暖かいお家
何故だか、望んでもないのに明日になる。
今日がさらさらに溶けていって、
跡形も無くなっていく。
真帆路「おはよう。」
何となく挨拶をしてみる。
すう、すうと小さな寝息が聞こえた。
隣のベッドを見ると、
羽澄さんがぐっすりと眠っている。
のそりと上体を起こして、
ぼんやりと窓の外を眺む。
今日は昨日に反して、
朝早くに起きてしまっていた。
時間は5時を指している。
空は暗くどんよりとしており、
今日も曇りや雨なのだと
悟ることしかできなかった。
昨日は愛咲と会って以降、
思っている以上に話し込むこともなく
その場は解散となった。
呆気なかったと思うのが
正直なところだった。
もっとあれこれ聞かれるかと思っていた。
どこにいたの、誰といたの、
どうしていなくなったの、
どうやって生きていたの。
それこそ警察と同じような、
否、それ以上、心の深くまで探るような
優しさという皮を被った言葉が
飛んでくるものとばかり思っていた。
けれど、実際には全く違った。
無事でよかった、生きててよかった。
そう言いながら長々と
人形のように抱きしめられた後、
隣に座ることもないままに少し話した。
話した、というのも、
今は羽澄さんのところに
お世話になっているんだっけ、という
ほぼ確認みたいなことや、
最近のこの辺り、変わったんだよねと
近くの店を見ながら話していた。
あたしの過去についての言及が
一切ないことに少し疑問を覚えたけれど、
もしかしたらそれが本当の
優しさなのかもしれない。
5分、10分程度話した後、
また何かあったら連絡して、と
連絡先をもらった。
一応Twitterでも連絡は取れるけれど、
個人の方がまだ気楽な時も
あるだろうから、とのことらしい。
また何かあったら。
そう言った時、あ、会話が終わると思った。
感じた通りにその後数分で会話は終えて、
愛咲は帰っていった。
ただ地元の友達に会いにきただけのような、
数年間行方不明になっていた人に対しての
対応ではないような、
そんな新鮮さがあった。
施設に戻って以降、
羽澄さんと千聖ちゃんとご飯を食べたり
お風呂に入ったりして、
消灯の時間を待った。
羽澄さんはベッドに倒れ込むや否や
あっという間に眠ってしまった。
共通テストを受けたと言っていたし、
相当疲れたのだろう。
くう、くうと寝息が聞こえそうだったけれど、
まだ子供たちが賑やかで
そこまでは聞こえなかった。
真帆路「雨かぁ。」
まだ外に出ていないし、
窓に水滴は付いていないから
雨と決まったわけではないけれど、
雨なのだろうなとしか
思うことができない。
温もりで溢れたベッドを抜け出し、
借りている鞄に充電された
スマホを放り込む。
それから、羽澄さんから貸してもらった
ハンカチや水筒を詰め込む。
まだ時間がある。
時間が有り余っている。
けれど、あの時ほどではないか。
ぼんやりと空を見続けることにも飽き、
起きてから1時間ほどしてまた
眠りにつくのだった。
***
「……て………さん…。」
真帆路「…?」
誰かが、呼んでいるのがわかる。
誰だろうと思い、手を伸ばしてみる。
伸ばした、なんてのは幻想で、
頭の中でのみ繰り広げられている夢。
「……にさん……伊勢谷さん…!」
そう、夢。
あの2年間も、
生きていた18年間も。
一叶も、愛咲も夢。
ああ。
今日もりんごのパイを焼いているのかな。
匂いがする、香ばしい匂い。
今回はシナモンシュガーも
少し振っているみたい。
さらに食欲をそそる香りが立ち込めている。
みー、と声がする。
子猫の声だ。
真帆路「どうしたの。」
声の方を振り向いて、おいでおいでをする。
けれど、子猫は小さく丸まって
そこから動こうとしない。
真帆路「おいで、くも。」
くも。
そう呼ばれても全く反応しない。
真っ白な子猫なのに、片足の腿の辺りに
花の雌蕊のような模様がある。
それをどう捉えたのだろう、
あたしは、くも、と名付けていた。
くもはずっと縮こまっていて
こちらを見ることもしてくれない。
どうすればこちらにきてくれるだろう。
遊べば…毛糸で何か作って、
それをおもちゃにしたらどうだろう。
真帆路「ちょっと待っててね。ママー!」
ママは気の抜けた声で返事する。
けれど、機嫌が悪いわけではない。
むしろ、るんるんと頭から
音符が跳ね出ている。
真帆路「毛糸ってどこにある?青色の毛糸!」
ママ「青色の?珍しい色を使うのね。」
真帆路「最近オレンジや黄色が多かったから、今度は寒色系にしたいの。」
ママ「いいわねぇ。青色は確か、右から2番目の、1番下の棚に入ってたはずよ。」
真帆路「ありがとう!」
たたた、と数歩かける。
その時、ママの優しい声がした。
ママ「真帆路、今度は何作るの?」
真帆路「くものおもちゃ作るの!」
このものの言い方で、不意に思う。
あたし、きっとまだ小さいんだ。
これ、この夢はもう
何年も前のものなんだ。
過去を追体験しているのか、
幼少期に戻っている夢を見ているだけなのか
記憶が曖昧で定かではない。
あの2年間のせいで、
記憶はごっちゃになってしまった。
人と話さないせいで、
気が狂ってしまったんだ。
それを助けてくれたのが
一叶だったっけ。
真帆路「青色のいるかさんを作るんだ!」
あたしは、無邪気に
満面の笑みを浮かべていた。
それを第三者視点で眺める
あたしがいることもわかってた。
***
羽澄「伊勢谷さん!」
真帆路「…!」
羽澄さんの声がして飛び起きる。
何が起こったのか
あまりうまく整理ができない。
心臓はばくばくと音が鳴り、
額からは脂汗が浮かんでいる。
とりあえずここは夢ではないことは
十分に理解できた。
時刻はもう10時ほど。
一瞬で時を超えてきてしまったみたいだ。
羽澄「ふふ、伊勢谷さんって寝起きが悪い方なんですね?」
真帆路「え、あ、そうかも…しれないです。」
