泥の夜
「真帆路ちゃん。」
「伊勢谷さん。」
「伊勢谷さん。」
「真帆路さん。」
「真帆路ちゃん。」
この児童養護施設に来て約1週間。
あたしのことを呼ぶ声は
自然と増えていったような気がする。
それは、名前を覚えて、
名前と顔が一致するようになったから。
親しくなったからでは断じてない。
初日、夕飯を食べるときに
隣にいてくれた千聖ちゃんや、
あたしのことを気にかけてくれる職員さん、
そして同じ部屋の羽澄さん。
皆、心配するような言葉を
寄り添うようにかけてくれた。
それも、ここに来て早々に
急に帰ってこなくなったからだと思う。
一応連絡は入れたものの、
連絡をするのが遅かったために
だいぶ迷惑と心配をかけていたようだった。
事情を説明すると、
すんなりと受け入れてくれていたのは
とてもありがたかった。
あの日は泊まって以降、
梨菜ちゃんと少し言葉を交わして
彼女の家を出た。
この児童養護施設に戻ってきてからは
何事もなかったかのように
日々が過ぎていった。
ただひとつ。
職員の方に両親が
亡くなっていたことを伝えると、
随分と顔を顰めて「そう」と
ひと言こぼしていた。
真帆路「…。」
今日も窓から空を眺める。
今日も雲が多く、時折雨が滴った。
ずっと眺めているといつしか日は傾き、
ゆったりと夜へ染まっていった。
両親の死を知ってから、
あたしは何をするわけでもなく
部屋に居続けることが多かった。
時々羽澄さんや職員さんが
部屋に来て声をかけてくれるけれど、
その言葉たちに
愛想笑いすることしかできなかった。
自分でも驚いた。
笑えてしまうことに驚いていた。
涙なんて出ることすらなく、
今日まで至る。
死んだとわかっているのに、
どうにも理解していないような。
まだ、夢だと思っているのかもしれない。
部屋に置いてあった
高校のものらしい冊子を手に取る。
羽澄さんは参考書を使用しているのか、
将又勉強とは別の用事で出掛けているのか、
教科書がそのままにされていた。
英語、それから日本史。
隅には世界史の教科書や
国語、数学1Aや数学2もある。
Bが見当たらないあたり、
文系を選択すると数学2だけで
卒業できるスケジュールなのかもしれない。
真帆路「文系…って言ってたっけ…?」
大きな衝撃があってから
前後の記憶がやや曖昧になっている。
けれど、目の前の状況を見るに
文系であることは間違いない。
あたしも文系だったから、
案外解けるのではないだろうか。
意外にも覚えていて欲しい。
ああ、こんなのあったあったと
なるのだったら、
まだあたしの頭は使い物になると
思えるかもしれないから。
ぱらぱらと教科書をめくる。
すると、使い込まれているのだろう、
マーカーやメモ書きが多く残されていた。
コラムの部分にさえ
何やらメモを残している部分さえある。
真帆路「真面目…。」
さら、とその文字に直接触れる。
すると、なんだか気持ちや記憶が
流れてきそうな気がした。
そんなことは全くなかった。
けれど、その勉強熱心な彼女だが、
よくわからない絵のようなものが
隅に描かれていた。
可愛らしくデフォルメ化されたもので、
魚や見たこともないような建物が
転々と描かれている。
ある1、2ページの隅は、
それで埋め尽くされていた。
そして次のページへとめくると。
真帆路「…!」
そこには、ボブくらいの可愛い
女の子が描かれていた。
ワンピースらしいものを身につけている。
ポーズは硬く、手は真下。
別のページにはさらに、
大きい花がひとつとその他小さい花々が
描かれているところもあった。
絵を描くことはあまり得意では
なさそうだったけれど、
この女の子が何を意味しているのか
何となく分かってしまう気がした。
真帆路「…………一叶…?」
ボブ。
魚に、大きな花。
ワンピース。
刹那。
がちゃりという音が
背後から聞こえてきた。
猫のように後ろへ退きながら
自分のベッドへと飛ぶ。
羽澄「ただいまで……って、何してるんですか?」
ベッドに飛んだもので、
ぎいとそれが軋んだ。
飛んでいる最中を見られたのか、
羽澄さんの方を見ると
怪訝そうな顔をしている。
大層不格好な体制をとっていたのだろう。
真帆路「…その、アクロバティックな動きの練習です。」
