SAVE.201:そして世界は狂い始める①

「アキト、ねぇアキト」


 体を誰かに揺らされる。ゆっくりと目を開ければ、そこにいたのはクリスだった。


「あ、ああ……おはようクリス」


 まだ眠気の残る瞼を擦りながら、まじまじと彼女の顔を見つめる。女性にしては短めの赤毛に、白いブレザーとズボンの男子の制服、それからトレードマークの腰から提げた上品な細剣。小柄な体格もなんのその、文武両道を地で行くアスフェリアの王女様、クリスティア=フォン=ハウンゼンの姿があった。


「おはようクリス、じゃないよ全く。授業なんてとっくに終わって……君は一体いつになったら真面目の三文字を覚えるんだい?」


 ため息をつきながら小言を漏らすクリスの顔をじっと見つめる。


「なんだよ、人の顔を見つめちゃってさ」

「いや、クリスがいるなって」


 素直な言葉を呟く。


「そりゃあいるよ。僕は君のお目付け役なんだからね」

「婚約者だろ?」

「それもあるけど」


 にやけた顔で事実を突きつければ、彼女は照れ隠しに頬をふくらませる。


 あれからもう、十一年が経っていた。


 記憶喪失に陥ったクリスだったが、幸か不幸か政治的にも俺達の人生にも大きな影響は無かった。六歳児の記憶が無くなった所で、大人にとってみれば些細な事だ。一部の教育はやり直しになってしまったらしいが、たったそれだけ。


 だけど俺にとっては『それだけの事』で済む話では無かった。クリスが記憶を失ったという事は、もしかしたら以前の出来事を――共に学園で過ごした時間を――覚えているかもしれないという可能性が潰えたという事なのだから。


 だけどそれで構わない。またこの学園に俺がいて、目の前に彼女がいる。おまけに婚約者なんだ、もう何も望まない。


 やり直せば良いんだ。彼女との時間を、また新しい日常を。大丈夫、繰り返すことには慣れているから。


「それよりアキト、こんな所に居て良いのかい?」

「それは……」


 詰め寄ってくるクリスに、思わず顔を背けてしまう。クリスが何を言いたいのか俺にはもうわかっている。


「ミリアの事だろ?」


 ミリア。平民のミリアじゃない、俺の双子の妹のミリア=E=ヴァーミリオンだ。あのミリアとは別人だと思い込もうとした事もあったが、それでも彼女の姿は日に日に記憶の中の彼女に近づいていった。その度に俺は距離を取って、目を背けようとし続けたけれど――限界はすぐにやって来た。


「そうだよ、翠の聖女様の事さ」


 クリスとの出会いから数年後、彼女は聖光教会から翠の聖女として認定されてしまった。だから俺も認める以外の選択肢は無かった……あのミリアは間違いなく俺の双子の妹だったのだと。


「なんだってこんな半端な時期に編入するんだよ……」


 本来なら俺は留学としてこの学園に、ミリアはエルディニア王国内の学園に通うという予定になっていた。だが彼女は少し遅れた時期にわざわざ編入して来る事になった。


 こんなのは、まるで――。


「なんでって、それは」


 クリスは言葉を詰まらせてから、少しだけ表情を固くする。それからわざとらしく首をひねって、小さく口角を上げてから。


「……今から聞きに行ったらどうだい? 妹なんだし」


 当然の提案かもしれないが、今度は俺が言葉を詰まらせる番だった。ミリアとの仲が決して悪いわけではない、ないのだが疎遠という方が正しいだろう。同じ場所で育ったとしても、受けてきた教育どころか食事の時間さえも違う。それに何よりも、俺がミリアを避け続けているんだ。


「そっちだって兄妹仲は良い方じゃないだろ?」

「それはまぁ、そうだけど」


 クリスに意趣返しをすれば、彼女はわざとらしくそっぽを向いた。前回までとは違い、クリスとルーク殿下の関係は冷えていた。思えば彼女がルーク殿下と仲が良かったのは、本当の兄妹だったからなのだろう。だが今回は二人は互いを避けるように行動している。