羽澄「今日はご家族の居場所を探すんでしたよね。」
真帆路「はい。」
羽澄「なら、そろそろ準備しなきゃ。服はここから自由にとってください。」
羽澄さんは終始穏やかな
笑みを浮かべていたけれど、
それは決して気を張っているわけではなく、
気を抜いているからこその
笑顔であると直感した。
彼女の指差した棚から衣服を取り出す。
下着は職員さんが初日から
ありがたいことに買い足して下さったので
共有せずに済んでいた。
けれど、自分の服がない以上
まだ借りることしかできない。
人の匂いの染む服を頭からかぶり、
不思議な気持ちになりながら
リビングへと向かった。
道中、羽澄さんは寝巻きのまま
目を擦っていた。
だいぶ寝たはずだけれど、
よっぽど疲れていたのか
まだ疲れは取りきれていないらしい。
羽澄「今日、伊勢谷さんが1人だと心配で、友達に同行してもらおうと思っているんですがいいですか?」
真帆路「え?」
羽澄「羽澄はまだ試験がこの先あるので行けなくて。あ、嫌ならいいんです!勝手に申し訳ないです。」
緊張していたのか
つらつらとそこまで話すと、
頭を下げようとしていた。
頭を下げないようにとすぐに制止すると、
本当に申し訳なさそうに
渋々顔を上げていた。
真帆路「その、不安だったので、ありがたいです。」
羽澄「それならよかったです…!」
真帆路「えっと、その方にはどうやって連絡をしたら…?」
羽澄「朝ごはんを食べ終わったら、LINEの連絡先送っておきますね。」
真帆路「ありがとうございます。どんな方何ですか。」
羽澄「高校2年生の女の子です。人懐っこい方ですよ。」
人懐っこいと羽澄さんがいうほどらしい。
なんだか想像がつかなかった。
あたし、今日は羽澄さんの
友達に会うみたい。
どこまでが夢だか
分からなくなったままだった。
朝ごはんを食べ終えて、髪もとかし、
ひと通りの準備を終えて部屋に戻る。
しばらくすると羽澄さんも戻ってきて、
その友達のLINEを送ってもらった。
嶋原梨菜さん、というらしい。
どこかで見たこともあるような気がするが、
全く思い出すことができない。
羽澄「ものすごく勝手なんですが、ここの近くの役所の最寄駅で集合するように伝えてあるんです。」
真帆路「え、時間は。」
羽澄「13時半って伝えたので、ここからだと30分後くらいに出れば間に合いますよ。」
真帆路「何から何まですみません。」
羽澄「ううん。羽澄がお手伝いできるのはほんの少しだけですから。」
また、にこりと笑う。
それをただ見つめる。
こんなに明るく接してくれる
羽澄さんですら、
この児童養護施設にいる。
それがなんとも奇妙に映った。
どうしてこんなにもいい人が
施設にいるのだろう。
そんな疑問をかき消すかの如く
彼女は次の言葉を発していた。
羽澄「ご家族と再会できるといいですね!」
そこには、妬みも恨みも一切ない、
純真無垢で裸なままの言葉があった。
***
羽澄さんから連絡先を受け取り、
その上で最寄駅まで足を運ぶ。
改札前が分かりやすかっただろう
とは思ったけれど、
人が多いのはどうしても嫌で
駅の外で待っていた。
ぴゅう、と冷たい風が吹く。
あの場所でもらった上着に
突っ込んだままのお金は、
流石に借りた財布へと突っ込んだ。
そのままポケットの中で踊らせておくにも
重たいし、音が気になる。
今となってはもう上着も軽いのに、
空が重たいせいか、
体も心もあまり晴れやかではない。
足が、手が。
先からどんどんと冷えていく。
冬って、こんな寒かったっけ、
冬ってこんなに寂しかったっけ。
手を数回もんで、
はあ、と息を吐く。
するとたまたまだろう、
猫が目の前を通った。
こちらを見ることもなく通り過ぎて、
それは姿を消した。
元々は白かったのだろうけれど、
薄汚れていて灰色になっているように見えた。
そこそこ大きかったので、
流石に子供猫ではなさそうだ。
そういえば、首輪はつけていなかったな。
「あのー。」
猫を見ている間に、
正面への気が逸れていたらしい。
はっとして目の前へと振り向くと、
その人もぎょっとして
2歩ほど後ずさった。
真帆路「ごめんなさい、急に振り返って。」
「いえいえ!ごめんなさいは私のセリフですよ。」
きゅっとしばられた
サイドテールが目に入る。
同じくらいの身長で、
細身ではあるけれど健康的な痩せ型だった。
やはり、どこかで見たことあるような。
梨菜「私、嶋原梨菜です!今日はよろしくお願いします。」
丁寧なことにお辞儀をするものだから、
あたしも慌てて真似るように
頭を軽く下げた。
真帆路「伊勢谷真帆路です。こちらこそ、よろしくお願いします。」
梨菜「いえ!」
真帆路「えっと…。」
どこかで会ったことありませんか。
そう聞こうとしたけれど、
そんなのナンパの文句にしかならない。
口を閉ざしたまま
返す言葉もなく目を伏せると、
梨菜さんは顔を覗き込むようにして
あたしに話しかけてくれた。
梨菜「今日は役所に行くっているのは知ってて、でもどの辺りにあるかまでは全くわかってないんですけど、大丈夫ですか?」
真帆路「はい。一応調べてきたので、大丈夫です。」
梨菜「あーよかった!」
心底安心したのか、
胸に手を当ててほっ、としていた。
こういう部分を見ると、
なんとなく初対面なんだなと思う。
未だ緊張しているし、
何を話せばいいのか
まるで言葉が出てこない。
梨菜さんはどう思っているのだろう。
あたしと話しづらいとか、
一緒にいるのは辛いとか
思っているのかもしれない。
かわいそうだとか、
突然この世に現れて
変な人だとか、気味が悪いとか
思っているかもしれない。
だって、普通はあり得ない。
死んだはずなのに、生き返ったなんて。
でも納得できない。
あたしは死んでないのに、
どうして死んだことにされたの。
どうして。
…あれ。
あたし、いつからこんなに
臆病になってしまったんだっけ?
