昭和20年4月1日 晴れ

今日は大変な一日となった。

腰は痛むし膝も擦り減り、おまけに明日からのことを思うと頭も痛いが、この様な時こそ習慣を崩さぬことが肝要と念じ、今日も怠けず日記をつけることとする。


雲一つ無い朝、いつもの様に裏の小川に水を汲みに行ったが、枯れ葉や泥の濁りで流れが汚されていたので清い水を選り分け汲むのに難儀した。

昨晩から今朝まで雨風ひとつ無かったというのに何が小川を乱したか?と訝り、ふと思い出す。前にも小川が濁った時には、上流川岸の雑草が剥がれて地肌がむき出しになっていた。何かの獣が巣穴でも掘ろうとしたのであろう。

今回はあの時よりひどい、狐や狸の仕業ならともかく、もし飢えた熊でも近くに来ているならたまったものでない。確かめておかねばならぬ。

上流へ登ること数分(熊やもしれぬのに獲物がナタ一丁ぽっちは今思えば不用心に過ぎた)、流れの途中に小池ができているのが見えた。差し渡し一尺ほどで硬貨のごとく円い、あんなものは昨日までなかったはずと首をひねるも、小池の縁に人が伏しているのが見えるや、その疑問は放り投げて駆け寄った。


そして、水を吸った服がずしりと重い男を担いで老体に鞭打ち家まで運び、今に至るという訳だ。


こうして書いてみると桃太郎でも拾ったかのようだが、今布団に横たわって寝息を立てているのは稚児ならぬ大男である。齢については、子供でも年寄りでもない、としか言えぬ。


なぜ言えぬかといえば――我々東洋人からしてみれば、白人の齢は見た目からはどうにも分かりにくいからである。

そう、この男、白人である。

全く厄介この上ない。


髪は金髪。先ほどつかの間目を覚まし、私が差し出した水をむさぼり飲んでまた眠ってしまったが、開いた目の色は青かった。泥に汚れた丸眼鏡越しではあったが確かにそう見えた。

さて、今のこの時局で、どういうわけで白人がこんな田舎の山中で行き倒れている?

この男は果たして何者か?

もし友好国たるドイツ人なら、疑問はさて措きまあよいだろう。あるいはその血を引く日本人としてもよい。

だが、もしアメリカ人やイギリス人だったなら、今こうして介抱している私の立場は危ういのではないか。


それが分かっているならさっさと山を下りて麓の村の駐在なりに通報すればよかったのだ。男を背負っての下山は無理だが、男が逃げぬよう手足を縛るなりしてから自分だけ下りることもできた。

だがそうはしなかった。そうしていたなら間違いなく騒動になり、その渦中にいる私には否が応でも村の輩があれやこれやと言葉を投げてくるだろう、と思うと、どうにも腰が重かった。自分の剛強な偏屈さに我ながら呆れる。


しかし、実際この男が何者なのか、全く見当がつかぬ。どう説明したものか考えあぐねたのも通報しなかった理由のひとつだ。

米兵だとするならどこから来たのか?この辺りで米軍機が墜ちたという噂は聞かない。そもそも空襲警報すらとんと出ぬ。

かと言って、では間諜か何かか?といえばなおさら考えにくい。金髪碧眼の男を日本の寒村に寄越して目立たぬと思っているなら米軍は大馬鹿だし、何よりこの男の服、一言で言ってチンドン屋である。

生成りのシャツに茶色のズボンとゲートルはいいが、その上から羽織る外套が奇天烈である。裾が膝まで届く長さの真っ青な布だ!素材は知らないがてかてかとしていて艶光が目に刺さるほどである。

濡れ鼠のうちはわからなかったが、風邪をひかぬよう脱がせて軽く泥を落としてみると青外套の奇妙さが際立った。軒先に干しているが、もし山の木がまばらだったなら麓の村からでも見えただろう。

縫い合わせが少し、いや大分破れてしまったが、元から左脇腹に大穴が開いてしまっていたし、それに濡れた服を気絶した大男から引き剥がす労苦をこの年寄りに強いたのだから、一切文句は言わせぬつもりである。


そして帯革にじゃらじゃらと括られた何に使うか見当もつかぬ真鍮の金物やら小箱やらの一式。奇術か何かの小道具にも見える。


あぁそうだ!この男は奇術師に違いない。今すとんと肚に落ちた。

してみると、あれも奇術だったのだろう。


どうにか家に運んで寝かせ、水を飲ませたところで男が身を縮めて呻き、そこで初めて男の脇腹に大きな傷があるのに気付いた。血塗れの大きさは掌ほどもあり、かなり深手のように見えた。

だが、男が自分の手を傷の上に重ねて何事かぼそぼそとつぶやくと(何語かは聞き取れず)、どう言ったものか、男の手が「光った」ように見えた。瞬き程度の間、蛍ほどの燐光ではあったが。

そうして男が手を除けると、なんと傷など影も形もなし、残っているのは外套の大穴のみ。

今のはなんだ、と私が聞く間もなく男は糸が切れたように布団に倒れこみ、今もまだ寝続けている。

傷に見えたのは泥か何かが付いていただけ、手が光ったのは疲れや混乱からの見間違えだろう、とその時は思った。しかし、全て奇術だったとすれば一応の道理は通る。


と、道理を通しておいてなんだが、おそらくは溺れて死にかけてさえなおも一芸見せるほど、欧州の奇術師というのは酔狂者だろうか?


この男本人から聞かないことには何もわからない。結局はそういう結論に戻ってきてしまうか。


今日はだらだらと書きすぎてしまった。思いもよらぬことに、年甲斐もなく興奮しているのだろうか。

一歩間違えればこの男は今頃ドザエモンだったかもしれず、米英の疑いも消えてはいないのに、我ながら呑気なことである。


しかし全くよく寝ている。あれから一度も起きないから粥も自分で食べてしまった。

流石に明日になれば目を覚ますだろうから、そこで存分に問い質そう。言葉が通じるとよいのだが。

その前に眼鏡ぐらいは拭いておいてやることにしよう。


今眼鏡を外す時にまた思ったが、それにしても、妙に尖った耳である。



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