「なぁクリス、ミリアの迎えは明日にしないか? ほら、今日は人混みが凄いだろうし初日から家族が出張るのも良くないだろ」

「……まぁ、君がそれでいいならいいけれど」


 世界が変わってもう十一年。


 気がつけば俺は小国の王子様で、クリスはその婚約者。平民だったはずのミリアも王女様になって。今この学園にいる事は同じでも、辿ってきた道筋はあまりにも別物だった。


 だけど一番変わった事は、アキト=アズールライトにとって最大の変化は。




「全く、お二人はいつまでそこで油を売っているつもりかしら?」




 凛とした彼女の声に思わず背筋が伸びてしまう。


「いやぁ、今からミリアの所に行こうと相談しててさ。な、クリス?」

「う、うん……これから僕達も行こうってさ」


 クリスと目線を合わせながら、ありもしない話をでっち上げる。それでも彼女は信じてくれずに、腕組をしながら俺に顔を近づけて。


「本当にぃ?」

「いやだなぁ、本当だって」


史上最高の聖女、社交界に咲く大輪の花、美しき月の化身。彼女を褒め称える美辞麗句は否が応でも耳にしてきた。


 今代の『蒼の聖女』にて、ルーク=フォン=ハウンゼンの婚約者、シャロン=アズールライトは――かつて俺に居場所を与えてくれた義姉は――アキト=E=ヴァーミリオンにとって、少しだけ親交のある。




「……シャロン先輩」




 他人だった。



 




 景気の良い足音を立てながら廊下を進んでいく姉貴。本当は姉貴だなんて呼ぶ資格は俺にはないのだが、どうしても今までの癖が抜けずに心のなかではずっとそう呼び続けていた。


「あれ、ミリアの教室に行くんじゃないの?」

「大事な話があるのだから、とっくに生徒会室に呼び出してるわよ」


 言われてみればそうするのが当然なのだが、生徒会室という単語に胸を痛める人間が約一名。


「うっ」

「クリスティア?」


 姉貴が立ち止まり振り向けば、クリスは怯えたかのように身を縮める。


「ということはルーク兄さんも……」

「当然いるわよ」


 ちなみに姉貴は副会長、ルーク殿下が生徒会長という布陣は変わらない。


「この際だから、二人に言っておきますけれど」


 振り向くでは飽き足らず、姉貴は腰に手を当て振り返った。その真剣な眼差しに俺とクリスは思わず背筋を整えた。


「お二人は国は違えど民を率いる義務を負った王族なのよ? お、う、ぞ、く」

「はい」


 右手の人差し指を揺らしながら、常々言われて来た単語を強調される。姉貴だけじゃない、方々から俺は王族らしくないと言われ続けて来たのだ。


「本来であれば公爵令嬢の私ですらこんな言葉遣いでお説教すら出来ないような立場なの。それでも言わせてもらうのは何故かわかるかしら?」

「……俺が不甲斐ないからです」


 節目で靴のつま先を見つめながら、これまた身に沁みている言葉を零す。


 わかっている、姉貴の言う通り俺はアキト=E=ヴァーミリオンとして生きていくべきのだと。だが俺の心はまだ、それを受け入れられていなかった。


「わかっているなら、多少兄妹仲がよろしくなくても率先して会いに行く。わかったかしら?」

「……はぁい」

「はいは伸ばさない!」


 不満の芽を摘むかのように、不貞腐れた返事を批難する姉貴。


「全く、これでは次の生徒会長が務まるのか不安で仕方ないわね」


 ため息を漏らしながら、唐突にそんな事を言い出す姉貴。


「え、俺?」


 ルーク殿下の後任が俺だなんて話は始めて聞いたのだが。


「アキト殿下、人の話を聞いていたのかしら? あなたは将来国王として民を率いるのだから、当然この学園の生徒の代表を務めるぐらい訳ないわよね?」


 確かにこの学園は身分が高い人間が生徒会長を務めるのが伝統なので、俺が次の生徒会長というのも不思議ではない……いや隣国の留学生が一番上なのは良いのか?


「クリスティアも副会長よ」

「え、僕も?」


 一緒に説教を食らっていたクリスが目を丸くして驚くと、姉貴は底意地の悪そうな笑顔で詰め寄る。


「良かったわねクリスティア、国王陛下を支えるという大役がどれだけ大変か学生のうちから学べるんですもの」

「そ、それはアキトの側にいられるのは嬉しいけど」


 赤くした頬を人差し指で掻きながら、嬉しい事を言ってくれるクリス。まぁそんな様子を見せられている姉貴は呆れたようにため息をついていたが。


「……二人の仲が宜しいのは大変結構な事だけど、公私混同は無しよ。いいわね?」

「はい」


 反省を活かし短い『はい』を返せば、姉貴は満足そうに深く頷く。


「うん、よろしい」


 そのまま俺達に背を向けながら、まっすぐと生徒会室へと向かう姉貴。少しだけ襟を正した俺達は、行儀良くその後ろをついていく。


「本当に……頼むわよ、二人共」


 ぽつりと、どこか悲しげな言葉を姉貴が漏らす。その言葉は何故か、さっきまでの説教よりもずっと重くて……俺はクリスと目を合わせてから、無言で小さく頷いた。







 生徒会室の扉を姉貴が叩けば、抑揚のない殿下の声が返ってきた。姉貴は静かに扉を開け、深々と頭を下げる。


「殿下、お二人を連れて参りました」


 それに倣って俺とクリスも頭を下げる。居心地の悪い緊張感だけがこの部屋に漂っている。


「あ、兄さん」


 ミリアの声に気づいて、ゆっくりと顔を上げる。


「あぁ、その……久しぶりだな」


 そこにいたのは、俺の妹であるはずだった。だけどこの学園の制服に身を包み、ためらいがちな笑顔を浮かべる彼女の姿は――俺の記憶の中にある、あのミリアのものでしかなかった。