疑問を抱えたままに、
マップアプリを立ち上げる。
そして、事前に調べてきた
市役所の名前を検索する。
それすら、手こずるほどに
この2年間で鈍ってしまった。
文字を打つのもひと苦労だ。
梨菜「文字打ち苦手ですか?」
真帆路「え。」
梨菜「ほら、ちょっと辿々しいから。」
真帆路「…苦手じゃなかったはずなんですけど、下手になっちゃって。」
梨菜「そんな時もありますね!」
真帆路「あはは…。」
どうしよう。
人と関わってこなかったあまり、
どんな言葉を返せばいいのか
全く浮かばない、対処しきれない。
本当に2年間、劣化しただけだ。
こんなの、停滞じゃない。
劣っている。
今までそれとなく感じていた。
羽澄さんと話す時も、
中学時代によく話した後輩だった
愛咲と出会った時すらも。
あたし、まともに会話を
できていなかった気がする。
ほぼ反射で話しているような感覚で、
振り返ってみれば
どんな言葉を発していたのか
本当に何ひとつと言っていいほど
思い出せなくなっている。
極度に緊張しているのだろうか。
自分に対して感情を抱くのが
久しぶりな気がする。
何もおこらなければ、
あの時ああしていればという後悔や
あの時上手くできたという高揚もない。
自分に対しての感情がない。
それが、久しく生まれた。
それは、劣等感だった。
考え込むあたしをよそに、
梨菜さんはあたしのスマホを覗き込んで
首を捻っていた。
梨菜「うーん…?あ、向こうかな?」
指した方向は、多分真逆。
地図を見るのが苦手なのかもしれない。
真帆路「…多分、あっちじゃないですか?交番がこの位置ですし。」
梨菜「ん?あれ、本当だ。危なかったー!」
真帆路「じゃあ、行きましょうか。」
梨菜「うん!」
ひと言言って頷き、あたしの横を陣取る。
まるで妹のような
人懐っこさではあると感じた。
そう、感じてはいた。
市役所は堅苦しい雰囲気に加えて、
こもった匂いが立ち込めていた。
空気の入れ替えを
していないわけではないのだろう。
それでもどこか、埃っぽい空気があった。
梨菜さんはきょろきょろと
あたりを見回していたけれど、
楽しそうではない。
どこの受付か分からず、
とりあえず近くの窓口へと
聞いてみることにした。
とことこと、あたしの後ろを
くっついてくる足音がする。
真帆路「あの、すみません。」
「はい。」
その人は何連勤目なのだろう、
機械的にそう答えた。
予想通り窓口が間違っていたようで
別の窓口へと通される。
そして、要件を伝えると、
しばらくおかけになってお待ちくださいと
淡々というのだった。
こういう事態に慣れているのだろうか。
…あたしのケースよりは
断然慣れているか。
待合場所で椅子に座ると、
コロナ対策らしく隣の席には
張り紙がしてあった。
それを何とも思わないようで、
梨菜さんはひと席あけて座る。
コロナも随分と近くなったのだなと思う。
あたしがいなくなる直前では、
まだコロナが出現して
1年も経ていない頃。
3年に上がったはいいものの学校は休校。
ようやく通常通り
登校できるようになって半年にも
満たなかったはずだ。
そんな中で、あたしは。
梨菜「あの、伊勢谷さん。」
真帆路「あ、はい。」
梨菜さんは話しかけることに
恐れをなさないのか、
けろりとした顔で
ひと席奥から話しかけてきた。
梨菜「真帆路ちゃんって呼んでもいいですか?」
真帆路「え?」
梨菜「せっかく近づけたから、仲良くなりたいなーって思って。」
真帆路「全然いいですよ。」
梨菜「ほんと!やったぁ、よかった!」
真帆路「…あたしも、梨菜ちゃんって呼んでも大丈夫ですか?」
梨菜「もちろん!それに、タメ口でいいです!私年下なので!」
真帆路「梨菜ちゃんは年齢関係なくタメ口で話してそう。」
梨菜「あれ、ばればれ…?」
真帆路「なんかね、そんな気がする。」
梨菜「そうなんですよ、いつの間にか敬語忘れちゃう時があるんです。」
真帆路「人懐っこいね。」
梨菜「えへへ。」
梨菜ちゃんは、照れたように笑いながら
マスク越しに頬を掻いていた。
しばらく他愛のないことを話した。
何が好きなのか、
休日は何をして過ごすだとか。
あたしが答えられるものが
少なかったから、
多くは聞き役に徹した。
妹がいることだとか、
その妹が大好きなこととか。
学校だと、親友と喧嘩しちゃったことや
その反面多くの人と
仲良くはなれたことまで。
さらには、来年受験生なのに
進路が決まってなくて
焦っているとまで聞いた。
ここまで自分をオープンに
話せる人もなかなかいないだろうなと
頭の中で考えていた。
少しした頃、ようやく名前を呼ばれた。
そちらへ向かうと、
パーテーションで分けられた空間があり、
職員の方はやけに普通の顔をしていた。
窓口前の椅子に腰掛け、
梨菜ちゃんも近くにあった椅子に座る。
すると、準備ができたのを確認したのか、
色々と書類を取り出した。
文が多く、一体何が何だか
まるで分からないけれど、
見えたのはママとパパの名前。
「伊勢谷さんのご家族についてなのですが。」
真帆路「はい。」
「こちら、ですね…。えー、お母様。伊勢谷順子さん。」
手のひらを上に向け、
書類を指先で指す。
間違いなく、ママの。
ママのー。
「大変申し上げにくいのですが、順子さんは2年ほど前に亡くなっております。」
真帆路「え?」
「お父様なのですがー」
…。
…。
…え。
…。
……え…?
待って。
待って、今、なんて言った。
なんて言ったの?
そのまま硬直してしまう。
梨菜ちゃんの方を向いて、
助けを乞うことすらできない。
役所が嘘をついた?
そんなはずない。
公的な手続きのもとに。
え。
…え?
もしかして、あたしと一緒?
一緒に、いなくなって、
そして今も隠れているの?
あたしだって、死んだことに。
死んだことに、なってたし。
だとしても。
え。
ママ、死んだの?
職員の方は、あたしを差し置いて
どんどんと説明してしまう。
お父様はどうやら、お家はどうやら。
その全てが、全てが、
頭に入ってこない。
本当に?
夢じゃないの?