羽澄「ぷっ…あははっ。どこで使うんですかー。」
真帆路「あはは…ですよね。」
よくわからないけれど、
羽澄さんは笑って部屋に入り、扉を閉めた。
鞄を置き、その中から
筆箱やら冊子やらを取り出す。
やはり勉強しにいっていたようだった。
羽澄「夜ご飯は食べましたか?」
真帆路「まだです。」
羽澄「じゃあ、今食べちゃいましょう!羽澄がお腹ぺこぺこなので、ついてきてください!」
真帆路「え、そんな」
羽澄「一品だけでもいいので。」
まだ、お腹が空いてないんです。
そう言おうと思ったのだけれど、
有無を言わさずあたしの手を取り、
そのままリビングへと向かってしまった。
羽澄さんは、あたしが帰ってこなかった時、
丸1日どこにいっていたのかなんて
全く問いたださなかった。
もしかしたら梨菜ちゃんから連絡があり
知っていたのかもしれない。
あたしの両親が亡くなっていたことも、
職員の人から聞いているのかもしれない。
そもそも、あの2年間は
どこにいたのかすらも
聞いてこなかったと思う。
羽澄さんはとにかく
あたしに深く干渉してこなかった。
ご飯は相変わらず暖かく、
お風呂だって温くて身に染みた。
羽澄さんは少しリビングで皆と
話してから戻ると言っていたので、
ひと足先に部屋へと向かう。
ある程度の動作を終えてまたベッドに戻ると、
さっきまで開きっぱなしだった
机の上の教科書が
閉じられていることに気づいた。
真帆路「…あ。」
教科書、開きっぱなしだった。
羽澄さんも流石に、あたしが勝手に
見てしまったと気づいただろう。
しかも、開いていたのは
イラストの描かれていたページ。
彼女は今、何を思っているのかわからない。
勝手に人のものに
触りやがって、とか思っているのだろうか。
優しい人ほど裏があるとは
よくいうものだからか、
警戒せずにはいられなかった。
また教科書を開くわけにもいかず、
そわそわしたままスマホを手に取り
徐にTwitterを開く。
それでも、情報が行き交うだけで、
本当に欲しいものは得られなかった。
しばらく画面を見続けていると、
不意に扉が開いて羽澄さんが戻ってきた。
楽しいことがあったのか、
それともいつも通りかにこにこしている。
これから怒られそうで怖かったけれど、
声色や物腰はいつものようだった。
真帆路「あの…。」
羽澄「どうしました?」
真帆路「教科書…勝手に見てしまってすみません。」
羽澄「え?ああ、全く問題ありませんよ!」
真帆路「…本当ですか?」
羽澄「はい!むしろ色々書いてあって汚かったですよね。」
真帆路「いえ、そんなことは全然。」
羽澄「机に置いてある教科書も、もう使わないものですしいつでも使って大丈夫です!」
真帆路「使わないんですか。」
羽澄「学校がもうほぼないんですよ。月に2回くらい、登校日があるだけです。」
真帆路「そっか…高校3年生の冬休み後って確か休みが多かったんでしたっけ。」
羽澄「そうなんです。だから授業もないんです。自分で勉強しなきゃなんですよ…とほほ。」
羽澄さんはどんな道に進むのだろう。
これだけ勉強しているのだから、
上位の大学を目指しているのだろうか。
進学することには間違いないと思う。
就職ではないはずだ。
羽澄「それに、この部屋に置いてあるものは自由に使っていいですよ。」
真帆路「でも、羽澄さんの私物じゃないんですか。」
羽澄「今となってはそうかもしれませんが、ここにきたばかりの時は、羽澄のものではありませんでしたよ。」
「当たり前かもしれませんが」と
ひと言付け加えて、
机の上にあるペン立てから
鉛筆を1本取り出した。
羽澄「これだって、元は羽澄のではありませんでした。施設からもらったものです。」
真帆路「でも…。」
羽澄「羽澄はずっとここにいるので、あまり人と物を共有することに抵抗はないんです。気にしないでください。」
真帆路「…羽澄さんは。」
羽澄「…?」
真帆路「…いつからここにいるんですか。」
羽澄「うーん…流石にここで生まれたわけではないですけど、幼稚園に通うより前じゃないですかね。」
真帆路「覚えていないんですか…?」
羽澄「そうなんです。」
けろり、として羽澄さんは答えた。
立って話していた彼女は、
