SAVE.203:壊れ始めた心で


 約束は守れなかった。『また』なんて曖昧で些細なそれが、果たされる事はもうない。


 シャロン=アズールライトの死はすぐに報じられる事となった。ルーク殿下の婚約者の座を奪われた逆恨みとして、ミリアを拐かしたのだと。そしてその場に居合わせたルーク殿下その人によって事件の幕が下ろされたと。


 なぜ姉さんは神託とは――ゲームのシナリオとは違い、自分の死を大幅に早めたのか。ルーク殿下のルートでは、彼女が処刑されるのはダンスパーティも行軍演習も終わった後の出来事だったのに。


 その理由はすぐにわかった。今回の一件はあくまで、シャロン=アズールライト個人の凶行として処理された。だからアズールライト家には、国家の要職を解くという処罰で済んだ。


 両親の処刑という最悪のシナリオを、彼女は回避したのだ。たった一つ、その生命を犠牲にして。





 ――納得出来る訳がない。




 違うだろう、そうじゃないだろう。変えた未来の先に姉さんがいないと無意味じゃないか。だけどそれをぶつけるべき相手はもう、この世界にはいないから。


 俺には、もう、何もない。


 何も出来ないんだ。


 





 あれからどれぐらい経っただろうか。あの日から俺は学園にはもう足を運んでいなかった。寮の自室に引きこもって時間だけを浪費している。


 生徒会だとか王族としての義務だとか、俺にはもう全てがどうでも良かった。いや、始めから俺には無関係な事だったじゃないか。


 だって俺は、まだ――アキト=アズールライトなのだから。


 その全部を覚えているんだ。孤児院から拾われた時の困惑も、姉貴なんて呼び始めた反抗心も、クリスと決闘をした時の剣の音も、姉貴を婚約破棄から救えた時の喜びも、何度も突きつけられた血の匂いも、クリスの服装で赤くなった頬の熱さも、触れた彼女の唇の柔らかさも。


 ――どうして忘れていたのだろう。


 あの夜クリスが持ちかけてきた些細な決闘を、どうして今になって思い出したのだろう。どうして死んでなんかいないのに、俺はやり直していたのだろう。


 初めに漏れたのは嗚咽だった。声にならない声が木霊してようやく、頬を伝った涙の感触に気づいた。


 俺は死んでやり直したんじゃない。


 あの時だって、姉さんが死んだ時でさえそうなんだ。死んでなんていない、俺の命が尽きる前に彼女がやり直してくれていたんだ。


 俺がやり直せたのは、記憶を引き継げたのは――いつだってクリスが死ぬ前にやり直してくれたからだ。俺の意識がある時にだけ、記憶は続いていたんだ。


 夜空の下でキスをした時だって、俺が眠ってしまったせいだ。もしもずっと起きていたら、違った未来があったかも知れない。


 俺はずっと前から、クリスに救われていたんだ。その法則を知っていたとか、知らなかったとかは関係ない。


 アキト=アズールライトという存在は、彼女がいないと成り立たなかったんだ。


 なら、今の俺は何だ。


 もう彼女は、俺の知っているクリス=オブライエンは世界のどこにもいないのだから。


 ここに一人残された俺は、何なんだ? 何者でもないくせに、何のために生きているんだ?


 わからない、わからないんだ。教えてくれよ、誰か。何で俺はこんな場所に一人で居なくちゃいけないんだよ。


 なぁ、誰か。


「アキト、入るね」


 扉を叩く音に遅れて、いつもの声が聞こえてきた。彼女は俺の返事を待たずして部屋に入ると、机の上に置かれたままの昼食に目をやった。 


「少しは食べられるようになったね」


 一口だけ齧ったパンを見るなり、クリスティア=フォン=ハウンゼンは微笑んだ。それから俺が寝ているベッドの端に腰を下ろし、また何かを喋り始める。


「昨日さ、ダンスパーティがあったんだ。ミリアが白いドレスを着てさ、それでもう大騒ぎ。そのまま兄さんと踊って、二人の仲は公然のものになったよ」


 こうやって学園であったことを伝えるのが、彼女の日課になっていた。ああ、もうそんな時期だったか。


「あのドレス、僕が着る予定って聞いてたんだけどな。参っちゃうよね、二人共横暴でさ。取り上げられちゃったよ」


 ――あの時は楽しかった。


 姉さんのダンスレッスンに付き合わされて、それからルーク殿下に頼み事なんかされて。そのままクリスとダンテとミリアを尾行して、クリスの格好に顔なんか赤くして。それからあんなに怒った殿下の顔を、俺は初めて見たんだっけ。