「そう、ですね……お久しぶりです」


 彼女とこうやって膝を突き合わせるのはいつ以来だろうか。それが思い出せないくらいには、彼女を避け続けていたのだ。


「二人共、座って」


 殿下に促され応接用のソファーに俺とクリスは腰を下ろす。まだ拭えない居心地の悪さを拭うかのように、わざとらしい咳払いをしてから俺は本題を切り出した。


「その、ルーク殿下……大事な話って何ですか?」

「ああ、『翠の聖女』の認定式についてだね」


 認定式という単語が俺の肩を小さく震わせた。まだ記憶の中にあるのは、殿下に婚約破棄をされ屈辱に耐える姉貴の姿だった。思わず横目で姉貴の様子を伺ったが、彼女は何食わぬ顔で紅茶の準備を始めていた。


「……当然やりますよね」


 不躾に首の後ろを押さえながら、諦めたような返事が口をつく。


「隣国から聖女様を引き受けるのだから当然さ。まぁ僕も……まさか在学中に二回目をやるとは思ってもいなかったけどね」


 皮肉っぽい笑顔を浮かべながら、殿下がそんな事を言い出す。一回目とは言うまでもなく『蒼の聖女』の事である。


「それで、アキト殿下とクリスにも主催側として手伝って貰うからね。はいこれ、認定式の資料」


 殿下が用意していた紙束を一部づつ俺達に手渡した。目を通せば認定式までの日程や当日の簡単な流れが記載されている。俺達の役目は……言葉を選ばずに言えば壇上に立つ賑やかしだ。翠の聖女の箔付けのため、身分の高い人間を並べておこうというだけの話だ。


 ただ資料の中に気になった点が二つ。


「ミリアの指導は……シャロン先輩がやるんですね」


 事前の準備の項目にはミリアの指導役を姉貴が務める事がしっかりと記載されていた。


「ああ、経験者のシャロンが適任だからね」


 姉貴は静かに頭を下げる。その様子を見て俺は少しだけ安心する。


 もう一度あの認定式を行うのかと、ここ最近はずっと不安だった。もしかするとあの最悪の光景をもう一度見せられるのかと思っていたせいだ。しかしそれを回避するために俺が取った行動は『姉貴に堂々とミリアを指導させる事』……となれば今回も殿下のお墨付きでミリアの指導をするなら、その心配は無いだろう。


 それにミリアもあの時とは違い一国の姫君という立場だ、国家間の問題に発展しかねないおかしな事は起きないだろう。


「他に質問はあるかな」

「そういえば……ダンテ殿下はいないんですね」


 ダンテという名前に、ミリアの肩が一瞬だけ小さく動いた。だがルーク殿下は表情一つ変えずに笑顔で疑問に答えてくれた。


「彼にはちょっと別の用事があってね、当日は出られないんだ。エルディニアの王族を出張らせるくせにアスフェリア側が片手落ちというのは礼を失しているけれど……すまない、協力してくれると助かる」

「ああいえ、疑問に思っただけですから」


 頭を下げる殿下に思わずたじろぐ。殿下の言葉通りではあるかもしれないが、別にダンテが居ない事を責めたかった訳ではない。


「ではこの日程で、ですね……行こうかクリス」

「だね」


 ばつの悪さをどうにかしたくて、話を無理やり切り上げる。察してくれた殿下が小さく頭を下げてくれたので立ち上がるが、意外にも不満を口にしたのは姉貴だった。


「何よ、紅茶ぐらい飲んで行きなさいよ……折角淹れたんだから」

「ああ、いや」


 立ち上がって周囲を見回す。前回と変わらない生徒会室、姉貴とルーク殿下と、まぁミリアもいるのだが。


「ごゆっくり」


 姉貴の殿下への想いが変わらないのなら、ゆっくりとお茶をする時間はあった方が良いだろう。それに俺もこんな所に居るよりもクリスと過ごしていたいのだから。


 どうせ認定式だって、貰った資料をなぞるだけの話だ。




 何も起きない、起きるはずはない――そう思ってしまったんだ。

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