夜、先生と。


「あっ、凪宇良なぎうら

「げっ、高槻たかつき先生」


 粘りに粘る神騙と別れ、ようやく帰路へとついたところ、バッタリと出くわしたのは、先ほど全力疾走して振り切ったはずの、高槻先生であった。

 やっべー、これまた逃げないといけないやつか? と思ったものの、全身が「もう走りたくないでーす!」と訴えかけてきたので、潔くあきらめることにした。


 人生、何事も諦めが肝心である。

 ていうか、そうじゃなくても明日会うわけだしな。


 担任の先生ってのは厄介なもんである──まあ、お巡りさんとかに見つかるよりかは、ずっと良かったのかもしれないが。


「あら、今度は逃げないのね。罪の意識でも芽生えたのかしら」

「まあ、そんなところです。とりあえず土下座とかしとけば良い感じですか?」

「思ってたよりしっかり芽生えてたわね……いや、いらないらいない! アンタの頭にそこまでの価値ないわよ!」


 自転車を止めて、シームレスに膝を地に付けたところ、呆れたように言い放つ高槻先生であった。どうやら高槻先生は立場のある人間の土下座がお好みらしい。

 趣味が悪すぎる……しかし、だとすれば困ったな。


 僕にできる最上級の謝罪にすら意味がないとすれば、あとはもうただ怒られることしかできなさそうだった。下手をすれば保護者の方にまで連絡がいくかもしれない。

 や、ヤダな~……。控えめに言って超嫌なんだけど。


 何とかこう、上手いこと見逃してくれないだろうかと、願いを託して見れば、呆れたように息を吐く高槻先生だった。


「いや、あのね、捨てられた子犬みたいな目で見ないでくれる? 何かアタシが悪いみたいじゃない……」

「実際、遭遇しちゃった先生が悪いですからね」

「トリッキーな責任転嫁するわねアンタ……良いの? アタシはアンタの成績くらい思うままなのよ」

「しょっ、職権乱用……! 鬼! 悪魔! 妖怪!」

「ついでに言えば、今からアンタの保護者に連絡を入れることもできるわ」

「腹でも切ればいい感じですかね?」

「急に武士みたいなこと言い出したわね……」


 かくなる上はという判断であったのだが、「アンタの血肉に価値なんてないわよ……」みたいな顔をする高槻先生だった。


「神騙も、こんなやつのどこが良いのかしらね……」

「前世の夫ってところが良いらしいですよ」

「聞いたわよ、でも冗談でしょ?」

「………………」

「……えっ」


 本気マジなの……? という目を向けられたので、真実マジらしい、という意志を込めて見つめ返せば、数秒間の無言空間が形成されてしまった。

 高槻先生は”なぜそんなことに……?”とでも言いたげな表情に変化させたが、それは僕が一番聞きたいことである。


 いや本当、何がどうなったら前世だとか、夫だとかいう設定が出てくるんだよ。

 フィクションなら微笑ましいものであるが、残念ながらノンフィクションだった。


 しかも夫役は僕である。

 どういうチョイスなんだよ、本当に。


「ふぅん……まあでも、アンタにはそんくらい強引な方が、逆に良いのかもね」

「む、まるで僕の理解者みたいなこと言うじゃないですか」

「理解者とは言わずとも、去年から一年見てきてるんだから、多少は知ってるわよ。それこそ、アンタがヒネたぼっちだってことも知ってるわ──あっ、これは誰でも見れば分かるわね」

「ちょっと? 誰も攻撃しろとは言ってないんですけど?」


 確かに覆しようのない事実ではあるのだが、それはそれとしてオブラートに包んでほしかった。傷ついちゃったらどうするつもりなんだ。

 先生なら先生らしく、生徒を優しく可愛がって欲しいものである。


「クソッ、ヒモヒモの実モデルバンドマンを食ったダメダメ人間飼ってる異常者のくせに……」

「飼ってないわよ!? ちょっと生活の面倒見てるだけだもん!」

「それを世間では飼ってるって言うんですけど……」


 しかもちょっとどころじゃないし。がっつり同棲二年目だって、この前聞いたばっかだぞ。


 しっかり者ほどヒモに引っかかるイメージが出来てしまったのは、間違いなくこの人のせいだと思う──と、ここまで言ってしまえば分かるだろうが、高槻先生とは多少以上の親交があった。

 と言っても、別にそれは、先生と生徒の垣根を超えるようなものではない。


 一年の時にちょっとしたきっかけがあって、少しだけプライベートの話もするようになった。

 ただ、それだけのことである──だから、こうして帰りにバッタリ出会うなんて、それこそ初めてと言っても良いくらいであった。


 社会人でも家に帰るような時間帯という訳である。こうして街中で見かけると、教師も普通の人なんだなと思った。いや、そりゃ特別な人間なんていないのだから、当たり前のことではあるのだが。

 学内で見るのと、学外で見るのとでは印象が違うように思えた。


 いつもなら一つに結ばれている金の髪は解かれていて、何と言うか、仕事に疲れた社会人女子って感じである。それってそのまんまじゃねぇか。

 精々違いを見出すのなら、学校ですらほんのりと漂わせている”疲れてるんですけど”オーラが全開になっていることくらいだった。


 段々可哀想になってきたな、早く帰ってもらおう。


「じゃ、僕はこれで。気を付けて帰ってくださいね、先生」

「それ、アタシの台詞なんだけど……ねぇ、凪宇良」

「はい?」


 既にすれ違うように背を向けていたので、止まって振り返る。

 少しだけ、先生モードを取り戻したような目の高槻先生が、優しい声音で言った。


「お家の居心地はどう?」

「良くも悪くも、変わりませんよ」

「そう、それなら良いわ」

「良いんだ……」

「悪くないなら、現状維持はプラスよ。特にアンタの場合、焦ることでもないんだから」


 それじゃあね、気を付けて帰るのよ。とだけ言い残して、カツカツとヒールを鳴らしながら高槻先生は夜闇に消えていった。

 その後ろ姿を見送った後に、ゆっくりと歩みを進めたが、家にはすぐについた。


 自転車を倉庫にしまい、鍵をかける。

 その鍵とは別に、家の鍵を取り出して、家の扉を開く。


 そうすれば、パタパタと足音が聞こえて来て、やがて二人は姿を現した。


「や、お帰り。邑楽くん」

「お帰りなさい、邑楽くん」

あさひさん、沙苗さなえさん、ただいま帰りました。すいません、遅くなって」


 ペコリと頭を下げてから、手を洗いに洗面所へと向かう。


 藍本あいもと旭に、藍本沙苗。

 二人は僕の、父と母だった。


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