彼女は彼の誰?
「ごめんね、ちょっと遅くなっちゃったんだけど、お昼はもう済ませちゃった?」
教室にある僕の席とほとんど変わらない、窓際の席。
机を一つ挟み、向かい合わせに座った神騙が、少しだけ不安気にそう聞いてきた。
何をそう気にするのかとは思ったが、まあ、一緒に昼食を食べたかったとかかもしれない。
夫婦は二人で一緒にご飯を食べるものでしょ? とか平然と言いそうだもんな、こいつ……。
「残念なことにまだだ。つーか、忘れてきたから今日は昼抜きだ」
「ありゃ、それはラッキーだ」
「あっ、人の不幸は蜜の味タイプの人?」
「そんなことないよ!? ただ、都合が良いというか、わたし的にラッキーというか……えへへ」
照れたように頬に朱を差し、可愛らしく笑った神騙が小さな鞄を机に乗せた。
ジジッとジッパーの口を開き、一つの箱を取り出す──それを見て、思わず眉をひそめた。
それはお弁当箱だった。続いて出てきた水筒が、その存在を強固に補完している。
こいつ……もしかしてお腹を空かせた僕の前で、美味しくお腹を満たす気か?
空腹に苦しむ人を前にして食べるご飯は何よりも美味しい、とか言い出すタイプの人間だったのかもしれない。
性格が悪すぎる……。
特殊というか、いっそ変とも言ってしまいたい自身の体質上(手料理が苦手であることを、体質だなんて言って良いものなのかは分からないけれど)、恵んで欲しいとは思わないが、それはそれとして、というやつだった。
だが、まあ、仕方ない。元はと言えば、お昼を用意するのを忘れた僕が悪いのである。
もっと言えば、購買や食堂を選択しなかったことも含めて、自己責任だ。
ここは甘んじて受け入れるとしよう……。
「急に落ち込み始めた!? しょぼんってなってるの、とっても可愛いけど、別に嫌がらせとかしないよ!?」
「つまり神騙にとって、この程度はお遊びに過ぎないと……?」
「絶対変な勘違いしてるよ、きみ……」
仕方のない人だなあ、と呆れたように、けれども慣れてるように神騙が笑い、パカリとお弁当箱を開く。
一人暮らしをしているとは言え、神騙は推定金持ちのお嬢様である──ついでに言えば、そうでなくともあの神騙の弁当だ。
それはそれは、庶民がお目にかかるのも許されないような、贅を尽くした弁当なのだろう……とか思っていたのだが。
特にそんなことは無いんだな、というのが正直な感想だった。
二段のお弁当は一段が白米で、二段目がおかずだった。色とりどりのそれは、客観的に見れば美味しそうに見える。
ただ、問題はその量だ。幾ら僕が食が細い方とは言え、それでも男子高校生な僕から見ても、そのお弁当はデカかった。
明らかに女子高生が一人で食べる量ではない──少なくとも、一般的な女子高生が、毎昼食べきれるような量では無かった。
すげーな、神騙。見た目に寄らない部分がドンドン見えてくるんだけど。
良い悪いではなく、ただ意外で目を見開いてしまう。
まあ、どれだけ食っても明晰な頭脳と万能な運動神経、それからその……女性的な部分に栄養が行くんだろうな。
そんな、少々下世話なことを考えていれば、お手々を合わせて「いただきます」と言った神騙が、お弁当の一角に佇む卵焼きを箸でとって、それをそのまま向けてきた。
神騙がニコリと満面の笑みを浮かべ、口を開く。
「はい、あーん」
「……いらない」
「遠慮しなくても良いんだよ?」
「や、遠慮っつーかだな……」
手料理は食いたくないんだ、なんて話、好んでしたいものではない。
僕だって出来れば美味しく食べたいくらいだし、無いとは思うが、神騙から他の誰かに伝わり、いつの間にか愛華の耳にでも届いたら最悪だ。
学年も違えば、学校も違うが、何せ人脈が豊かなことに定評のある神騙である。
可能性が少しでもあるのなら、なるべく避けたかった。
けれど、そんな僕の内心をまるで読み取ったかのように、神騙は
「大丈夫だよ。だって、きみのお嫁さんが作ったお弁当なんだから」
なんてことを、笑みを携えたまま言った。
ドシンプルに何も大丈夫な要素が無いのだが、そう言おうと口を開いたら、そのままスッと口に入れられてしまった。
「──ッ!」
反射的に、すぐさま飲み込もうとする。
美味しい、美味しくないの話ではなく、身体が反射的に吐き出そうとするのを意識的に、強引に押し返そうとして、その必要が無いことを悟った。
