空洞

真帆路「わ、子猫?」


手には、小さな小さな命。

近くには新調したばかりのケージ。

パパは猫を飼うために使う

トイレやベッドの設置をしていて、

ママは猫にあげるための

ご飯を作っていた。

獣のような匂いは、多分ご飯から。

だってこの子猫からは

優しい陽だまりの匂いしかしない。


鼻をうずめると、子猫は擽ったそうに

身を捩っていた。


真帆路「ねえママ。この子の名前どうする?」


ママ「真帆路の好きなように決めてあげて。」


パパ「その子も喜ぶよ。」


真帆路「じゃあね、そうだなぁ。」


その子を抱き上げて、目を合わせる。

きらきらとした、

生きる喜びに満ちたような目で

あたしのことを見つめていた。





***





ちゅんちゅんと鳥の囀りが

聞こえることもなく、

雨の産声と共に目を覚ます。

枕も布団も新品なのかふかふかで、

冷えた体が温まるまでに

何十分も寄越すことはなかった。

布団をずらすと、古びた空気が

あたしの足元にまで潜り込んでくる。

くすぐったい。

まるで子猫を飼ったみたい。


…そんなの、夢でしかなかったけれど。

もしもあたしがあの時何もなく、

今も家族と一緒にいられたのなら

そんな未来もあったのかな。


真帆路「…あ。」


上体を起こして周囲を見ていると

枕元に服が置いてあることに気づいた。

誰のものかはわからないけれど、

多分羽澄さんのものだろう。

重ためのパーカーにジーパンが

重ねられていて、

その付近にメモ用紙が1枚。

自由に使ってねと

可愛らしい字で書かれていた。


窓辺には長机がひとつあり、

そこには時計が置かれていた。

かちかちという音が聞こえないのは

施設にいる子どもたちが

元気に遊びまわる声が

部屋部屋に響いているからだろう。

時計は10時手前を指していた。


真帆路「…羽澄さん?」


声をかけても返ってこず、

ふともうひとつのベッドの方を向く。

すると、もぬけの殻になった布団が

くたりと横たわっていた。

もう起きているらしく、

この部屋にはいないようだった。


ぐったりとした体を起こして、

服を着替えてリビングとも言える

施設の中央へと向かった。

今日はやけに空が重たかった。





***





施設で働く方々は、

遅く起きてきたあたしに対して

嫌な顔をすることもなく

朝ごはんを用意してくれた。

お味噌汁にご飯に目玉焼き。

簡素だけれど、心温まるものだった。

ほっと息をつくと、

口から白い息が漏れるような錯覚を覚える。

体がぽかぽかとしてきている証拠らしい。


子どもたちは外で遊んでいるようで、

リビングにはあたしと1人しかいない。

他の子は各個室にいたり、

図書館に行っていたりと

自由に過ごしているのだろう。


机をぐるりと見るとほぼ対角の位置に、

クールな雰囲気でウルフカットをした

女の子がご飯を食べていた。

あたしと同じように

遅く起きてきたのだろうか。

気付かぬうちにじっと見ていたようで、

こちらをばっと振り返っては

ほとんど手をつけていない

ご飯の乗っかったお盆を持ち、

すたすたとどこかへ姿を消してしまった。


「真帆路ちゃん、調子はどう?」


近くでは、掃除をしている

女性の職員さんがいた。

昨日、施設の説明をしてくれた人で、

大変お世話になっていた。

未だに名前が思い出せず、

「あ、はい」と適当な返事をしておく。

目尻をほんの少しだけ下げると、

また掃除を再開する。


「さっきその机にいた子、いるでしょ?」


真帆路「え?」


話しかけられると思っておらず、

お味噌汁の入った器を持ちながら硬直する。

口に運ぶ前でよかった。

その温もりを感じながら、

手を下ろすことなく耳を傾ける。


「あの子もね、最近ここに来たの。」


真帆路「そうなんですね。」


「ええ。親御さんが放任主義すぎるがあまり、ネグレクトに近い状態になってたみたい。」


真帆路「それ、あたしに話してもよかったんですか?」


「ふふ、内緒ね。」


柔らかい声だからだろうか、

あまり深刻に思っていなさそうだった。

1度お味噌汁を置いて振り返る。

まだ掃除をしており、

動きながら話していた。


「あ、ご飯食べながらでいいよ。」


真帆路「あの。」


「ん?」


真帆路「親のいる場所を、知りたいです。探したい。」


「…そうね。そうだよね。」


その人は掃除する手を止めて、

こちらを見ることなく俯いた。

何かを知っているのか、