疲れてきたのか自分用のベッドへと腰掛ける。
そして、膝を抱えてこちらを見た。
羽澄「羽澄の友達によるとですね、羽澄は誰かを探していたみたいなんです。」
真帆路「探していたみたい…って?」
羽澄「羽澄が、その友達に話して。そして、話した後に羽澄が忘れてしまったんですよ。」
真帆路「…その、もの忘れ…とかではなくて?」
羽澄「はい。どうしても思い出せなくて。」
真帆路「…。」
羽澄「多分、その人と羽澄がここにいるのは何か関係がありそうだなって勝手に思ってます。」
勝手に。
そう言っていた。
確かに、その情報だけでは
確実に繋がりがあるとは言えないけれど、
繋がりのあるストーリーは
いくつか思い浮かべることができる。
例えば、生き別れの兄弟だとか、
近所に住んでいた幼馴染だとか。
羽澄さんはきっと、
そういう身近な人のことを
何かがきっかけで忘れたんだと思う。
羽澄さんは膝に顎を乗せて、
背を丸くしながらこう言った。
羽澄「信じてもらえないかもしれませんが、羽澄は、羽澄たちには、少し不思議なことが起こっているんです。」
声を落として、呟くようにいうものだから、
ぎりぎり聞き取れたはいいものの
なんて返せばいいか困った。
不思議なこと。
それは、ほんのついさっき言っていた
忘れてしまったことと
関係するのだろうか。
真帆路「羽澄さんたちって…?」
羽澄「今、Twitterって開けますか?」
真帆路「え?はい。」
Twitterに何の関係が。
そう思いながらも彼女の指示に従う。
プロフィールを開く。
すると、自分の名前になっていること。
アイコンを変えることはできず、
誰かを追加してフォローすることも
できないということ。
この辺りは、一叶がやったのだろうなと
漠然と思い、受け入れていた。
確かに本名が明け透けになるのは
困る分には困るけれど、
これがあたしの存在を証明しているようで
嬉しかったことだって事実だった。
それから、フォローしている人たちが
不思議なこととやらに巻き込まれている
メンバーであることを聞いた。
その中には、満面の笑みを浮かべる
愛咲のアイコンや、
照れるように笑った花奏の姿が目に入る。
数日前にお世話になっていた梨菜ちゃんや
今目の前にいる羽澄さんだっている。
羽澄「梨菜ちゃん、波流ちゃん、麗香ちゃん。そして、美月ちゃんに花奏ちゃん。三門さん、愛咲、羽澄。それから、伊勢谷さん。」
フォローの部分を指でなぞるように
彼女たちの顔を沿う。
羽澄「この9人で全員です。」
真帆路「不思議なことっていうのは?」
羽澄「本当にいろいろです。誰かからか分かりませんが指示が飛んできて宝探しをしたり、海の底みたいな場所で数日過ごしたり。」
真帆路「それって…さっきの絵のやつですか。」
羽澄「はい。やっぱり信じられなくて、夢なんじゃないかと何度も思いました。」
真帆路「…。」
羽澄「けど、帰ってきて翌日の授業日に描いたあのイラストを見ていると、夢じゃなかったんだって。」
真帆路「ずっと…続いているんですか。」
羽澄「今年度からですね。4月から始まって、もうすぐ1年になります。」
真帆路「…その、海の他にもいろいろ…。」
羽澄「…羽澄以外の人の方が、辛い目に遭っていると思います。」
真帆路「え…。」
羽澄「愛咲なんて、2ヶ月ほど行方不明になっていました。」
真帆路「愛咲が…!?」
行方不明に。
何となく、嫌な予感がしてしまった。
羽澄「はい。それで、海底まで行って、麗香ちゃんと2人で連れ戻しに行ったんです。」
海底から救ってきたという羽澄さんは、
きっと嘘はついていない。
ずっと海底にいて、死なないはずがない。
羽澄さんや、その、お友達…
麗香さんにだって、
何かと施されてなきゃおかしい。
生きていられるはずがない。
確実に、一叶が関わっている。
愛咲はその2ヶ月の間、
一体どこにいたというのだろう。
愛咲から、何か聞いていませんか。
そうは聞けなかった。
羽澄「…花奏ちゃんは、羽澄は詳しいことはわかりませんが、年末あたりに何かあったみたいです。」
真帆路「…。」
羽澄「でも、三門さんや麗香ちゃんや、他のみんなが支えてくれて、花奏ちゃんは今ではだいぶ良くなってます。」
真帆路「良くなったって…一時期は悪かったってこと?」