砂糖が多めに入れられているのだろう、甘い卵焼きはどこか安心感のある味だった。
それを、全身が拒絶するどころか、むしろずっと求めていた味であるかのように、身体は受け入れていた。
「……美味しい」
確かに甘くはあるが、甘すぎない程度に焼かれた卵焼きは、妙に舌が馴染んで、咀嚼するほどに旨味が広がるようだった。
卵焼き一つに何を真剣に食レポしようとしているんだと、我ながらそう思わないこともないが、しかしそれくらいの驚愕だったことは分かって欲しい。
え? 何か泣けてきちゃったんだけど。
やばいやばい、このままでは脈絡もなく、唐突に泣き出した変な人になってしまう。
くっ……と、涙腺をこじ開けようとする涙を抑え、天井を見るように頭を上げた。
「ほら、ね? 大丈夫だったでしょ?」
「神騙、お前一体何なんだよ……」
「何って言われたら、きみの前世の妻で、きみの今世の彼女……カッコ仮、かな?」
「お、おぉ……今までで一番説得力があったな、今の。全然彼女ではないが……」
えぇ~? と不満げな声を漏らすものの、くすくすと楽しそうに笑う神騙。
良し良しと僕の頭を撫でた神騙が、弁当を僕に見せる。
「どれでも好きなのを食べて良いんだよ。きみの為に、腕によりをかけたから、ぜーんぶ美味しいよっ」
「すげぇ自信だな……実際そうなんだろうけど。えぇっと……それじゃあコロッケ食べても良いか?」
「あっ、今世でもコロッケ好きなんだ。ふふっ、かーわいい」
「は? ばっかお前、そんなの嫌いな男子高校生なんて存在しないだろうが」
「でも、一番に選んじゃうくらいには好きなんでしょ?」
「くっ……」
光の速さで論破された僕は、屈辱に打ち震えながら箸を借りようと手を差し出したのだが、神騙はコロッケを箸で掴んで向けてくるのだった。
「あーんっ」
「なぁ……もしかしてそれじゃないと食わせてくれないのか?」
「当たり前じゃない、わたしたちは相思相愛なんだから」
「相思でも相愛でもないんだよなあ」
かなりの一方通行なんだけど……まあ、背に腹は代えられないしな。
あーんと口を開けば、嬉しそうに食べさせてくれる神騙だった。
不承不承という顔をしながらも、一口食べるごとに笑みを浮かべる邑楽に、神騙はこみあげてくる想いを必死に抑え込む。
『お? 何だお嬢様、難しい顔して』
『だから、お嬢様って呼ぶのやめてくださいってば! もうっ……これ、作ってきたんです。良ければどうぞ』
『おぉ……お弁当だ。何でまた、僕なんかに?』
『だって先輩、いっつも小さいおにぎり一つなんですもん。そのくせ放課後にはお腹空かせてるから、その……そう! 見苦しくって!』
『いや見苦しいて……』
もうちょっと語彙を選んでほしかったなぁ、なんて笑いながらも、彼は「ありがと」と弁当を受け取った。
緊張やらなんやらといった感情で、ドキドキしている彼女の気持ちなんて知ることもなく、気楽に蓋を開ける。
『めっちゃ豪華だな……手作り?』
『だったら、何か不都合でも?』
『いや、お嬢様は料理もお上手なんだなって』
『だから……!』
その呼び方やめてくだいって何度言わせるつもりなんですかっ、と彼女は薄い金の髪を揺らしながら言う。
そんな姿を微笑ましそうに彼は見て、それから「おっ」と声を上げた。
『コロッケが入ってる……ハンバーグも!? 凄いな、育ち盛り詰め合わせセットか?』
『い、嫌なら食べなくても良いですっ』
『嫌なんて言ってないだろ。どっちも好物だ……まあ、ちょっと量は多い気するけど。嬉しいよ』
いただきます、と手を合わせてから箸を手に取り、彼は期待を露にしながら口に含む。
彼女の心臓は、早鐘の如くドクドクと高鳴っていた。期待と不安と緊張で、今に叫びだしそうなくらいだ。
キュッと拳を握った彼女に、もぐもぐと咀嚼し飲み込んだ彼が、思わずといったようにつぶやく。
『……美味しい』
『え、えへへ……』
それは、彼女が初めてお弁当を作った日の記憶。生まれ変わってなお根付いている、彼女の輝かしい一ページ。
思い返して噛み締めて、そしてやっぱり彼と重なる目の前の少年に、笑みを綻ばせ、小言を「はいはい」と聞き流しながら、一口ずつ食べさせてあげるのだった。
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