それとも何も知らないのか。

多く子どもたちが家に帰りたいと

言っているのを聞いてきたからか。

瞳の色は、なんだかあまり

優れているようには見えなかった。


「市役所に行ってみたらどうかしら。」


真帆路「市役所…。」


「そう。そこなら今の住所だって調べられるはずだから。」


真帆路「…。」


「大丈夫。真帆路ちゃんは相当なレアケースだけれど、親御さんはあなたを捨てたわけじゃない。信じてあげて。」


レアケースというのはもちろん

あたしの存在のことを言っているのだろう。

学校からいろいろ

連絡してくれたのだと思う。

法的にも死んだ人間を

匿っていてほしい、と。


あたし、1人なんだってまた思う。

どうやって生きていくんだろうって

漠然と思い続けてる。

それでもまだ、自覚はない。

戻ってきたという自覚も、

今後生きていくんだって自覚すらもない。


…あたしにとって、

今更だけどあの2年間いた場所が

自分の居場所になっていたことに気づいた。

一叶が意味もなくそこにいて、

話しかけたらひと言、ふた言だけ返して

また黙って時間が擦り減る。

お裁縫がしたいと言ったら

どこからともなく持ってきてくれて、

あの場所を出る時には

壁際は編み物だらけに

なっていたのを思い出す。


ご飯も水もそこそこにおいしいけれど

暖かさを感じたことはなかった。

それすらも、今となっては。


真帆路「ありがとう、ございます。」


浅く頭を下げて、

食卓へと体を戻す。

大丈夫。

パパとママがいる。

あの2年間は本当の居場所じゃなくて、

それ以前の18年間が

本当の居場所なんだから。

あたしと会ったらどんな反応をするかな。


ああ、期待ばかり膨らむ。

どれほどの絶望を感じようと、

家族という支えがあるから

頑張れているのかもしれない。


真帆路「…元気かな。」


ぽつりと言葉をこぼした時、

空からも雫が滴り出した。

あれ。

うまくご飯が喉を通らなかった。





***





食後、しばらくは誰もいないリビングで

ぼうっとしようと思っていたのに、

結局あたしが今までどこにいたのかを

問いにきたのだろう、

警察やら何やらが施設に押し寄せ、

そのまま移動し、お世話になった。


誰といたの、どこにいたの。

そんな質問を投げかけられるけれど、

全てわからないとしか答えられなかった。

あたしには、本当にわからない。

誰といたかについては

辛うじて一叶のことは言えたけれど、

あの子がどこに住んでいるかも

誰なのかすらも何も知らないものだから

口を閉ざしたままでしかいられなかった。

場所のことだってわからない。

ほんの数回揺れたことがある程度。

それと、やけに白い空間で

窓もなく閉鎖的だったって事だけ。

そのことも話さなかった。

わからない、知らないと言い続けた。


警察もうんざりし始めたようで、

夕方あたりには離してくれた。

また何かある前に

疑問に思ったことや

思い出したことがあったら言ってほしい。

そんなことを口にしていた気がする。

それから、今年度はやたらと

行方不明の話が多いよななんて

げんなりしながら言っていたっけ。

多くの人は行方不明になりたくて

なっているわけではないけれど、

件数も多くなれば慣れてしまい、

むしろ鬱陶しくなるのも理解はできた。


くう、とお腹が鳴る。

それでも帰る気にはなれなかった。

何となく施設の最寄り駅の近くにあった

ベンチに腰をかける。

ふわり、と人の匂いが香った。

何かと思えば、

着ている服からのようだ。

そっか。

人の服を着ているのだった。


真帆路「あ。」


あ。

そうだ。

あたし、何もない。

もちろん服もない。

住む場所と食事は仮として一応あるけれど。

これでも、恵まれているほうか。


恵まれるって何なのだろう。

2年前までの生活は明らかに恵まれていたと

今となってはわかる。

けれど、こんな状態にならなければ

恵まれていたなんて気づけなかった。

そのはずだ。


悲しいわけではないけれど、

心が浮遊し続けている。

まるでおとといにあたしが

生まれたみたいな、虚無感と浮遊感。

2年間も、その前の18年間も

あたしは変わらず命を抱えて

ちまちまと生きていたはずなのに、

それが無かったことにされたような。


…。

あたし、自分を証明できるものがない。

自分が死んだことを突きつけられた今、

あたしが誰なのかわからない。

あたし、もしかして

伊勢谷真帆路じゃなかったんじゃない?

