第三話 吸血鬼の言うことには
待ち合わせ場所の居酒屋が入る雑居ビルの前に辿り着くと、そこには垢抜けた女子たちが立っていた。誰もが、艶のある手入れの行き届いた髪を伸ばし、綺麗な白い肌をしている。チェック柄のワンピース。海色の春セーター。カーキのジャケット。濃黒色のプリーツスカート。それぞれが、真新しくて、春めいた装いに袖を通している。どこか見覚えがあると思っていたら、ワイドショーの確か、お洒落な街ランキングのコーナーだっただろうか、このような人たちがカメラの前で、くるり、と回り、ポーズを取っていたのを、休憩室のブラウン管越しに、ふと、目にしたことがあった。
彼女たちは示し合わせたかのようにして、つま先から頭の天辺まで、靴の色から髪型まで、誰一人として、また、同一のものが見当たらなかった。時間を掛け、自分をより良く見せようと鏡の前で試行錯誤していたのかもしれない。人知れず、そこには女性としての意地や苦労があったのかもしれない。
「わたしを見て」「わたしが一番」
すらりと伸ばした手足からは、確たるや、強い意志が伝わってきた。
横に並ぶ先輩たちは、鼻の下を伸ばし、にやにやしてばかりだった。こうも、男は単純である。仕事が生きがいかのような、真面目な性格の斎藤さんが腰の横で小さくガッツポーズを握っている。驚いた。このような場所に来ること自体、不思議でならなかったが、斎藤さんも男であったか。隠された一面を垣間見たような気がした。
呑気に周囲に興味を移している場合ではなかった。そっと上着のシャツの襟を正した。
「はじめまして、今日はありがとう」
杉田さんが慣れた口調で挨拶すると、女子たちは一斉にこちらに向けて微笑んだ。そのうちの茶色い髪をしたジャケットの女性と、ふと目があった。
とりすましたように落ち着いた表情をしているが目線だけが忙しなく十字を切っている。もう既に、まるで品定めをされているかのような、そんな気がしてならない。深々と頭を下げると、思わず、ぞぉっ、として背中にじっとり汗をかいた。古着屋で購入した最安値の上下セット。ダサかっただろうか。髪の毛に整髪料を吹いてきてみたけれども、やり過ぎたかもしれない。粉になって残っていたらどうしよう。そんなことを思っていたら、途端に不安に駆られた。数年ぶりに履いた黒革のブーツも、その踝の部分が妙に痛い。
合コンとはまた、縁遠い自分であった。顔を合わせただけでこの調子である。このようなことで最後まで自分の気持ちは保つのだろうか。先が思いやられた。これもまた、合コンのプレッシャーなのかもしれない。
試験会場の前でお守りを握りしめる学生のような気持ちで入り口への階段を登る皆んなのあとを追った。
合コンに誘われたその日の晩から三度、続けて同じ夢を見た。
自分は真っ暗い墓地のような所に立っていた。その場所からは大きな長い橋が伸びている。橋の向こうはキラキラと輝くネオン街が広がっていた。自分はそこに向かおうと、橋を渡ろうとするのになぜか足に力が入らない。一歩たりとも動かない。
困っていると突然、地面から、にょきっと看板が生えてきた。身の丈ほどのその看板には「おくびょうものはわたるべからず」記されている。どういうことだろうか。
するとそれを目にした途端、胸が締めつけられるように痛み出した。
あの「発作」だった。
苦しみに悶え、「誰かっ!」と叫ぶと今度は、すうっ、とドラキュラ伯爵のような姿格好をした男が現れる。男はゆっくりと自分の胸に手を触れると、胸の苦しみが何事もなかったかのように、スッと消えた。その所業に不思議と驚きも恐怖も感じなかった。
男の顔はどこか見覚えのある顔だったが思い出せない。触れた手を再びゆっくり元に戻すと続けて男は口を開いた。
「心の弱いあなた様は橋の向こうへと渡ることはできません。その脆弱な心では向こうの世界に行ったとて五分と、もたないことでしょう」
「そんな……」