これ。
***
ぐらんぐらんと揺られて、
不意に意識が戻る。
今まで何をしていたんだっけ。
時空を転移してきたような気持ち悪さと
記憶のなさに動揺する。
目の前は何やら変な模様が見える。
それに黒い板が付いていて、
変な壁か天井だなと思いじっと見ていると、
それがどうやら座席らしいことに気づいた。
はっとしてあたりを見回す。
電光掲示板が見えた。
次々と文字が流れてしまうせいで、
一体何の情報が流れているのか
皆目見当もつかない。
落ち着くために1度目を閉じる。
きいん、きいんと耳の奥でなる。
耳が詰まっている感覚が気持ち悪く、
鼻を摘んで息を小さく鼻から出す。
すると、耳に詰まっていたものが
抜けたような感覚がする。
正常に音を聞き取れた気がして、
心が何故だか少し軽くなる。
しばらく目を閉じていると、
波長が合いそうな嫌な予感がして
目をゆっくりと開いた。
落ち着いたからか、電光掲示板には
天気についての情報が
流れていることがわかった。
ふと横を見ると、
梨菜ちゃんがすぴすぴ眠っている。
首が辛そうだけれど、
あたしの肩へと頭を預けていた。
私が窓側のようで、外を容易に見回せた。
何時間も経た今でも、
どうやら曇りのままのようだ。
一体どこに行く気なんだったっけ。
帰るだけのはずが、
随分といい電車に乗っている気がする。
思うがままにスマホを取り出し、
マップアプリを立ち上げた。
今どこにいるのだろう。
そう思って。
真帆路「…あ。」
位置が名古屋の近くを指している。
それを見て、やっと思い出した。
慌てて市役所からもらった
書類の入ったファイルを取り出す。
ママが死んでいることの
証明書らしい何かと、
パパが今住んでいるらしい
住所の書かれた紙。
その他色々あるけれど、
今は全く目に入らなかった。
そうだ。
あたし、やけになって
パパのいる場所まで行くって
梨菜ちゃんに言ったんだっけ。
場所は大阪の山の方。
梨菜ちゃんに、お金はどうするのと聞かれて
何にも答えられずにいると、
そのままついてきてと言われ
黙ってついていった。
目的地はマンションだったようで、
玄関に入ることもせず
とある部屋の前で
待つように促された。
梨菜ちゃんはその部屋に入って
何かを探していたのか、
数分してあたしの前へと戻ってきたのだ。
結局、ここは梨菜ちゃんの
家らしいとまでは理解できたんだっけ。
それから、お金を持ってきたといい、
いくらかの現金をちらと財布から覗かせた。
ぎょっとした覚えがあるけれど、
これで大阪まで行こうと言ってくれた時には
涙が出るほど嬉しかったし、
なんと言っても心強かった。
そうして新幹線に乗り込むや否や
衝撃のあまりの疲れで
眠ってしまっていたみたい。
梨菜ちゃんもしばらくして
あたしに乗じて瞼を閉じたのだろう。
外を見る。
もう昼も終わりかけているのか
陽が傾いているのがわかる。
大阪まではまだかかりそうだった。
梨菜「…う。」
真帆路「あ、ごめん。起こしちゃった?」
梨菜ちゃんの声が聞こえたので
こちらを見たけれど、
呻き声を上げただけのようで
まだ寝息が聞こえていた。
真帆路「…。」
あたしもまだ眠った方がいいのかもしれない。
そう思いながらも目を閉じることができず、
書類たちを意味もなく撫でた。
あたしは、死んだことにされていたけれど、
はっきり言って信じられない。
そもそも、血液や指紋諸々で
死人が誰なのか確認するはず。
もし、誰だか不明の死体があったとしても
それはあたしにはならないはず。
特定されないはずじゃないの。
それでも、あたしだと判断された。
それなら、ママだって。
ママだって、そうじゃないの。
じゃああのお墓は何。
あたしのではなくママの?
それとも、両方の?
ママの死因は、自殺だと聞いた。
首を括ったらしい。
9月にあたしがいなくなってから
だった2ヶ月後のことだった。
どうして自殺したかなんて
理由は聞けなかったし
多分残っていなかったんだけど、
あたしがいなくなったからなのかなと思う。
大切にされていることがわかってた。
大事な娘がいなくなって、
正気を保てなくなったのかな。
それともまた別の理由なのかな。
それから、ついでにあたしの死因も聞いた。
自分の死因を聞くなんて、
あたし以外誰も
経験しないだろうななんて思いながら。
これもまた自殺ということになっていた。
学校の最上階から、飛び降りたと。
学校の最上階には確かにいた。
あの日、9月の日。
自分の教室から外を眺めてた。
受験生だったから、
その受験先に不安を抱いていたが、
勉強が思うように進んでいなかったかで
悩んでいた気がする。
その時、あたしは。
真帆路「…死んだんだ。」
背を押される感触。
宙を浮いたという絶対的な感覚。
心臓がふわりと持ち上がる不快感。
全て、覚えている。
全て。
あたしはー。
梨菜「…んあれ、今どこ…。」
真帆路「あ、梨菜ちゃん。」
目を擦ることはせず、
大きな口を開けてあくびをしていた。
マスクが縦に伸びている。
真帆路「今は名古屋に到着する前だって。」
梨菜「そっかぁー…。」
真帆路「まだ寝てていいよ。」
梨菜「ううん、そろそろ起きておく…ぅ…。」
背伸びをして、ぐっと上に伸び切った後、
かくりと顔を下げてしまった。
目を閉じているようで、
まつ毛が下を向いているのがわかる。
真帆路「…そりゃ眠いよね。」
こんな無茶に付き合わされて。
梨菜ちゃんは嫌な顔ひとつすることなく
あたしについてきてくれていた。
お金だってそう。
嫌な顔せず惜しみなく使った。
梨菜ちゃんの家庭環境は知らないけれど、
親御さんは不安に思ったり
不信感を抱いたりしないのだろうか。
起きたら聞いてみよう。
そう思いながら書類を片付ける。
あたしもあの2年間では、
時間の間隔がなかったが故に
気が向いたら眠る生活をしていた。
その癖が残っているのか、
夜でもないのに既に眠たい。
少しだけ、大阪に着くまで
眠ることにしよう。
パパに会えることを楽しみに、
ゆっくりと目を閉じたのだった。
ぐらり、ぐらり。
振動は揺籠のようで心地よく思えてきた。
そのまま、ずっと深くまで
眠りにつけるような気がした。
***
暖かい。
…。
…間違いなく暖かい。
