第四話 母、狂う
中学校生活も残りあと僅かを迎える頃、母が再婚をすることになった。
相手は温厚でもの腰の柔らかい、母より一回り、歳上の男性だった。以前、母がホステスをしていたときの顔なじみのお客さんである。まるで提灯屋台の暖簾をぐぐる時のような気さくさで訪ねに来ていたという。生臭くて、俗臭の匂いのばかりするそのような場には正直、似つかわしくない人間だったと言うが、足繁く通う、その理由を後に、母は意外な形で知ることとなった。
偶然にもお互い、二度目の結婚だった。
母は吃音持ちの息子を、義父は、大学に進学する娘さんを連れていた。無論、吃音持ちなどではない。明るく、ものを話す子だった。
相手にも連れ子がいることを知って母はどこか、安堵しているようにも思えた。自分ひとり、不備を抱える息子がいることに引け目を感じていたのかもしれない。初めての顔合わせでは、義理の娘となる彼女に、母は甲斐甲斐しく接していた。
緊張もすっかり、解けた頃だった。不意に彼女が、ぎこちなく「お、か、あさん」と呼んだ。酷く不慣れな、その言い方に顔を真っ赤にしている。もしかしたら、そう呼ぶのに、特別の思い入れがあったのかもしれない。
彼女のその声に、母は小さく、でも優しく、返事を返していた。その頬は薄紅色に染まっていた。
二人が親子になるのに、そう時間は掛からないだろう。
二度目の顔合わせには、自分だけ一人、遅れてその場に駆けつけた。そしてそこで、既に三人はもう本物の家族になっていた。
母は義娘と腕を組んではしゃいでいた。照れくさそうに、でも、とても嬉しそうに。
義父はその様子を見守るようにして、見つめている。目尻が、うんと垂れていた。
大学の入学式で着る服を選びに、今度、いっしょに出掛けるらしい。ついでに、揃いのスニーカーを買うらしい。その後で美術館にも行くらしい。ランチもするらしい。カフェにも寄るらしい。時間が足りないらしい。義父の車の送り迎え付きらしい。
「二人でゆっくりしてきたらいい」と言葉を差し伸べている。これの光景のどこが、家族にならないのかがわからない。
母が楽しそうに笑っている。このような笑顔を見せることなど、滅多になかった。
不備だらけの息子を持ってしまったけれども、ようやくここで母は、心を置ける人たちに巡り会えたのだ。上手くゆく。きっと上手くゆく。母の第二の人生はいいことばかりだ。
中国料理店の、個室の一画。開き戸の奥は希望に満ちている。潰えてしまわないよう、その薄開きの前で自分は強く強く、願わずにはいられなかった。
母には、幸せになる理由があった。
かつて母は、若くして結婚をした。しかし、その生活も長くは続かなかった。原因は父の非行によるものだ。母は父に夢中だったけれども、ピアノ奏者の道を諦めきれなかった父は、家族を捨て残し、他の女性へと逃げ出した。二十代半ばで母は片親となり、まだ幼い自分を連れ、祖母の住む実家へと身を寄せた。
母はすっかり、やさぐれてしまった。家で煙草ばかり吸い、酒に頼るようにもなった。ふとした拍子でヒステリーを起こし、その目つきだけが鋭くなっている。テーブルの上にウイスキーの小瓶やビールの空き缶が散乱する度に、祖母は、母の腕を掴み上げ、叱りつけた。しかし、母は逆上し、腕を振り払うと、そのやり場のない気持ちを、今度は祖母に向けてぶつけた。袖口を引っ張り、激しく取っ組み合う柔道家のように、二人の衝突は絶えなかった。
決まってそういうときは、襖の奥へと、自分は身を隠した。自分の容姿や、その造形がまた、おそろしく父のものとよく似ていたからだ。母のその、憎しみの矛先が、いつまた、自分に向けられるかもしれない。酩酊した末の母は何をするかわからなかった。そこでの生活は常に誰もが一発触発の状態だったのだ。