羽澄「…はい。」
真帆路「…っ。」
羽澄「この不思議な出来事は、時に怪我をさせ、時に恐怖を植え付け、羽澄たちの心身の健康を奪ってきます。」
真帆路「心身の…。」
羽澄「でも!」
ぎゅ、と手に力を
込めているのが窺えた。
羽澄「関わるはずもなかった人を繋げてくれたのも、深くまで関わることができなかっただろう人と親しくなったのも事実なんです。」
真帆路「…あたしも含めて…。」
羽澄「はい。勝手な想像話なんですが、この不思議な出来事に巻き込まれていなければ、羽澄は伊勢谷さんと会っていないと思います。」
真帆路「…でも、学校からこの施設を紹介されたから、その出来事がなくてもあたしたちは出会ってたんじゃ…」
羽澄「多分、伊勢谷さんが亡くなったことになるなんて事実も、存在しないんじゃないかなって思うんです。」
真帆路「…どういうこと?」
…と、聞き返しては見るけど、
何が言いたいのかは
あたしが1番理解できていた。
羽澄「伊勢谷さんは、ここに来ることなく、死んだことにすらされず、普通に生きていたんじゃないかなって。」
そう、伏せがちに言っていた。
あくまで可能性の話であり、
見るだけ無駄な未来、過去であることは
わかっているつもりなのに、
その可能性から目を離すことができなかった。
あたしはあの日、学校から突き落とされない。
死んだことにされない。
普通に日々を過ごして、生きる。
受験をして、合格か不合格かする。
大学に通って、課題が多いことに
文句を言いながら友達とご飯を食べる。
手芸サークルに入って、
とことん好きなだけお裁縫をする。
就職しろと言われる時期になって
ようやく重たい腰を上げて
インターンや説明会を探す。
そして、好きな洋服や
デザインの関係への就職を考える。
家に帰ると、パパとママがいる。
ママはりんごのパイを焼いている。
パパはピアノを弾いている。
パパが邦楽を弾くと、
ママは時折それに合わせて鼻歌を歌う。
それを、くもと一緒に眺める。
山盛りになったおもちゃ箱から
猫じゃらしのようなおもちゃを手に取って、
くもと一緒に遊ぶ。
けどくもは、歳をとったからか
あまり機敏に動かない。
それを見たママが、儚げに少し微笑む。
ピアノの音がずっと、聞こえる。
そんな日の天気は、晴れ。
真帆路「…。」
知るのは罪だという人もいる。
だからこそ、知ってより良い選択をせよ
という人もいる。
けれど、この事実に限っては
知りたくなかったことだった。
あの2年間がなければ。
何回も、何百回も、
何万回も思ってきたことだ。
あの2年間さえなければ、
あたしの人生は
ここまで狂うこともなかった。
だから、一叶が憎いと思う。
なのに、時々見せる優しさや
心を救う意味のない言葉があるから、
どうにも完全には憎めない。
あたしは誰に怒りをぶつけていいのか
未だにわかっていないのだ。
羽澄「…余計なお世話かもしれませんが。」
羽澄さんはそう言ってベッドから離れ、
あたしの隣にゆっくり座った。
勢いがなかったからか、
ベッドが大きく軋むこともない。
羽澄「今度は花奏ちゃんに会ってみませんか。」
真帆路「…花奏に?」
羽澄「はい。」
真帆路「どうして。」
羽澄「花奏ちゃんは、伊勢谷さんのことを心底慕っています。伊勢谷さんを待っています。」
真帆路「…あの子が?」
羽澄「はい。それに…お互い、この先に何かを見いだせたらいいなと思うんです。」
真帆路「…。」
羽澄さんは、自分のしたことをお節介だと
思っているのだろう。
きまづそうにずっと目を伏せている。
愛咲ですら、大きく変わっていた。
花奏だって変わっている。
そうに違いない。
あたしが高校に上がってからは
あまり頻繁に会わなくなったけれど、
それまでにはしょっちゅう
顔を合わせていた。
あたしの幼い頃からをよく知った
1番の友達であることに間違いない。
だからこそ怖かった。
事実を、現実を知るのが怖かった。
けれど、このまま部屋に居続けたって
何も変わらないことは目に見えている。
もし、少しでも心が
揺れ動いていると感じるならー。
あたしはひとつ、頷いたのだと思う。
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