まるで温泉に浸かっているかのよう。
芯からぽかぽかと温められ、
足も指も先まで熱が行き渡っている。
心地いい。
心地いい。
…。
そのせいで気づくのが遅れたが、
膝には猫が乗っていた。
子猫とは言えないほどに成長しているが、
未だ幼さの残る顔だった。
ママ「くもにご飯あげてー。」
真帆路「はあーい!」
声だけがする。
ママの姿は、いつものキッチンにも
いつものリビングにもなかった。
あれ。
しんと静まり返っていることに気づく。
今日は何故か、いつも以上に
気づくのが遅い。
ピアノの音がしない。
エアコンの音だけがする。
轟々と唸りながら
痛々しく働き続けている。
パパ「今日はママ、忙しいんだって。」
驚いて近くを見ると、
パパがソファに横たわりながら
笑顔でそう言った。
天井を見ているのか分からないが、
口角が上がっていることはわかった。
ああ、パパもこういう
何にもない日が好きなんだ。
真帆路「パパー、今日ピアノは弾かないのー?」
パパ「お、じゃあ少しだけ弾こうかな。」
真帆路「ほんとにぃ!」
パパ「その前に、くもにご飯あげてからだね。ママが鬼になっちゃうよ。」
真帆路「あはは、こわーい!」
そう言ってくもを膝から下ろし、
キッチンへと駆けていく。
するとくもまでくっついてきた。
もうご飯のある場所を覚えたみたい。
真帆路「くもはお利口さんだね。」
そっと撫でようとして
頭の上へと手を出す。
くもは怖かったのか、
ぴょいと後ろへ跳ねてしまった。
真帆路「あ、待ってよー。パパ、くもが!」
声をかけたけれど、
返事が返ってくる前に
くものご飯を落っことして
地面にばら撒いてしまう。
お皿を割ったわけでもないのに、
それがやけに鮮明で。
あ。
くもが走ってこっちまできた。
***
新大阪に着いてから
さらに在来線での移動が必要で、
梨菜ちゃんと共に大阪の駅を
うろうろと彷徨った。
梨菜ちゃんを起こした時は
目は全くと言っていいほどに
開いていなかったのだけれど、
外の空気にあてられたからか
今は随分としゃきっとしている。
口数も多く、声が軽い。
だいぶ回復できたようだった。
聞こえてくる言葉全てが
訛っていてとても新鮮だった。
あたしはずっと神奈川にいたはずだから、
方言という方言がない。
あったとしても、だべ、とか。
本当、方言らしい方言ではないと
勝手に思っていた。
梨菜「凄い。聞こえてくる言葉全部関西弁だ…。」
全く同じことを考えていたようで、
また辺りを見回しながら
梨菜ちゃんはそう言っていた。
くすりと笑ったのだけれど、
梨菜ちゃんは見ていなかったようで、
まだ近くにいたおばさん2人組を
凝視しているのだった。
駅で迷いそうになりながらも、
駅員に場所を聞いてなんとか向かう。
電車、そしてバスへと乗り継いで
目的地へと向かう頃には、
既に陽が沈もうとする瞬間だった。
バスに揺られながら山道を登る。
中途買ったコンビニパンを食べながら
2人無言で時間を潰す。
あたしのママが亡くなっていたという事実を
梨菜ちゃんも隣で聞いていた。
だからこそ、
話題に困っているのかもしれない。
空気を読むってこういうことなのだろうなと
第3者目線を持っているかのように
ぽつりと頭で呟いていた。
パンを食べ終わってもなお会話はなく、
また空を見渡すだけの時間がやってきた。
梨菜ちゃんは時々スマホを触るけど
ずっとそれに触れていることはなく、
こくりこくりと船を漕ぎ出した。
起きているのにも飽きがあるらしい。
長時間移動も疲れるもので、
座っているだけなのに
足がぱんぱんだとわかる。
真帆路「…はぁ。」
自然とため息が漏れる。
大阪にもいなかったらどうしよう。
さらに引っ越していて、
別の場所にいたらどうしよう。
そうしたら、別日に
再トライするしかないだろう。
答えは出ているというのに、
何故だか迷い続けている。
不安に侵食され続けている。
「ため息ついたら幸せ逃げんで。」
真帆路「え?」
近くには、学生服を着た
女性が座っていた。
近くとは言えど、
2、3列ほど前だろうか。
気がつけばバスには
ほとんど人が乗っていない。
あたしたち2人と、その女の子だけだった。
「大切にしいや。」
真帆路「は、はい。すみません。」
何を言っているのか
あまりよくわからなかったけれど、
ため息吐くなと言われたのは
嫌でも理解できた。
誰だって人のため息を聞いて
いい気持ちなどしないだろう。
ひとつ反省を抱えながら、
バスに揺られ続けるのだった。
なんとか眠気に打ち勝ちながら着いた先は、
森に囲まれている現実離れした場所だった。
田畑が広がっているのはもちろんのこと、
家1軒1軒の間が物凄く広い。
これぞ田舎と言わんばかりの風景だった。
あたしたちより先に、
慣れたようにバスから下車する女の子。
それを追うようにして
あたしたちもそこから降りた。
バスから降りて、思いっきり伸びをする。
空気が美味しい。
都会とは大違いだった。
梨菜「んー!よく寝たー。」
真帆路「ごめんね、つきあわせちゃって。」
梨菜「全然!暇だったし、楽しから大丈夫。」
真帆路「…ありがとう。」
梨菜「いーえ!」
本音か建前かは分からないが、
なんだか楽しそうに笑っていたので
それでいいことにした。
まるであたしのママが亡くなっていると
聞いたことを既に
記憶から削除してしまったような笑顔だった。
ふと見ると、バスは動き出しており
今度は山を下っていった。
下車した女の子はいつの間に
随分と遠くに行っていて、
背中がぽつりと存在していた。
梨菜「あ、人がいる。」
真帆路「一緒のバスに乗ってた人だよ。」
梨菜「あんな子いたっけ?」
真帆路「寝てて分からなかったかもしれないけど、いたよ。」
梨菜「そーなんだ。」
あの女の子が実在することを確認できて、
安心することしかできなかった。
日の沈む中、暗がりには
転々と街灯が存在していた。
冬なのに虫の集りそうな雰囲気、
そしてあの2年間を過ごした場所よりも
異界のように映るこの田舎に
圧倒されながら道を踏み外さないよう歩く。
もう日も暮れているが、
時間は18時前ほどだった。
この地域の役所はまだやっているだろうか。
それとも、もう閉まっているだろうか。