実際に、自分に対し母が狂うさまを、幾度か見せつけられたことがあった。
父の顔と同じ位置にある自分の鼻根のホクロを糸切りバサミで取り除こうとしたり、父と錯覚し、首を絞めようとしたり、かと思えば、窒息しそうになるほどきつく、急に抱きしめたり、その行動は常軌を逸していた。
祖母に頬を引っ叩かれた母は、そこでようやく正気をとりもどした。力無く、今度は自分を抱き寄せると、赦しを乞い、そして、声を押し殺して泣いていた。自分は放心状態のまま、その、葉擦れのように物哀しい、枯鳴に耳を奪われていた。母の心は未だ、厳冬にある。ぱりん、ぱりん。母の心が割れてゆく。その身に憎しみだけを留めておけるような、強い人間ではなかった。不憫なのはどちらだろうか。母を恐ろしいだなんて思わなかった。
嵐が来たかと思えば、今度は泥舟のように沈み込む。激しく浮き沈みを繰り返す母の胸のうちは底が知れない。危うさばかりを、いつも、その身に残す母に甘えることは幼心にも気がひけた。それでも、そのような母の中にも母性というものは存在した。年に一度の息子の誕生日。そのときばかりは、その優しい顔を覗かせてくれた。本来の母の姿だ。
一緒に近所の玩具店に行き、そこで、戦隊ヒーローのフィギュアや超合金のロボット、何でも好きなものをどれか一つ選ばせてくれた。リボンと包装紙で包まれたそれを手渡してくれると、母は「おめでとう」と言って微笑んでくれた。それが何より、嬉しかった。
店を後にすると、その先の洋食店まで二人で手を繋いで歩いた。
「なに食べようか」
「な……な、な、なんでもいい」
「じゃあ、ハンバーグにしようか」
「うん」
本当はこのままずっと、お母さんと歩いていたい。
その言葉は飲み込んだ。
ご馳走を待っている間、母は、努めて明るく自分に接してくれた。
コーラをおかわりしてくれたり、フレンチフライを一緒につまんだり、母の表情はいつもと違い、ゆるんでいる。顔色を探り、気を揉んでばかりいる毎日だったけれど、その日だけは母に甘えても許されたような気がした。それは、どこにでもある親子の団らんなのであろう。けれども、自分にはとても貴いものだった。
「今度、近くの河川敷のグラウンドで、自転車の練習をしよう」母はそう言って約束してくれた。語気を跳ね上げ「特訓だよ」と、ガッツポーズを見せたので、自分は大きな声で「うん」と返事を返した。母との共同作業だと思うと胸が高鳴った。自転車に乗れるようになったら、三段変速ギアつきのスポーツタイプを買ってくれると言う。二人で名前も決めた。
「グッ、グッグッ、グリーンファルコンごう」
グリーンは母の好きな色。いつか、それに乗って、母と二人でサイクリングをするのが小さな夢だった。
ハンバーグが運ばれてくると、自分はそれを一生懸命、口の中に運んだ。こども心に母と過ごすその時間を、自分は意味のあるものにしたくて、ハンバーグを精いっぱい噛みしめた。ナイフ。フォーク。ナイフ。フォーク。人参もしっかり食べよう。
「たくさん食べなさい」
そう言って母は、そちらの分のハンバーグを半分ほど切り分け、自分に寄越してくれた。
母の皿は手つかずのままだ。ナイフとフォークはテーブルの上に置かれたまま。母は自分のことを凝視している。その視線の先で、母が一瞬、肩を震わす。自分は、その瞬間を見逃さない。自分の、この容姿や素振りが、母をそうさせている。父に似ることが罪だということはじゅうぶん過ぎるほどわかっている。それでも、今日ぐらいは余計な感情を割り込ませたくはなくて、自分はハンバーグに喰らいついた。
ナイフ。フォーク。噛んで、ナイフ。フォーク。噛んで、噛んで。ナイフ。フォーク。噛んで。噛んで。噛みしめて。
今はただ、この時間を噛み締めたかった。
