聞こえる家の声


 一度意識してしまうと、どうしても人は、それをすぐに拭い捨てられないものだ。

 ちょっとした違和感、些細な引っ掛かり、ほんの少しの気付き。


 そういう冷静な思考の外側にある、いわば本能的な部分の察知というのは、案外馬鹿にならないし、それをキッチリ理解に落とし込めると、世界の見え方が少しだけ変わる。

 そういった経験はきっと、十年二十年と生きていれば、一度くらいはあるもので、僕にとっては正しくそれが、今この瞬間に当てはまる現象と言えた。


 言葉で聞いていた以上に、頭でサラッと理解していた以上に、ここがかつて、自身の居場所であったという事実を認める。

 そうするだけで、この家の感じ方──とでも呼ぶべき感覚が、嫌に変わったのが分かった。


 既視感が強まる──さっきまで、何とも思わずに歩いていた廊下や玄関が、不思議と見覚えのあるものに見えてくる。

 先程、当たり前のように座ってしまったロッキングチェアなんて、もうお気に入りの椅子であると、直感的に分かってしまうくらいだ。


 それに──それに、何よりも。

 


『はーい、そろそろおゆはんの時間ですよ。ほら、起きてください、先輩』

『はいよ……いい加減、先輩ってのやめたら? 互いにもう、卒業したんだし』


 聞き覚えのある、二人分の声。多分知っている、男女の声。

 デジャヴ感を覚える会話──した記憶はないのに、片方が僕であると、何の確証もなく思う。


『そ、そのぉ……せ、先輩。お、お風呂とか、一緒に入りませんか……?』

『ちょっとマジな感じで誘うのやめない? 断るのも引き受けるのも恥ずかしくなってきちゃうだろ』

『せっ、先輩がいつまで経っても手を出さないヘタレなのが悪いんじゃないですか!?』

『そういう明け透けなディスり方をするんじゃない! はしたないでしょうが……!』


 思ってたよりアホな会話に頭を叩かれて眩暈がする。あれ!? 僕が思ってたよりアホな記憶しかここ、無いんじゃないか!?

 かなり身に覚えがあるタイプの追い詰められ方と情けなさに、異常な共感と記憶の頭の揺さぶられ方をして、思わず目が死んだ。


 こういうのって、もうちょっとこう……かなり意味深な会話だったりが聞こえてくるものなんじゃないの? いや、そりゃ前世の僕でも、僕であることに変わりないのであれば、正直そんな頭の良い会話が出来るとは思えないのは、全く以てその通りであるのだが……。

 おい! 幻聴だとしても、もうちょっとくらい気合入れてくれ!


『うぅん、今日の会話は返答がイマイチだったな……あそこはこう返した方が良かったかもしれない……』

『……先輩って、わたしが思ってたより、ずっとコミュ障ですよね』

『あの、ちょっと? 寝る前までディスってくるのはやめない? 傷ついちゃったらどうするんだ』

『えへへ、その時はわたしが慰めてあげますからねっ』

『チッ』

『かなり真剣な舌打ちした!?』


 違うんだよね。そういう会話の反省とかするタイプの気合じゃなくって……。

 せめて聞かせるならもっとまともな会話を聞かせろって言ってんの。


 何で僕は、頭のおかしい女に連れ来られた家で、馬鹿の会話を延々と聞かされなきゃならないんだ。

 これもう一種の罰ゲームだろ……。


 現象としては、それこそ幽霊屋敷さながらのそれであるのだが、内容があまりにも残念過ぎて、怯えることすら勿体ない。

 けれども、そんな僕の思いとは逆に、記憶と感情だけが叩かれていた。


 い、嫌だ……。

 仮にこれらが全てかつてあった会話であり、片方が僕であったのだとすれば、なおさらこんな間抜けな思い出した方は嫌すぎる……。


 フラフラッとした足取りで、思わずソファに座り込む。その間も、色々な声だけが響いているようだった。

 目を閉じれば、その様子すら目の裏に浮かぶ始末で、正直自分が狂ったのではないかと、ちょっと心配になってくる。


 だってこれ、傍から見たらもう、ただの薬キメちゃってるヤバい人のそれだもん……。

 でも、覚えはあるんだよなあ……。


 幻の如く揺れる金色の髪に、亜麻色の髪がダブる。

 透き通った琥珀色の瞳が、はしばみ色の瞳と重なる。

 深雪のような美しい肌に、華奢な身体。


 見える光景に、聞こえる声に、覚えがある。知っている。間違いなく、僕が経験したことであるのだと、分かってしまう。

 しかし、そうであるのなら。僕が経験したことであり、この記憶が僕の物であるというのなら。


 僕は──僕は、誰なんだ?

 本当に、凪宇良邑楽であると、そう言って良いのだろうか?


 思考の渦に落ち始める──瞬間、


「お待たせ~! ね、邑楽くん。髪、乾かしてもらっても良い?」


 どーんっと勢いよくぶつかってきて、背中から覆いかぶさってきた神騙に、ポーンと思考をフッ飛ばされた。

 心底楽しそうに笑う神騙に、毒気を抜かれる。


「はぁ……分かったよ、そこに座れ」

「あ、あれ? 良いの?」

「何で頼んできたそっちが動揺してたんだ……良いんだよ、それに確かめたいこともあるし」

「?」


 疑問符を弾き出しながらも、行儀よく座る神騙。

 その長い亜麻色の髪を、僕は慎重に手に取った。


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