マップで位置は調べたけれど、
営業時間については
どうしても怖くて調べるのを躊躇った。
梨菜「怖くないですか?」
あたしの心情を
まるで覗いているかのように
その言葉を放った梨菜ちゃん。
相変わらず隣におり、
横を向くとその横顔が見える。
彼女すらも、別の場所で暮らしている、
現実にいない誰かのようにも見えてくる。
きっと彼女が聞いたのは、
暗いから怖くないかという意味だろう。
真帆路「…少し。」
梨菜「じゃあじゃあ、しりとりしましょうよ!」
真帆路「え。」
梨菜「意外と話してたら気が紛れると思うんです。」
彼女は真剣そうに
胸の前で拳を2つ作った。
何かと戦う気でいるらしい。
その姿がこの夜道に全く似合ってなくて、
マスクの中で少し吹き出した。
けれど、気づかれなかったようで
「じゃあ私から」と、しりとりを始めていた。
こんなにくだらない時間を過ごすのも
酷く恐ろしいほどに久しぶりで、
夜道なんて怖くなくなった。
1人ではないからか、
今ならなんでもできる気さえした。
楽しいなんて、安直なことに思った。
けれど、空元気だったのかもしれない。
自分の番が終わり、
うーんうーんと考えている
梨菜ちゃんを見ていると、
何となく悲しい気持ちになった。
さらには、役所という目的地に
着いたにもかかわらず、
全く嬉しいなんて気持ちが湧かなかった。
むしろ、寂しくて仕方がなかった、
梨菜「引き分けで終わっちゃいましたね。」
真帆路「またやろうよ。」
梨菜「ふふん、今度は負けません!」
単純だけれど、次の約束があることが、
あたしをこの時間軸に縛り付けて
くれているような気がして、
妙に安心できたのだ。
まだあかりの灯っていた
役所へと1歩踏み出す。
すると、役所で働く1人が
慌ててこちらの方へと走ってきた。
中年くらいの男性だった。
「もう営業時間を過ぎてるんです。」
関西独特の訛りを持ちながら
あたしたち2人へと声をかける。
営業時間が過ぎている。
それを理解するまでに、
何秒かが必要だった。
ここまできたのに、という気持ちと、
梨菜ちゃんにお金を出して
もらったのにという申し訳なさが交錯し、
その場から逃げ出したくなる。
そうですか、と言って
この場を離れようとした時だった。
梨菜「遠くからここまできたんです。お願いします!」
梨菜ちゃんが咄嗟に頭を下げていた。
用事があるのはあたしなのに、
どうして彼女に全てを
負わせているのだろうか。
その事実にどきっとして、
あたしも急いで頭を下げる。
真帆路「家族を探してるんです。この地域に住んでると聞いて、会いにきたんです。お願いします。」
頭を下げているから
職員の顔は全く見えない。
迷惑そうな顔をしているかもしれない。
感銘を受けた顔をしているかもしれない。
そもそも何にも
感じていないのかもしれない。
多分、1番最初に
思いついたものだと思うけれど。
すると、あたしたちの声を聞きつけたのか、
後ろで人の気配を感じた。
振り返ると、そこには杖をついた
高齢そうなおばあさんが近づいてきていた。
「どうされました?」
「いやあ、その子たちが家族を探しているらしくて。」
「家族?」
おばあさんはくいっと
片方の眉を吊り上げた。
全てを見透かされているようで怖くなる。
「お名前は?」
真帆路「伊勢谷です。」
「伊勢谷ってあの。」
あの。
おばあさんはそう言った。
間違いなくそう言った。
梨菜ちゃんと顔を合わせる。
彼女も、驚いた表情をしていた。
夢じゃない。
あたしの聞き間違いでもない。
本当に言ったんだ
真帆路「知っているんですか!」
喜びのあまり、おばあさんの肩を掴んで
今どこに住んでいるのか、
どの家にいるのか問いただしたかった。
しかし。
…。
おばあさんは、
あまり晴れた顔をしていなかった。
そして言ったのだ。
聞き間違いでもなく、
夢でもないこの現実で。
「数ヶ月前にね、亡くなったんだよ。」
°°°°°
土の香りがする。
土に顔を埋めているのではないかと思うほど
泥臭くて仕方がない。
動けない。
息ができない。
そうか。
埋まっている。
息ができずに、埋まっている。
そう気づいた。
°°°°°
後ろから気配がした。
けれど、今は振り返りたくなくて、
じっと前にいるおばあさんを見続けた。
パパの死因は、聞かなかった。
聞かなかったけれど、
それでよかったと思っている。
それでよかったと思いたかった。
できるなら知らないままでよかった。
でも。
真帆路「そう、でしたか。」
あたしは、自分の体質が嫌だった。
これで人の輪を外された。
仲間はずれにされた。
でも、パパとママだけは
ずっと味方でいてくれた。
その体質に今、救われたのか
苦しめられたのかわからない。
今でもなお思うのは、
この体質なんていらないということだけ。
これがなければもっと
余裕を持って暮らせたのに。
もしかしたら、あの2年間のことだって
これさえなければ。
もしかしたら。
…。
この世にいないものを
感じる体質なんて、いらなかった。
おばあさんや職員の方に
深く深く頭を下げて、お礼を言う。
どんな言葉を選んだのかは、
あたし以外の人にしかわからない。
それほど、自分の声すらも
何も耳に届かなかった。
それから振り返って、思い切り走りだした。
誰も追い付かないくらいに、
森の方を目掛けて進む。
足がちぎれてもいい。
腕がとれてもいい。
肺が破れてもいい。
頭が爛れてもいい。
何だっていい。
何だっていいから、
今は人から離れて森に近づきたかった。
パパがいるかもしれない方向へと
走ることだけが、
走ることだけ、が。
真帆路「………はっ…ぅー…ひゅう、ひゅう…。」
どれだけ息が切れても。
どれだけ苦しくても、
足が動かなくなりそうでも。
走って、大切な人のところへと
近づきたかった。
どうしても、あたしを必要としてくれた
大事な人の元へ。
死因は聞かなかった。
聞かなかったけれど、多分、土砂崩れ。
雨の音、土の匂い。
動物の、野生の、泥の匂い。
埋もれて、苦しくても、
声を上げられなくて
誰も助けてくれなくて。
あんなの、見たくなかった。
人の死に触れる時、
どうしても思い出すことがあった。
背を押される感触。
宙を浮いたという絶対的な感覚。
