なーくん≫≫≫兄さん



「あら、今日も早起きなんですね。おはようございます」

「あー……おはよう、愛華あいか


 翌朝。眠気眼を擦りながら部屋から出れば、バッタリと顔を合わせたのは藍本愛華──藍本家の、一人娘であった。

 藍本家は元より三人家族だ。そこに今、僕が+1されている形で、この家で暮らしている。


 もちろん、愛華のことは幼い頃から知っていた。年齢は一つ下の、高校一年生。

 昔っから長い黒髪で、その目も日本人らしく黒い。


 言葉通りの大和撫子といった風貌の少女であり、仲は良好な方だと言えるだろう。

 まあ、それは兄妹としてではなく、どちらかと言えば、友達として、であるのだが。


 学校以外の場所であれば、基本的に年齢の一つや二つなんて誤差みたいなものだ。親戚であり、行事ごとに顔を合わせる程度の相手であれば、それもなおさら。

 お互いに、どちらが上だなんて考えたことは無いと思う。そのくらい、幼い頃から僕らは対等に遊んできた。


 だから、むしろ突然兄妹になったことの方が、強い違和感を抱かせるというものであり、いつも通りの距離感を維持する方向性で構わないだろうと、そう思っていたのだが。


 ──兄さん。


 愛華は僕を、そう呼ぶようになった。今まではなーくん(凪宇良の凪から取って、なーくんらしい)と、そう呼んでいた彼女が。

 明確に言葉にすることで、愛華は僕を、家族の一員として迎え入れたのである。


 そのことを、鬱陶しいとは思わないし、不愉快だとも思わない。

 考えてみなくとも、それは全くおかしなことではないし、むしろ順応性があると、そう褒めた方が良いくらいなのだろう。


 あるいはそれは、僕のことを思ってのことかもしれないのだから。

 関係性は、いつだって言葉から作られるものだ。


「朝は早く、夜は遅い。まるで社会人みたいですね? 兄さん」

「含みのある言い方するのやめろよ……だいたい、帰って来たのは愛華の方が遅かったろ」

「私は兄さんと違って、生徒会に入っていますから。今日は活動は無いので、早く帰ってくる予定ですよ。兄さんはどうですか?」

「僕は……どうだろうな。放課後になってから決める。ほら、友達に遊びに誘われるかもしれないし?」

「兄さんにそのような友人はいないでしょう……」


 嘯くならもっとマシなことを言え、と目だけで訴えてくる愛華だった。喧しすぎるのだが、まったくもってその通りだったので反論の一つもできなかった。

 やれやれ、と肩を竦めて居間へと向かう。そんな僕を、追いかけてくるように愛華も階段を下ってきた。


「だいたい、兄さんには友人はおろか、知人も恋人だっていないのに、毎日毎日一人ふらふらと、どこで何をしているというのですか」

「色々とだよ。こう見えて、意外と忙しいんだ」

「そんな風には見えませんが? そもそも私が知る限り、兄さんほど忙しいという言葉が似合わない人はいません」

「ちょ、ちょっと? 愛華さん? 何か朝から攻撃的すぎない?」


 背中に突き刺さる極寒の視線に身を震わせる。おかしいな、もうすっかり春なんだけどなー。

 舌戦では敵わないと悟った僕は、逃げるようにして居間に入った。


 そこには誰もいない。当たり前だ。

 季節を問わない、朝特有のひんやりとした寂量感が佇んでいる。


 現在時刻は五時を少し過ぎた頃合いだった。早朝と言って良いこの時間、旭さんと沙苗さんはまだ起きていない。

 僕の朝ごはんの時間は、いつもこの時間である──別に、そう決められているのではなく、僕が自然と、この時間に起きてしまうためによるものだった。


 いつもであれば、愛華もまだ眠っている時間であり、こうして居間のテーブルに二人で向かって座るというのは、中々久し振りとも言える。

 適当な菓子パンを用意すれば、咎めるように愛華が僕を睨んだ。


「兄さん……またですか。お母さんが嘆いていましたよ、お弁当を作らせてほしいって」

「いや普通に申し訳ないし……気持ちだけ受け取りましたって言っといてくれ」

「子供じゃないんですから、そのくらい自分で言ってください……!」


 もうっ、とため息を吐き出しながら、愛華は僕がモグついている菓子パンを見た。

 朝昼共に、こいつらが僕の食事である。


 別段、藍本家に制限されている訳ではなく、むしろ自由にさせてもらっているからこその選択だった。

 僕はあまり食事に時間をかけたいと思う方ではない──かけたくないと思うようになったから。


 だから、はじめのうちはゼリー飲料なんかで済ませていたのだが、愛華だけでなく、旭さんや沙苗さんも良い顔をしなかったので、流石に妥協して菓子パンに落ち着いた、という経緯がある。

 これはこれで色々種類があって、食べていても楽しいのだが、やはり愛華からすれば赤点クラスらしい。


「……私はこれから作りますが、兄さんの分を用意しても構いませんよ」

「ありがと、気持ちだけ受け取ってお痛い痛い! 本気で蹴るのはよせ、愛華!」

「妹の! 気遣いを! 無下にした罰です!」


 グリグリと兄の足を踏み抜く妹の図が誕生してしまった。マジで痛いからやめようね。

 流石に僕が悪い自覚はあったので、黙したまま耐え忍んでいれば、不意に愛華が僕の胸に、拳を当てる。


 ポフ、と痛みのない、弱弱しく小さい音がした。


「やっぱり──やっぱり、兄さんは。は、私が妹なのは、嫌ですか。私に兄と呼ばれるのは、不快ですか。嫌悪を、感じますか」

「なっ……ちがっ、そんなことは思ってないし、考えたこともない」

「ですが、なーくんはこの家にいると、いつも窮屈そうです。息ができないみたいに、苦しそうに見えます」

「別に……」


 そんなことはない、とはすぐに言えなかった。なぜならその通りなのだから、反射的に言葉に詰まる。

 愛華の揺れる瞳を見ていると、僕が悪いということを教えられているようで、居心地が悪かった。


 小さく深呼吸をして、少しだけ間を置いてから口を開く。


「別に、そんなことはない。愛華の勘違いだよ」

「そう、ですか。そうだと良いんですけどね」


 愛華はか細い声でそう言って、台所へと歩を向けた。その背中を少しだけ見つめ、溜息を吐く。

 どうしようもないやるせなさがこみあげて来て、それごと呑み込むように、パンを齧った。




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