その名前がたまたま浮かんだだけで、

平岡の知る伊勢谷真帆路は

たまたまあたしと顔が似ていて。

皆、あたしに騙されていて。


…なんて、馬鹿な妄想だよね。

…なんで、こんな馬鹿な現実。


真帆路「…ふふ、あははー。」


乾いた風と一緒に笑ってみる。

あー。

たのし。


人が大勢通りすぎる中、

大声で笑う勇気はなかった。

ふう、と息をついて

駅の方面を見た時、

見たことある人と目があった。


真帆路「あ。」


羽澄「伊勢谷さん!ここで何してたんですか?」


羽澄さんは私服で

大きなリュックを背に

こちらまで走ってきた。

今日も後ろの低い位置でお団子をしている。

いつもの髪型らしい。

いつもの髪型があるって、

まるで、あの子のよう。


真帆路「あたしは、何も。ただ歩いて、それで。」


羽澄「そうでしたか。」


真帆路「…うん。」


羽澄「寒くなかったですか?」


真帆路「歩いてたので、はい、大丈夫。」


ずっと歩いてたなんて嘘で、

長いこと駅の前で座っていた。

気づけば夕暮れは夜へと移り変わり、

日は落ち辺りは暗くなりきっていた。


羽澄「そうですか。ならよかった。」


真帆路「…。」


羽澄「隣、いいですか?」


真帆路「え?あ、はい。」


隣に羽澄さんがそっと座る。

場所は確保されていたけれど、

なんとなく身を引いた。

肩が触れないよう、距離を取る。

羽澄さんは気にしていないのか、

はーっと息を吐いた。


羽澄「ふう、今日は疲れました。」


真帆路「朝からいませんでしたよね。どこに行ってたんですか?」


羽澄「受験ですよ。共通テストです!」


真帆路「え。」


羽澄「全力出してきましたよ!」


ガッツポーズをしてこちらを見るけど、

驚きのあまりあんぐりと

口を開けてしまう。

そういえば昨日、

千聖ちゃんが言っていたっけ。

羽澄さんは3年生だって。

受験、今日だったんだってはっとする。

そういえばカレンダーは1月で、

リビングのテレビやスマホでは

土曜日だと表示されていた。


2年前、あたしたちの世代が

共通テスト初めての世代だった。

周りのみんなも困惑しながら

勉強に励んでいたのを覚えている。

有名な予備校は予想問題を出版していて

それを購入して勉強する人も

いたのを覚えている。


9月。

あたしがいなくなる前。

そうだ、勉強頑張ってたな。


羽澄さんは当時のあたしと

同じ年齢だと言うことに、

自分に対して悲哀の感情を

持つことしかできない。

何も進められなかったことに、

どうしても悔しくなった。


なんであたしだったんだろう。

どうして。


羽澄「実は羽澄、成山ヶ丘高校に通ってるんですよ。」


真帆路「え。あたしと同じだ。」


羽澄「えへへ、嬉しいです!」


真帆路「楽しい?」


羽澄「はい!周りの人がみんないい人で、助けられてばかりです。」


真帆路「よかったね。」


羽澄「はい!あ、そうだ。伊勢谷さん。」


真帆路「何ですか?」


羽澄「友達に会ってみませんか。」


真帆路「友達?」


羽澄「そうです。羽澄と伊勢谷さんの、共通の友達です。」


友達。

そう聞いて、心が跳ねた。


共通の。

そう聞いて、体が前のめりになった。


そんな人、いるのだろうか。

ああ、でも、あたしが高校3年生の時

羽澄さんは1年生なのだから、

同じ学校だし共通の知り合いがいても

おかしくはないか。

部活の繋がりだろうか。

苗字はつらつらと浮かぶ。

谷口、武田、来宮…。


けれど、何故だろう。

会いたいって思わなかった。