心臓がふわりと持ち上がる不快感。
全て、覚えている。
全て。
あたしはー。
あたしは、自分から飛んでなんていない。
あの9月、死んだとされた9月。
あたしは誰かに押された。
だから、パパだって。
ママだって。
誰かに。
「待って。」
走る中で、真っ白な影を見つける。
それは、森に入るのを
止めるかのように立ちはだかっていた。
その声が、今は嬉しくない。
お前のせいだと全てを攻撃性に変えて
あなたを責めたくなってしまう。
一叶「この先はまだ、良くない。」
真帆路「…でも、パパが」
一叶「わかっているなら、なおさら戻ったほうがいい。」
真帆路「一叶、一叶お願い。」
一叶。
何も変わっていないのは
もうあなたしかいない。
彼女はたった1週間弱で
大きく変わることもなく
彼女は彼女のままだった。
今もそう。
けれど、他は全て変わってしまった。
相鉄線は別の線とくっつくし、
皆コロナとの生活に慣れ出している。
当時同級生だった人たちは
きっと就職か進学かしてしまった。
愛咲だって、受験生だ。
花奏だってそう。
2人とも18歳で、
今年卒業だってするはずだ。
大切な2人は変わっていた。
大きく大きく変わっていた。
それから、家族も。
パパもママもいなくなっていた。
変わってしまった。
全て、全て変わって、
大切なものが次々に抜け落ちていった。
真帆路「全部帰してよ。」
彼女の袖を握る。
あたしが一叶を見るときは、
いつだってクラゲのような
白いワンピースを身につけていた。
今日だってそう。
その綺麗な服を、
しわくちゃにする勢いで掴む。
真帆路「お願い…。」
一叶「…。」
真帆路「……っ…。」
お願い。
それを言っても聞いてもらえないことなんて
百も承知だった。
一叶には、あたしの言葉なんて
心に響くはずもない。
一叶「それはできない。」
あたしの頭を撫でることも、
辛かったねのひと言もない。
あるはずないのに、期待してしまう。
それでも、一叶からはもう
何も返って来なかった。
泣いても無駄なのだろう。
そう思うと、自然と涙は出ることなく
奥へ奥へと引っ込んでいった。
一叶はあたしの横を通り過ぎては、
「こっち」と単調な声で伝えるのだ。
…。
することもないあたしには、
それを神の提示だと思って
動くことしかできなかった。
***
梨菜「…!真帆路ちゃん!」
目の前が突然真っ暗になったかと思えば、
梨菜ちゃんが力強く
抱きついてきていたようだった。
まるで愛咲のハグのよう。
人は程よく圧を感じるとどうしてこんなに
安心してしまうのだろう。
梨菜「探したんだよ!」
真帆路「…ごめん。」
梨菜「いいの、いいの。」
首をぶんぶんと振っているのがわかる。
涙声なのか寒かったのかわからないけれど、
声が震えていた。
梨菜ちゃんが落ち着くまで
抱きつかれたまま、離れるのを待つ。
すると、気が済んだのか
ぱっと離してくれた。
どこまで歩いてきたのだろう、
目の前には一軒家があった。
古そうな見た目だけれど、
暗いからかもしれない。
梨菜ちゃんは本当にあたしにしか
目が行ってなかったようで、
隣にいた一叶を見てはぎょっとしていた。
梨菜「えっと、その方は…?」
真帆路「…えっと」
一叶「知り合い。」
梨菜「知り合い…?」
一叶「真帆路の知り合い。」
名前を明かす気はないのか、
こちらに目配せをして
知り合いだと言い放った。
素性を明かしたくないと言うのが
ひしひしと伝わってくる。
梨菜ちゃんが何を問おうか
迷っている間にも、
一叶は既に、決まったように離し出した。
一叶「この家、今は誰もいないよ。」
梨菜「え?」
一叶「入って話そう。」
そう言って指したのは、
目の前にある一軒家。
電気もついていないから、
まるで幽霊屋敷のよう。
ぼろぼろになった標識が目に入る。
辛うじて深見と読めた。
入って話せば、まだ一叶に
いろいろ聞けるかもしれなかった。
少しくらいは慰めの言葉を
選んでくれるかもしれないとも思った。
それでも、期待しても
何も返って来ないだろうこともわかってた。
今は、ここから早く
抜け出したかったのかもしれない。
パパのいるこの土地に、
間違った形で
会いたくなかったのかもしれない。
梨菜「でも、人の家じゃ…」
真帆路「帰るよ。」
一叶「…本当に?」
真帆路「あたしが選んだ。帰るって。」
一叶「それが真帆路の選択なら、言うことは何もないね。」
真帆路「行こう、梨菜ちゃん。」
梨菜「え、え?」
真帆路「ほら、早く。」
梨菜「けど…」
一叶「梨菜。」
一叶は、あたしではなく、
梨菜ちゃんを引き留めていたと気づくには、
少し時間がかかった。
どうして、関係のひとつすらもない
梨菜ちゃんに声をかけるのか。
それは、関係を持ってしまったからだと
思い知ってしまう。
たった今、関係はできてしまったのだろう。
それとも、もっと前からー。
一叶「もしも“れい”に会いたくなったら、春に桜の下でも通るんだよ。」
梨菜「…!」
梨菜ちゃんは、かっと目を見開いて
一叶を見ているのがわかった。
れいは幽霊という意味なのだろうか。
ただただ怖くて
目を見開いたと言うわけではなさそうだった。
駄目だ。
梨菜ちゃんまでこれ以上
巻き込んではいけない。
真帆路「帰ろう。」
梨菜ちゃんの冷たくなった手を握って
そのまま引きずるようにして歩く。
梨菜ちゃんは最後まで
一叶から目を離すことはなかった。
田舎の中心から離れたところに、
家の骨組みが露出した
ぼろぼろの建物があった。
それを眺めながら歩いた。
その建物が見えなくなったら、
今度は空を見上げた。
星はひとつも見えなかった。
バス停まで行くと、
たまたま最終便だったようで
運良く乗せてもらえた。
乗り継ぎでの空き時間が多く、
新幹線もほぼ最終便。
新横浜からあたしの家までは
終電は既に出発してしまったようで、
歩いて帰るしかなかった。
そこまで覚悟を決めたものの、
ずっと喋らなかった梨菜ちゃんは
「私の家に泊まってもいいよ」と
呟くように言ったのだ。
お金まで払ってもらった上に、
泊めてもらうなんて非常識にも
ほどがあるとは思った。
しかし、今の梨菜ちゃんを
放っておくこともできなくて、
咄嗟に泊まると口にしていた。