「そろそろ、帰ろうか」
「うん」
結局。母は自転車の約束など、すっかり忘れてしまっていた。でも、それでもいい。また、一緒に手を繋いで、ここにハンバーグを食べに来れれば、それでよかった。自転車に乗れないくらいで、ひとは死なない。
母は生活の為、昼間はパートで働き、週の半分はホステスとして、夜の繁華街へと出掛けていった。早くして祖父を亡くし、主人不在のつつましい長屋の一軒で、自分は、祖母と二人で母の帰りを待った。
祖母は厳格な人間で、孫である子どもの自分に対しても、容赦がなかった。
「おまえには父親がいない」「卑屈な人間にはなるな」「そのようなことでは、だめだ」「自分のことは、自分でできるようになりなさい」
母の手を煩わせないよう、その留守の間、自分は祖母に厳しく躾けられた。
自分は、人より、強く生きてゆかねばならなかったらしい。「強く」とはどういう意味だろう。子供ながらに真意が解りかねた自分は、それは「力もちになれ」ということかと問うと、祖母に「違う、心のことだ」と一喝された。「気持ちをしっかり持たないと、でないと大変な目にあう」
祖母の眼がおそろしいほど、真剣なものだったので、自分はその言いつけの数々を一生懸命に守ろうとした。その為に、自分は誰よりも人一倍、努力する必要があった。今になって、祖母の言わんとしようとしたことがよくわかる。
祖母は「母親のように決してなるな」と言う、その一方で「母のことを赦してやっておくれ」とも言う。祖母が何を思って、そう言ったのか、その気持ちも今更ながら、自分には痛いほど理解できた。
がじゃあっ……。玄関口で戸を乱暴に引きずる音がする。母が仕事から帰ってきた合図だ。鼻歌をうたっている。なんてめずらしい。何かいいことでもあったのだろうか。手には、アイスクリームの入った手提げをぶら下げている。まるで、給料日帰りの父親のようだ。
酒と煙草の匂いを、ぷん、と漂わせる母。物を蹴り飛ばし、人にあたる母。目の下に隈をつくり、頬が尖り、鎖骨の浮き出ている母。自分はそんな母の背中をずっと追ってきた。
我が家の家族の肖像には、いつも父親の姿がなかったけれど、それでも、こうして今日も無事に母が帰ってきてくれたのならば、自分はそれでよかった。
いつかその先に再び、母が本当の自分を取り戻せる日が訪れるのだと信じることができたのだ。
しかし、そんな願いの日々も長くは続かなかった。
小学校も高学年になると、自分の姿はもう既に、父に倣ってミニチュアの模造品のように出来上がっていた。血は抗えない。まっすぐ通った鼻筋に、垂れた目尻。富士額。ほうき草を思わせる天然の巻き毛。声質。遊びのない目つき。おどおどとした上目遣い。そのどれもが、いやでも父の面影を思い出させてしまう。
母はそのような自分から顔を背けた。
学校へ行くと、教室でクラスメイトたちが、自分らの母親への嫌悪感を口にしていた。
「○○ちゃん、て呼ばないで」「もう、手なんか繋いで歩きたくない」「友だちといるときは顔を出すな」「うるさい」「ばばぁ、むかつく」
平然と、そう言ってのける彼らの言葉に胸を痛めていたけれど、良く考えてみれば、あたりまえだけれども、自分もそう言っていてもおかしくない歳ごろだった。
自分はただ、母にあやまりたかった。父に似てしまったこと、内気な性格へと変わってしまったこと、上手く喋れないこと、その所為で母を暗い気持ちにさせてしまうこと。無数のごめんなさいがこみ上げた。けれども、言うことができなかった。悲しみがこみ上げて、むやみに言葉を詰まらせた。なにも伝えることができなくて、ずっと、母の背中ばかりを見ていた。
そういうところなのだ。何からなにまで父に似る。余計なものまで父をたどる。
