたのは、いかにも本物が言いそうな小生意気な台詞だった。おかげで完璧だと思われていた妄想説は早々に崩れ去ってしまって。


「……何でここにいるんだよ」


 頭を抱えながら、当然の疑問を口にする。だが彼女は素知らぬ顔で、傘と上着についた水滴を静かに払い始めていた。


「君に言っておきたい事があってね。それに傘だって役に立ったでしょう?」

「……言っておきたい事ってなんだよ」


 呆れ混じりにそう聞き返せば、彼女は真っ直ぐと俺を見つめていた。何だよこんな状況で言っておきたい事なんて、普通存在するか? 雨の中濡れた地面を歩いてわざわざ、俺に会いに来たって何だよ。


「その……」


 雨に濡れたせいなのか、彼女の顔が紅潮していた。俺を見つめるその瞳は潤んでいて――いや、待て、待て待て待て待ってくれ。


 雨の中男に会いに来る理由なんて、もしかしたら一つしか無いんじゃないか?


「だから、えっと……」


 これはあれか、するのかシャロンに婚約破棄を。もしかしてあの妄想は、王子にだけ伝わる全く新しい神託だなんて事は。まずい、心の準備がまだ。




「ごめん、アキト。この間は……あたしが無神経だった」




 無かった。普通に謝罪の言葉だった。


「君が、アキト=E=ヴァーミリオンがどんな状況下におかれていて、どんな気持ちであたしに話を聞きにきたのか……少しも考えていなかった。改めて謝罪させて欲しいんだ」


 謝罪か。こいつでも人に頭とか下げるんだな、知らなかったなぁ。


「……気にするなよ、そんな事は」


 いや、他国の王子に失礼を働いたというのは、雨に打たれてもやらなければならない事だ。凄い正当性とか、あるよな。


「でも、その、泣いて……」

「泣いてなっ……!」


 叫びそうになった口を、彼女の左手に塞がれる。それから目線の先には、まだ寝息を立てるミリアがいた。


「……座ってもいい?」


 耳元でクリスがそう囁くから、思わず顔を背けてしまう。本当に謝罪に来たんだろうな、この女は……俺をからかいに来たとかじゃなくて。


「勝手にしろ」

「じゃあ勝手にしようかな」


 そう言ってクリスは俺の右隣に腰を下ろした。雨で濡れた髪がまた、どこか扇情的な物に思えてつい視線を逸してしまう。


「本当に謝りに来たのか?」

「あぁ、ちゃんと土産も持ってきよ……土産話、だけどさ」


 その言葉に黙って頷く。どうせまた訳の分からない事を並べ立てられるのだろうが……知らないよりは知っておいた方が良いだろう。


「君は疑問に思っている筈だ。どうしてあたしがここに来れたのか……どうして極秘である神託で示された場所を知っているかを」


 まぁ、当然だ。だがよく考えれば説明出来ない難問という訳でもない。


「考えられるのは……お前が聖女だって事だろうな。神託で事前に知ってたのなら辻褄は合う」


 それはこのクリス=オブライエンが聖女であった場合だ。それならば神託を知っていてもおかしくはない。それにこいつの男装だって、聖女である事を隠すためと考えれば筋は通る。そもそも女でなければ、疑われる事はないのだから。


「まぁ確かにクリスは聖女だったけど……あたしはもう聖女の資格がないよ」

「また資格か……って本当に聖女だったのかよ」


 思わず聞き返してしまう。聖女である事を隠すというのは罪ではない……というか、誰もそんな事は想定していないのが現状だ。平民であれば一生食うに困らないだけの金が貰えるし、貴族であればこれ以上の名誉はないからだ。


「そっか、まだ知らないんだねアキトは……これは楽しみが一つ増えたね」


 声を殺してクリスが笑う。妙な事でも考えているみたいだが、本当に謝罪に来たのだろうかこの女は。


「話を戻そうか。あたしは神託の内容を知っていたんだ……なにせ前世であの乙女ゲームを遊んだからね」


 ……また訳の分からない事を。


「いいかいアキト、神託ってのはね……ゲームのシナリオの事なんだ」

「前も言っていたけれど、そのゲームってなんだよ」


 そう尋ねればクリスは満足そうに微笑んでから、音を立てないよう静かに両手を合わせた。


「前世にあった娯楽の一つさ。基本的に乙女ゲームってノベルゲーだから、そうだなぁ……脚本を選べる演劇、いや二次元だから紙芝居かな。間を取って人形劇? こっちにもあったよね」

「あるよ、子供向けなら」


 ようは乙女ゲームというやつは物語を楽しむための娯楽で、その物語の内容が神託と同じという事らしい。


「そして脚本ごとに、主演の王子様が違うんだ。君がミリアとここにいるという事は……今回の神託は『アキト√』だ」

「他の主演は誰なんだよ」

「ルーク殿下とダンテだね」


 神託の状況である、『突如やって来た謎の聖女』の相手役と考えればその二人は当然の人選だろう。


「ということは……神託が、その……ルーク殿下ルートとかダンテルートだった可能性もある訳か?」

「あるだろうね。むしろあたしとしては神託が『ルーク√』じゃない事に驚いてるぐらいだよ」

「俺が主演だとおかしいのかよ」


 何故か少し馬鹿にされたような気がして、思わず反論してしまう。


「おかしいね、だって『アキト√』は一番最後じゃないと遊べない隠しシナリオなんだから。物語の全てが明かされる隠しルート……そんなのいきなり見せちゃったら、ネタバレにしかならないでしょ?」


 ならないでしょ、って言われてもな。


「物語の全てって何だよ」

「ミリアが実はエルディニアのお姫様で、アキトが王子で双子の兄って事だよ。あとはさんざん匂わせていたクリスの正体かな?」


 そんな今更知っている事を語られてもな……最後の一つはともかくとして。


「お前の正体? さっき言ってた聖女ってことか?」

「教えないよ、ネタバレになっちゃうからね」

「そういう思わせぶりな態度を謝罪に来たんじゃないのかよ」

「痛いところをつくね……けど大丈夫、どうせすぐにわかるからさ」


 全く、何が謝罪に来ただよこの女は。結局俺をおちょくっているだけじゃないか。


「……この話が謝罪の手土産か?」

「だね」


 それからクリスは立ち上がって、乾くように広げていた上着を羽織り始めた。


「さて、そろそろ帰らないと。きっとミリアはあたしの顔を見たら怒り狂うだろうからね」

「そりゃ恨まれるだろうな」


 ミリアの反応が容易に想像つく。何ですか兄さん何でこの女がこんなところにいるんですか私が寝ている横で何してたんですか不潔です、不潔! みたいな。


「そういう訳じゃないんだけどね……」


 なんて思っていたが、クリスが想像しているのはどうやら別の反応のようだ。伏し目がちに、それから申し訳無さそうに、まだ眠るミリアを見下ろしていた。なるほどこれが。


「『ネタバレ』になるって奴か」

「御名答。やっぱり君は頭いいよね」


 それから彼女は赤い折り畳み傘を広げ、雨足の弱まった洞穴の外へと一歩踏み出そうとしていた。


「またね、アキト」


 またね、か。


 どうやらこの女との付き合いは、まだ続いていくらしい。嫌だなそれは、また不幸になるんだろうなって言葉を言い訳のように思い浮かべても。




 少しだけ緩んだ頬が、戻ってくれる事はなかった。

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