昭和20年4月2日 晴れ

どうにも調子が狂ってならないが、今日もまた朝からのことを書く。


寝起きの耳に聞こえる音といえば木々のざわつきと鳥の声だけ、という生活になってどれほどか忘れてしまうほどだが、今朝はガタガタと騒がしい音で目が覚めた。

目をこすりながら外を見やれば日はもう高く、どうにも寝すぎてしまったようだと嘆息した。前日あれだけ無理をしたためだろうが、それにしても老いたくはないものだ。

さて先ほどの音の主は昨日の男に違いない、床の布団は空になっている。

音は家の外から聞こえたので何をしているかと窓から顔を出せば、どうやら尻餅でもついたようで、這いつくばって自分の尻を撫でている。服を泥まみれにするのが趣味とみえる。

私が近寄ると顔を上げ、決まりの悪そうな表情で「モルトー!」だか何だかと言った。挨拶の類か?しかし何語なのかさっぱりわからぬ。

男の傍らに、半ばまで斧が食い込んだ薪が落ちていた。おおかた、一宿一飯の恩返しに薪割りでもしようとした、といったところか。しかし、一昨日までに私が割った分から碌に進んでいないようだが……


そんなことよりとにかくこの男が何者なのかを知りたい。お前はどこからきた何者なのか、どうしてあそこで倒れていたのか、試しにドイツ語で誰何したものの、ぽかんとしている。拙いながら英語でも聞いてみても反応に乏しい。

こちらの渋い顔を見て何を焦ったか、男は聞いたこともない言葉で身振り手振りまくしたてた。どうやらこの男はジャイル・サント?とかいう名前らしい、ということだけは分かったが、それ以外はさっぱりであった。

互いに通じない会話を辛抱強く続けて、また頭を抱えた。独語英語が通じないのは分かったが、それにしても、「二ホン」「ニッポン」「ジャパン」「ジャポン」「ヤーパン」「ジパング」と一通り言ってみてもどれひとつとして聞いたことがないような様子とは一体どうしたことか?外国の名前でも結果は変わらず。未開の奥地の出身ならいざ知らず、このジャイルとやらはどう見ても白人だ!

ジャイルも私の言わんとしていることが何となく分かったようで、国名か地名と思われる単語をいくつか並べ立てるが、聞き馴染みのないものばかりである。「キナイ」という地名もあったが十中八九「畿内」とは無関係だろう。こいつはこいつで困った顔をしていたが、お前に困られては私はどうすればよいというのか?


今日はそれ以上考えるのに疲れ、とりあえずは夕刻まで薪割りをさせておき、麦飯とすいとん汁を食わせておいた。白人の口に合ったかどうか知らないがおとなしく食べていたようだ。食い終わったと思えば薪割りの疲労からか身体も拭かずにまた寝てしまった。


そういえば昨日の奇術のことを聞くのを忘れていた。また明日聞いてみるとしよう。何を言っているのかわからぬかもしれないが。

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