「吃音」もそう、そのうちの一つだ。父親譲りだった。
奇しくも、小学校生活で心を挫いた経験をしたのと同じ頃、この容姿の問題にも追い討ちを掛ける出来事が起きた。冬のしんしんと冷え込む夜更けのことだった。寒さで目を覚ますと、襖の向こうで母と祖母の会話が聞こえた。
「お前がそんな態度では、あの子がかわいそうだろうに」
「……わかってる」
「おまえの身勝手で産んだんだ。あの子に罪はないんだよ」
「……わかってるってば」
「わかってる、わかっているけれど……」
「忘れられないのかい」
「………」
「……まだ、未練があるのかい」
「……うん」
「まったく、馬鹿な子だよ。本当に、おまえって子は」
かすかに鼻を啜る音が聞こえた。ずるずる、ずるずる。「今日は呑もうか」祖母の声。それっきり二人の会話は途切れた。
わずか数分にも満たないやり取りだった。そこで自分は全てを悟った。
母は父を忘れたかったのだろう。でも本当は、忘れたくはなかった。
自分がいると母は父を忘れられない。自分がいる限り、母の心は父のことを追い続ける。
一生懸命、そのことを理解しようとしたけれど、次第に胸が苦しくなった。張り裂けるように胸が痛くなった。
歯を食いしばった。涙が溢れ出した。苦しくて、苦しくて、叫びたかったけれど、枕に顔を埋めて必死にやり過ごした。
聞かれてはならない。
聞かせてはいけない。
そのまま、自分は気を失っていた。
中学三年生になったばかりの頃、母から再婚を告げられた。そのとき、母の心は氷解するのだと、その目からは伝わってきた。とても、きれいな瞳をしていた。再起を誓う目だった。母は前を向いて歩いてゆける。だからもう、苦しみに囚われてはいけない。自分はそれの邪魔をしてはいけない。
この容姿の問題と向き合うべきときだと思った。
今、目の前で、扉の向こう側にいる母は、とても、いい顔をしている。そこには自分の知らない母が居て、そしてそれは。在るべき母の姿だと思った。自分は、そのような顔を母にさせることができなかった。自分には、それはどうしても果たせないことだった。葛藤はあった。でも、母が笑っているのだから、それで良かったのだ。
少しずつかもしれないけれども、母は、これでもう、父という存在を忘れて生きてゆくことができるはずだ。だからこそ、自分も、もうそこに居てはいけない気がする。母の人生なのだ。その出口を閉ざしてはならない。心よく、送り出そうと決めた。
「どうか、安寧の日々を手に入れてください」
三度目の顔合わせは辞退した。
それが自分の出した、答えだった。
母と祖母と住んだ町では、近くの河川敷の土手を登ると、群生するカラシナの花を見渡すことができた。春になると、黄色く染まるその絨毯を、母に手を引かれ、そこで眺めることが多かった。幼い頃の記憶だ。
土手っ腹で、膝を抱える母。その眼は、対岸のカラシナを超えて遥か向こうを見ている。話しかけても返事がない。母は前を向いたまま。自分も一緒になって、そちらを見ていると、不意に、「お父さんに会いたい?」と訊かれた。「ううん」と答えた。「おかっ、あ、さんは?」と訊くと、やはり何も答えない。しばらくして母は「ごめんね」とだけ言った。自分にではなく、その視線の先の向こうへと。
そうして母は、自分を抱き寄せると、そっと自分の顔に頬を寄せた。風に乗って、髪の毛のシャンプーの匂いがする。母の腕の中は穏やかだった。
「ねぇ、ミチロウ」
「な、なぁに」
「おかあさんのこと好き?」
「う、うん、だ、だいすき」
「ありがとう」
「おかあさんもだよ」
そのときの母の温もりを、今でも自分は記憶の中で追い続けている。
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