凪宇良邑楽という、前世の夫。



「お、おぉ……ヤバい女だ。大丈夫? 良い精神病院とか紹介しようか?」


 高校二年生になって、初めてのクラス替えを終えたわたしの隣にやってきた、凪宇良なぎうら邑楽おうらが、割と真剣な顔をしてそう言った。

 その反応を以て、「ああ、やっぱりこの人だ。この人が、わたしの旦那様だ」と確信を得たわたしは、彼が前世むかしから苦手としていたにも関わらず、思わずその場で抱き着いてしまった──のだが。


「は? コロッケ? ばっかお前、そんなの嫌いな男子高校生なんて存在しないだろうが」

「相変わらずって……喧しいな。小学生までは得意だったっての──あっ、おい、嘘吐きを見る目はやめろ!」

「水族館……? え? いやいつの約束だよ! 怖い怖い! 前世電波をキャッチするな!」


 彼には、前世の記憶は存在しないようだった。記憶が戻るような素振りも、今のところ見当たらない。

 だけど大丈夫。何も問題はない。


 彼は今世いま前世むかしも変わらず、わたしの好きな人、そのものだったのだから。

 思い出せないというのなら、また好きになって貰えば良いだけのこと。それだけの話でしょう?






 一年二組の凪宇良邑楽。あるいは、二年三組の凪宇良邑楽。

 わたしは、隣の席にやって来た、その男子生徒のことは知らなかった。


 これでも友人知人は多い方であるという自負があり、大袈裟ではなく、大体の生徒の名前と顔は、頭に入っているつもりであったわたしにとって、それは多少の驚きを齎すものだった。

 どんな子なんだろう、と思う。せっかく隣の席になったのだ、仲良く出来たら良いな、と思う。


 みんな仲良く、楽しく学校生活を送りたい。

 前世の記憶があるわたしにとって、それは人生の目的とも言える指標だった。


 前世におけるわたしの身体は弱い方で、運動なんてした日には、体調を崩すのがお決まりだった。

 だから、今こうして自由に外を歩き、身体を動かせることが、何よりも楽しく、かけがえのないものだった。


 そんな日々を彩るために、友人の存在は必要だ。そうでなくとも、知り合いが多い方が、たくさんの可能性に恵まれる。

 だから、凪宇良邑楽という少年とも、良き隣人として、仲良くしたいとそう思い、目を向けた──目を向けて、視界に捉えて、ビタリと身体を硬直させた。


 。わたしは彼のことを、誰よりも良く、知っている。

 頭ではなく魂で、わたしはそのことを、一ミリのズレもなく理解した。


 彼は──凪宇良邑楽は、わたしの旦那様だ。

 何もおかしな電波をキャッチした訳でも無ければ、妄想を語り始めた訳ではない。


 あのぼんやりとした表情に隠されてる、実は整った顔立ち!

 内心でつらつらと、益体もない文句を重ねていそうな雰囲気!


 基本的に一人を好んで行動してそうな風体!

 何でも斜に構えて世の中を見てそうな目つきの悪さ!


 そして何よりも、心が彼を、かつて──いや、いいや、今も愛している人であると、そう叫んでいた。

 鼓動が跳ね上がる、頬が上気して、心が際限なく踊り出す。


 会いたかった。ずっと、ずっと会いたくて、けれども諦めていた。

 この世界は、都合よく進むような世界ではないことを、わたしは誰よりも知っていたから。


 せめて、前世の記憶を持ち越せただけでも奇跡なのだろうと、そう思うことで抑え込んでいた感情が、爆発寸前まで膨れ上がる。

 早く言葉を交わしたい、早く触れ合いたい、早く互いを確かめ合いたい。


 次々と浮かんでくる思いに、理性で蓋をする。

 まだだ、まだ慌てる時じゃない。

 

 落ち着け、落ち着きなさい、神騙かがり!

 まだパッと見ただけよ、勘違いの可能性は────99%有り得ないけれど! それでも1%可能性が残っている!


 観察しなければならない。一歩踏み込むための確信が……言ってしまえば、免罪符が欲しい。

 だから、彼がやっと隣に来たのに合わせて立ち上がり、そっと手で触れた。


 吐息が触れ合うような距離にまで顔を近づけて、愛しさすら感じる瞳を覗き込む。

 触れてる指先から、懐かしい温かみを覚える。


 ああ、彼だ。彼なんだ。

 思うと同時に、言葉は零れ落ちた。


「見つけ……なに?」


 戸惑った様子の邑楽くんに、感情のままに笑みを向ける。

 それから思わず手を取って、こらえきれない感情の一端を、言葉にしてみせた。


「お、おぉ……ヤバい女だ。大丈夫? 良い精神病院とか紹介しようか?」


 まあ、その返答はどうしようもなく、何も知らないながらもものだったので、思いっきり抱きしめてしまったのだが。


 

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