思えなかった。

もやもやする。

どうして会いたくないのだろう。


羽澄「ついさっき呼んだので、そろそろ着く頃だと思いますよ。」


真帆路「え、そんな早くに?」


羽澄「昨日のうちから連絡をとった人がいるんです。」


真帆路「そっか…。」


羽澄「伊勢谷さんって、まだあまりTwitterを見てないんでしたっけ。」


真帆路「ま、まあ。」


今ここでTwitterに

何の関係があるのだろうと思ったけれど、

羽澄さんは納得したように

数回頷いて前を向いた。


羽澄「もし落ち着いて、いろいろと整理がついたら、見てみてください。」


真帆路「…?」


羽澄「大丈夫、1人じゃないですよ。」


羽澄さんは花のように、

それこそ向日葵のように

大きく微笑んだ。


1人じゃない。

そうは言うけれど、

なんだかすんなり入ってこなかった。

ほしい言葉ではあるはずなのに、

今はいらないと意地を張っているみたい。


あなたにあたしの何が

わかるって言うの。


そう思ったからだろう。


「…!おおーい!」


小さく俯いた時だった。

遠くからはっきりと聞こえてくる声に

ばっ、と顔を上げた。

反射的に上げたものの、

間違ってはいなかったと思う。

こちらへと向かって

ものすごい速度で走ってくる影。


真帆路「え、えっ。」


止まろうとしないものだから

困惑して手を胸の前で彷徨かせた。

それでも何も変わるわけがない。

その影は少しばかり

こけそうになりながらも持ち直し、

そのままあたしに飛び込むように

抱きついてきた。


初めは、誰だかわからなかった。

知らない人に無意味に

抱きつかれた気分になる。

あたしは人形か何かと

勘違いされているのではないか。

そうとも思った。

けれど、癖のある長い髪が

あたしの頬をくすぐる。

ぐりぐりと首の付け根に

顔を押し付けてくる。

まるで大型犬のよう。


そして。


「たに先輩ぃ…っ。」


涙声ながらに絞り出したその呼び方に、

心はぎゅう、と縮んでいった。


真帆路「…愛咲?」


愛咲「…!そーだよ、そう!うち、愛咲。長束愛咲!」


勢いよく顔を上げたせいで、

癖っ毛が宙を舞う。

そして、真っ赤な耳が、

真っ赤な鼻が、目が見える。


中学の頃のあなたしか

あたしは知らなかったけれど、

随分とお姉さんになったなと思った。

いつの間にか、あたしの身長を越している。

少し上を見なければ

愛咲と目を合わせることができない。


愛咲「本当だ、本物だ…たに先輩っ!」


姿を上から下まで見ては、

またぎゅうと抱きしめられる。

優しいハグではなくて、

人を殺すのではないかと思うほど

力強いものだった。

服はしわしわになり、

骨は軋んでいるだろう。

それでも、全く嫌な気はしなかった。

むしろ安心して、暖かくて、

暑くて仕方がない。


愛咲「よかったぁっ…。」


真帆路「…。」


ただいまとも久しぶりとも

言う気にはなれなかったけれど、

この体温だけで何時間も

語れてしまうように思えた。


心地よかったのだろう。

弱く弱く、抱きしめ返した。

耳元では鼻を啜る音が聞こえる。

そこまで思ってくれる人がいてくれるなんて

思っている以上に嬉しかった。

嬉しい。

けれど、どこか客観的に

ものを見ているあたしがいる。


愛咲は、多分、ものすごく変わった。

性格も見た目も、全部。


あたしはどうなのだろう。

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