さっきの田舎の中で、
梨菜ちゃんはあたしを探して
ずっと走ってくれていたのだから、
今度はあたしが近くにいなきゃと思った。
梨菜ちゃんの家の最寄駅までなら、
まだ終電があるらしい。
終電がないから、泊まるだけ。
そう何度も言い聞かせた。
やってきたのは、
ママが亡くなったと聞いた後に
1度きていたマンションだった。
同じ階段を登り、同じ部屋へと向かう。
なのに、こんなにも心持ちが重たい。
昼間よりもずっと、ずっと。
梨菜「どうぞー。」
真帆路「あ、お邪魔します。」
梨菜「ただいまー!」
びく、と肩を震わせた。
さっきと全然違う。
声は最大限に明るく、
まるでたった今宝箱でも
開けてきたかのような響きだった。
怖くて後ろにいるはずの
梨菜ちゃんを見る。
目はきらきらとしており、
爛々と輝いていた。
別人がそこにいるようで、心底ぞっとする。
梨菜「さ、上がって上がって。」
真帆路「う、ん。」
梨菜「汚いけど許してね。」
真帆路「全然大丈夫。」
本人が汚いと言っていたが、
歩けないほどではなかった。
よそ見をせずリビングまで向かうと
確かにゴミ袋か2つほど隅に転がっている。
けれど、異臭がするわけでもないので
最近括られたものなのだろう。
中央にある食卓には椅子が4つあり、
そのひとつにうさぎのぬいぐるみが
ちょこんと座っていたのだった。
そして家全体を見回す。
1人で住んでいるのだろうか、
親御さんの姿が全く見えない。
玄関にある靴も少なかった気がする。
ぱっと気軽に払える新幹線代。
そして誰もいない家。
もしかしたら、今ご家族の方は
外出しているだけかもしれないけど、
なんだか嫌なふうに
結びついていきそうだった。
梨菜ちゃんは少し遅れて
リビングに入っては、
鞄を下ろしてひと息ついていた。
梨菜「真帆路ちゃん。施設の人に今日は泊まるって連絡した?」
真帆路「あ、まだ。」
梨菜「そしたら今しちゃったほうがいいと思う!羽澄ちゃんでもいいと思うし。」
真帆路「うん、そうする。」
梨菜「お手洗いはキッチンでいいからね。ハンドソープもこっちだし。」
真帆路「うん、ありがとう。」
ぱぱっと連絡を済ましてから
手を洗うためにキッチンへ向かう。
その間に梨菜ちゃんはリモコンを手に取り、
暖房を入れたのだった。
じんわりと温かくなる前に、
梨菜ちゃんはてきぱきと動いていた。
梨菜「夜ご飯、買ってきてたお惣菜しかないけどいい?」
真帆路「…十分すぎるよ。」
梨菜「何がいい?いろいろあるよ!ハンバーグでしょ、唐揚げでしょ、チキン南蛮でしょー。」
真帆路「あのさ。」
梨菜「ん?食べたいものあった?」
真帆路「違うの。」
梨菜「…?」
梨菜ちゃんは、本当に心から
何がおかしいのか
わかっていないような反応をした。
真帆路「それ、誰かと食べるために買ったんじゃないの…?」
梨菜「へ?」
真帆路「その…家族、とか。」
明るすぎるその色は、
すうっと引いていったような気がした。
どうしても、聞かずにはいられなかった。
嫌な予感がしてやまなかった。
もしもあなたも1人なら、
少し仲間のようにも思えた。
勝手に心の中で仲間にして、
今後生きたいと思えるように
なれればいいななんて思った。
あたしは、優しくも綺麗でも
なんでもないから。
だから同類の子がいたら、
あたしよりも下がいたら。
それで安心してしまう人間だ。
梨菜ちゃんはうきうきとしていたのに、
急にそっけなくなって
歩いてキッチンへと向かった。
聞いてはいけなかったのだと、
今更になって息を呑む。
答えは返って来ないと思った
その時だった。
梨菜「今はねー、ここで1人で暮らしてるんだ!」
また、明るい声が返ってきた。
どちらが梨菜ちゃんなのか、
わからなくなってしまうほどに
奇妙で気味が悪いなんて思ってしまう。
梨菜「強いて言うなら、そのうさぎさんが同居人かなー。」
そう言いながらコップを
2つ持ってきてくれた。
片方は赤いマグカップ。
もうひとつは透き通ったグラス。
梨菜「こっちは私がいつも使ってて汚いから、真帆路ちゃんはこっちね。」
そう言って、透明なグラスの方を
手渡してくれた。
刹那、エアコンは轟々と動き出た。
まるで暴れ馬のように勢いがいい。
じんわりと温かい波がやってくる。
梨菜「そうだなー、今チキン南蛮の気分なんだけど、真帆路ちゃんは鳥食べれる?」
真帆路「…うん、大丈夫だよ。」
梨菜「そっか!じゃあそうしよう!賞味期限も近かったし助かるよー。」
梨菜ちゃんはそう言って
またキッチンの方へと戻っていった。
これ以上何かを聞くのは
流石に躊躇われた。
家族は、今はいないと言った。
今は1人だと言った。
それは、既にいなくなったのか
それとも戻ってくる目処があるのか。
そんなこと、もう聞けなかった。
聞かなかった。
お風呂も全て貸してもらい、
また別の人の匂いがする服を着た。
そして、梨菜ちゃんが眠る部屋とは
全く別の場所へと通された。
そこにもベッドがあり、
学習机まで整えられていた。
誰の部屋なのかはわからないけれど、
きっと梨菜ちゃんの
姉妹であるだろうことはわかった。
可愛らしいぬいぐるみにカーテンを見るに、
女兄弟であることは間違いなさそうだった。
それから次の朝が来るまでは
思っている以上に早かった。
朝、梨菜ちゃんは学校があるからと
ばたばたとしていた。
そんな中朝ご飯をいただくのも申し訳なく
ひと足先に彼女の家を後にした。
いいよ、食べていきなよと言われたけれど、
あたしが、気持ち的に
今は食べれないと伝えると
しょんぼりしながらもわかってくれた。
それから、昨日の交通費は
いつか働いて返すことを伝えた。
それもいいよ、いらないよと
言ってくれたけれど、
あたしなりのけじめのつけ方だと言うと、
そこも譲歩してくれた。
朝。
電車はいつものように動いている。
人はいつものように動いている。
空は、いつものように動いている。
新しい朝らしいけれど、
あたしにとってはいつまでも
止まったままの時間でしかなかった。
真帆路「…おはよう。」
それでもあたしは、なんでだろう。
泣くことができなかった。
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