宛先不明の乗車券
それから、ピッタリ一時間後。
すっかり学校への支度も整えた僕は、いつもよりかなり早めに家を出て、やはり
というか、例の喫茶店である。老齢のマスターと、たった一人のアルバイトのみで経営している、小さな喫茶店。
まだ時間もあれば、やることもない。であれば、暇潰しに行かないかと、神騙に誘われた形だった。
お前は喫茶店を何だと思ってるんだ……とは思ったが、殊の外マスターは機嫌良く迎えてくれたのだった。
こんなド平日の、こんな早朝から営業しているだなんて、マスターさんは随分と暇人らしい。
いや、あるいは暇人だからこそ、このような喫茶店を営んでいるのかもしれないが──お世辞にも、此処は繁盛しやすそうな場所ではない。
それこそ、僕のような新参者では、中々見つけられないような立地にあるし、そもいつ来てみても、僕ら以外のお客はほとんど見かけたことがなかった。
ねぇ、本当に大丈夫なの? 何かもう、冷静に考えれば考えるほど、この喫茶店の非実在性が上がっていくんだけど……。
もしかして、普通の人間には辿り着けない、あの世の喫茶店だったりするんじゃない?
地下にある図書館だったり、やたらと空き教室が多い学校があったりと、ワンチャンホラー小説に出て来てもおかしくないものが、身近にありすぎるせいで、どうしてもそういう方向に頭を働かせてしまう。
思ってもみれば、この喫茶店にだって、基本的に神騙に案内されなければ、辿り着くのも一苦労なのだ。
この街は、どうにも不思議というか、変わっているな──なんてことを、最近は良く思う。
それを悟ったのか、あるいは僕以外の、他所の街から来た人間もそうであるのか、神騙は、
「癖がある街だよね。でも、居心地が良いと思わない?」
なんて、ふわりと笑って言うのだった。
神騙からすれば、そりゃ生まれ育った街なのだから、居心地が悪いわけがないだろう……山奥の村と違って、妙な因習がある訳でもないんだしな。
とはいえ、まあ、確かに居心地の悪さは僕も感じてはいなかった──いいや、もしかしたらそれは、単純に藍本家に対する居心地の悪さが、上回っているだけなのかもしれないのだが。
どんなものでも、隣にあるものの方が強烈であれば、そちらに塗り潰されるものだ。
しかし、それをひっくるめた上で、居心地の良し悪しを問うのであれば、やはり良い方ではあると、そう感じてはいるのだった。
いや、良いというか、懐かしいというか……。
ストンと心にちょうど良く収まるのだった。
ここのコーヒーも、その一つと言えるだろう。
生憎、好んで飲むようなものではなかったはずなのに、あの日神騙に連れられてから、ここのコーヒーだけは良く飲むようになった。
試しに一度、ココアを頼んだこともあったのだが、結局はコーヒーに落ち着いてしまったのだから、さもありなんといったところである。
「どうですかな? 今朝の一杯は。お気に召しましたかな?」
「ん、ええ、詳しくはないんで、あまり深いことは言えないですけど、いつも通り美味しいですよ」
「それは重畳。顧客に逃げられてしまっては、こちらとしても困りますからな」
「売上なんて気にしてないくせに、良く言いますね……」
小さな喫茶店の、窓際のソファ席。初めて来た時から、今日に至るまで、毎回座らせてもらっている固定席。
神騙が席を外している間に、こちらにやってきたマスターが、楽し気に髭を揺らす。
この人、何か僕が一人の時に限って、やたらと話しかけてくるんだよな……。
別に嫌という訳ではないのだが、正直言って、この年齢の人間と話すこと自体、僕としては稀有なので、毎回かなりの手探りだ。
いつか特大の地雷とか踏みそうで、戦々恐々の思いである。
まあ、そうは言っても、マスターさんはシレッと笑って流してくれそうなものであるのだが。
全く長い付き合いではないが、そう思わせるだけの何かが、マスターさんにはあった。
これが大人の包容力ってやつなのかもしれないな……。
「大切にしているのは、売上ではなく、人ですよ。この歳になると、如何に良い出会いが大切か、身に染みて分かるというものですからな」
「僕との出会いが、良いものと感じてもらえるのなら、それはもちろん、光栄ですけれど……」
そこまでのことを、何かした覚えはないんだよな……なんて言葉を途中で区切り、飲み込むだけに終わらせる。
いや、ね。
偶にこの人、すげ~怖いんだよ……。
ものすっごい真剣な目で射抜いてくるものだから、心でも読もうとしてんのか? って気持ちになる。
「いやはや、まさかこんな非才の身に、読心術なんて出来ようはずがないですよ。たかが喫茶店のマスターを、何だと思っておいでかな?」
「いや読めてる読めてる、超読めてるじゃん! 丸わかりってレベルじゃないんですけど!?」
「ほほほ……相変わらず読み取りやすい方で、面白いですなあ」
「……っ! 神騙の真似して揶揄うのはやめましょうね。マジで心臓に悪いので」
一瞬、本当にマスターさんまで前世電波を受け取り始めたのかと思い、冷や汗を流す僕であった。
やれやれ、これ以上揶揄われたら、本当にメンタルが持たないぞ? なんて思えば、しかしマスターさんは含んだような笑みと共に、二枚のチケットを差し出した。
いや、チケットというか、何というか、これは……
「乗車券……?」
そういうことだった。二枚──つまり、二人分の乗車券を渡されていた。
普通に意味不明である。
「聞けば、かがり様の言う、前世について調べるだとか。きっとそれは、そのお役に立ちますよ。
「えぇ……いや、えっ!? いやいや、申し訳ないというか、そこまでしてもらうことじゃないんですけど……!?」
「そこまでのこと、なのですよ。いえ、もちろん、
「え、なに? 神騙に弱みでも握られてるんですか……?」
完全にやっていることが、舎弟か執事にしか出来なさそうなそれだった。
許せねぇよ神騙……! と義憤に駆られかけたが、ニコリと圧力のある笑みを向けられたので、静かに着席する。
「いや、でも、やっぱり受け取れませんよ。お返しします」
「おや、困りましたね。ではこれは、廃棄処分となってしまうのですが……。ここは、ゴールデンウィークも開けますので。私には暇がございません」
「嘘でしょ……」
その言い分は流石にズルすぎないか?
受け取るしかないというか、受け取らないことが、申し訳ないことこの上なくなっちゃうんだけど……。
席へと戻ってくる神騙を視界の端で捉え、ため息交じりに受け取り直す。
「それじゃあ、まあ、一応は貰っておきます。えーっと、ありがとうございます……?」
「今のところは、どういたしまして、と言っておきましょうかな。一通り終わりましたら、また顔を見せにきてくだされ」
再び笑みを浮かべたマスターさんが、キラリと片眼鏡を光らせて、上機嫌に去っていく。
その後ろ姿に、何とはなしに溜息を吐いた。
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