 今は本当に、そんな事があったなんて信じられないくらいに何もなくて。


「……ここに来る前に、アズールライト家に行ったんだ。この間の一件を、兄さんの代わりに謝りたくってさ」


 自分の名前を呼ばれた気がして、一瞬だけ体が震える。そんな反応でも十分だったのか、彼女がまた辛そうに微笑んで。


「追い返されちゃった。娘を殺した奴の妹の顔なんて見たくないって……当然だよね、僕は何を期待してたんだろうな。部屋に上がってくれなんて言われるとでも思ったのかな」


 語られた言葉が胸に刺さる。その罪を背負っているのは俺も同じなのだから。俺を家族だと言ってくれた人はもう、俺を歓迎なんかしてくれない。


「……これからどうしよっか」


 天井を見上げながら、彼女はそんな台詞を呟いた。


「もうこの際だからさ、二人で逃げたしたりしちゃう? 幸い二人共腕は立つからさ、流れの傭兵なんて格好良いかもしれないね」


 夢みたいな話を彼女は語る。


「アスフェリアもエルディニアも関係ない、北か西の方に行って……小さい部屋を借りてさ。ただのアキトとクリスとして暮らしたり」


 何のしがらみもなくそんな暮らしが出来たなら、それは幸せの形の一つなのだろう。辛い事から逃げ出して、お互いがいる喜びだけを噛み締めて生きていけたら。


「そんな未来を君が選ぶなら……僕はついていくよ」


 無理だ。


 そんな日常はあり得ない、許されて良い筈がない。だって俺は姉さんを救えなかった……いや違う、救おうとすらしなかったんだ。




 ――ああ、そうか。


 ここがそんな未来なんだ。




 この世界が神託だなんて馬鹿げた事に支配されている事を知っていたくせに、俺は何もしてこなかった。隣に彼女がいる事だけが嬉しくて、それ以外には目も向けないで。


「だからさ」


 涙の落ちる音が聞こえた。


「何か言ってよ……君が望むのなら、僕は何だって出来るのだから」


 だけど、俺はそれを拭わない。俺が願う事なんて、たった一つしかないのだから。




「……だったら、帰してくれよ」




 本当は俺は、何もやり直したくなんてないんだ。


 クリス=オブライエンが最後にやり直した場所に戻って、物語を続けたいんだ。


 会いたいんだ、彼女に。ここにいるクリスティア=フォン=ハウンゼンなんていう紛い物なんかじゃなくて。


「あの時、あの場所に、あの世界に! 俺を連れてってくれよ!」


 伝えたい事があったんだ。どこにでもあるありふれた想いを伝えようと思っていたんだ。だけど俺はこんな場所にまで来てしまった。 


「その話はわからないって」

「だったら!」


 両手で顔を覆いながら、声の限り叫んだ。


「だったら、なんでクリスの真似が出来るんだよ!」


 いつからだろうか。


 彼女が俺の知っているクリスに近づき初めたのは。自分の事を僕なんて呼んで、学園では男子の制服なんかを着て。


 わかっている、わかっていたんだ。それは始めからだったなんて。


「なぁクリス……本当は覚えてるんだよな?」


 記憶喪失なんて嘘なんだろう?


「俺たちがやり直した事を、二人で姉さんを救った事を。ダンテを尾けた事だってあったよな。あの時のお前はドレスなんか着てさ、本当に可愛くて」


 覚えてるだろ、忘れてないだろ? 過ごした時間を、全部。


「ここにいるのは、俺がずっと――」


 ここにいて欲しいと願う君に、ゆっくりと手を伸ばす。その体温に触れたくて、その感触を確かめたくて。


 だけど、何も掴めなくて。


「僕、今日は帰るね」


 彼女は立ち上がると、机に置きっぱなしだった昼食のトレイを持ち上げる。


「ねぇアキト……大切な人がいなくなる辛さだけは、ちゃんとわかっているつもりだからさ」


 それから俺に背を向けて、そんな事を言い始めた。


「誰のどんな言葉も届かないって知っているよ。だけど、だけどさ……」


 彼女の声が震えているのがわかった。


「また一緒に……君と行けたら良いなってあたしは思うんだ」


 その背中が遠ざかる。きっとこの交わらない距離感が、本当の俺と彼女の位置で。俺はクリスと、始めから。




「『学校』にさ」




 出会ってなんていなかったんだ。

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