SAVE.EXTRA:青い、蒼い空のような②

 彼女と、姉さんと初めて会った日の事をよく覚えている。それはただのアキトがアズールライトの姓を戴いた日なのだから。薄汚れた孤児が貴族の養子になり家督を継ぐ権利さえ与えられるという、有り得ない特例を前にして俺が抱いた感想は忘れてはいない。


 失敗した、だ。


 あの一件以来、孤児院で年相応の子供として過ごしていた俺はある日院長から別室に呼び出され、一つの試験を受けさせられた。院長が言うには『八割正解していれば合格する』というものだった。だから俺は、綺麗に七割だけ正解してみせた。本当は全て答えられるというのに手を抜いたんだ。


 カイゼル=アズールライトが血相を変えてやって来たのは明くる日の昼食前の事だった。いつものように床の雑巾がけしていた俺を抱き上げ、開口一番満面の笑みでこう言った。


「この子が……君があの宮廷書記官の試験を解いた神童か!」


 ――失敗した。


 本来それは子供ならば問題文すら理解できない試験だった。貴族の子弟が何年も家庭教師に知識を詰め込まれてようやく、八割正解できるような難問。それを七割も解いてしまうのはあまりに異常だった。気付くべきだったと後悔した時にはもう遅く、俺は義父が乗って来た馬車に詰め込まれていた。


 到着したアズールライト家の屋敷は、孤児院とは比べ物にならない綺羅びやかな世界だった。調度品の一つをとっても、本当に孤児院と同じ街にあるのかと疑いたくなるような、そんな世界だ。呆然としていた俺の前に現れたのが、豪華なドレスに身を包んでいたシャロンだった。


「ふぅん、あなたがアキト……思ったよりパッとしないわね」


 それが当時十歳の義姉に掛けられた最初の一言だった。貴族とはこういうものなのか思いながらも俺は知りうる限りの礼節をもって挨拶を返した。


「失礼しましたシャロン様……本日よりアズールライト家にお世話になります、アキトと申します」


 胸に手を当て深々とお辞儀をする。それを見た彼女は驚いて目を見開いた。ただその瞳の奥に喜びの色は無かった。


「……どこで覚えてきたのよ、そんな丁寧な挨拶」

「カイゼル様が孤児院に寄贈頂いた本からです、それを読み学びました」

「ふうん、字は読めるのね……それに内容も理解できると」


 彼女は納得したのか顎に手を当てながら小さく頷き、素直な感想を漏らした。


「頭いいのね」

「それは……」


 そこで俺は言い淀んだ。宮廷書記官の試験を解けるぐらいだ、客観的には良いのだろう。だが喉に引っかかるのは孤児院での一件があったせいだ。


 言葉を続けるべきか迷った。冷たい眼差しとともにつけられた渾名がまだ頭に残っていた。


「ええ、そうですね……そのせいで化け物なんて呼ばれましたが」


 だが俺は言葉を続けた。乗り越えたわけじゃない、ただ自嘲したかっただけの話だ。貴族様、あんたが面白がって連れてきたのはそんな奴だと、そう教えてやりたかった。


「……随分な渾名ね」


 案の定彼女は眉を顰め、品定めするように俺を睨んだ。


「ええ、麦の値段をふっかっけて来た商人に、それは絶対に有り得ないと思いつく限りの理由を並べ立てて追い返したらそんな渾名になりましたよ」


 口元を歪めながら皮肉っぽい笑みを作った。それを見た彼女はさらに距離を――詰めてきた。


「へぇ、やるじゃない」


 彼女も俺と似たような笑みを浮かべていた。だがその心の中は俺と正反対だっただろう。俺は自分を否定したかった。今日ここに来た事だって、失敗だと思っていたぐらいだ。だが彼女はそんな俺を肯定した。たった一言で、俺と同じ表情をして。


「……それだけ、でしょうか」

「それだけだけど?」

「もっと……あるでしょう、年端も行かないガキのくせにとか、薄気味悪いとか、自分達とは違うとか!」


 語気が徐々に強くなった。自分に向けられ、心の中で淀み続けていたいくつかの台詞が感情とともに溢れていた。そんな俺のみっともない様子を見ていた彼女は少しだけ目を丸くしてから、呆れたようなため息をついた。


「馬鹿ねあなたは……私を誰だと思ってるのかしら?」


 そして彼女は笑ってみせた。役者のように、演じるように、まるで舞台を彩る悪役のように。強気で高飛車で下々の者は歯牙にもかけない――その心とは裏腹に。


「私はシャロン=アズールライト。第一王子ルーク=フォン=ハウンゼン殿下の婚約者にして『蒼の聖女』よ?」


 それから彼女は俺の胸を小さく叩いた。ほんの少しだけ、その心に相応しい優しい微笑みを浮かべながら。


「そしてあなたはアキト=アズールライト。大人顔負け? 人とは違う? 上等じゃないの……じゃないと私に釣り合わないわ。でしょう?」


 高らかに彼女は宣言する、ただのアキトはもういないと。


「俺は」


 どうしようもない馬鹿だった、恐れていただけだった。自分の居場所が無くなる事が、自分が受け入れられない事が。ただ一人ぼっちにになる事だけが、どうしようもなく怖かった。


 それを彼女は笑い飛ばしてくれた。冗談みたいな役を演じて、優しい心を隠しながら。


「俺は、ここにいても……良いんですか?」


 気がつけば視界が少し滲んでいた。ずっと誰かに聞きたかった言葉が、その瞬間自然と漏れた。求めていたのは知識でも眠れる場所でもましてや貴族の地位でも無かった。


 ただ誰かに、頷いて欲しかった。ここにいてもいいと、ここにいて欲しいと。


 たったそれだけの事を、俺はたまらなく望んでいたんだ。


「良いに決まってるじゃないの……あなたはもう、私の弟なんだから」


 彼女は俺の手を取りながら、当然のように頷いた。それがただ、嬉しかった。


「ありがとうございます、シャロン様」

「……その呼び方は堅苦しいわね」


 彼女は照れたように口を尖らせながら、俺の手からまだ小さな両手を離した。


「お姉様、あたりでしょうか」

「……合ってはいるけど、どうもあなたには似合わないわね」


 目頭を指で擦りながらそう言えば、彼女は首を少しひねる。


「姉さん、とかどうですか?」

「ふむ……それでいいでしょう。それに敬語も禁止、良いわね?」

「わかりました、姉さん」

「わかりました……?」

「……わかったよ、姉さん」

「うんっ、素直でよろしい」


 ようやく納得してくれたのか、首を縦に振る姉さん。


「けどアキト、家族だからってあんまり乱暴な言葉遣いは許さないわよ? 例えば姉貴なんて呼んだ日には、私だってあなたの事を愚弟って呼んであげるんだから」

「呼ばないよ、そんな風には」


 俺に人差し指を突き付けながら、彼女はそんな事を言い出す。悲しいかなそんな日はやってくるが、それでも俺は生涯忘れないだろう。


「行くわよアキト……まずは屋敷を案内しなくっちゃ!」



 

 ――青い、蒼い空のような、大切な彼女の笑顔を。

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