「お願いします。渡らせて下さいっ」
「どうしてもと言うのでしたら、代価を支払って頂きます」
「代価……」
固唾を飲んだ。
「それはあなた様の"喉''でございます。あなた様のその喉を頂けたならば、その足を動かせるようにして差し上げましょう」
男は更に続ける。
「分相応と言う言葉をご存知でしょうか」
「もしあなた様が橋の向こうでそれに足る存在をお示しになられたのであれば、何も問題はございません」
「 た 、だ 、し…… 」
(た、だ、し、?! ……)
「もしそうでなかった場合はあなた様の、その喉はわたくしの"喉"となりますゆえ、何故、ご了承くださいませ」
「いかが致しますか」
男は無表情のまま問いかけた。
「行きますっ!行かせて下さい!!」
懇願するように口から言葉が、考えるよりも先に飛び出した。
「かしこまりました」
男はこちらの喉元に、そして次に太腿あたりに手を当てた。すると突如として奇声を発し、笑い出した。
「ヒーッ、ヒッヒッヒッヒッッッッ!」
「くれぐれもお気をつけ下さいませ!代償とは時に思いもよらぬ形であなた様の元へ舞い戻られるでしょう」
男の口角がみるみる吊り上がり、裂け始める。生肉を手でむしり、引きちぎったかのような男の顔は、それはそれは恐ろしい悍ましい顔になった。
あまりの恐怖に、ようやく動いたその足でドラキュラ男の元を一目散に逃げ出した。
パニックで足に力が伝わらない。蹴っても、地面を蹴っても蹴ってもつっかえて、転びそうになって、それでも、死にもの狂いで走り続けた。もうどこを走っているかもわからない。
そうして、ひたすら、自分はドラキュラ男のもとから逃げ続けていた。
恐ろしい夢だった。まるで、自分の行く末を暗示するかのような夢であった。心の不安がありありと、そこには表れていた。
自分の吃音が「気持ちの悪い病気」だと言われたのは小学生のときだった。人との距離を縮めたいと願う反面、心のどこかでは、そうすることへのトラウマが、未だ拭えずにいるのも事実であった。あの経験が今でも変わらず、
自分は病気なのかもしれない。不安は膨らむ一方だった。この苦しみを理解して欲しい。それなのに、周囲の人間にはそんなふうに思われたくなかった。
とても矛盾していた。
公言してしまえば、楽になるのかもしれない。病院で診てもらうことの方が最善であるはずなのに、一向に、自分の足はそちらには向かなかった。
苦しいのに人の輪に入ることを止めない。止めないのに逃げ出そうとする。それがわかっていながら、また手を伸ばす。
全てが矛盾していた。
自分の吃音は、獲物の背後に忍び寄る肉食獣のように、じっと隙を伺っている。ひとたびそこに、脅えや不安といった要素が入り混じると、途端に牙を剥く。更にも増して襲いかかる。とても恐ろしい「病気」だ。
自己紹介を無難に終えると、和やかな雰囲気のもと、合コンが始まった。隣り同士になった女子とは直ぐに打ち解けることができた。なんか会話が楽しい。連休の予定を尋ねると旅の話題となり、お勧めの観光スポットを教え合った。
港の見える丘の公園、最果ての展望台、渓谷のロープウェイ、神秘的な洞窟、汐風の賑わう海岸線。共にどこへでも巡り、旅路が尽きることはなかった。
すっかり、くつろいでいる。ほどよく肩の力が抜けた自分が、そこにはいた。自分の中にそのような一面が存在していることに驚いたけれども、とても自然体でいられた。そうやって笑顔で話し合える相手が欲しかった。
一緒に顔を近づけてメニューを見ていると、ふわぁ、と彼女の柑橘系の香水のいい匂いがした。互いの肩と肩とが今にも触れ合いそうな距離に身を寄せ合っている。ふと、知らない名前のカクテルがあったので不意に声に出そうとすると、ふと、また、彼女の声と、ぴたりと重なった。思わず顔を見合わせ二人でにやけてしまう。笑えてしまった。意味もなく、それが嬉しく思えた。
彼女は、自分のことをどう思っているのだろうか。いつの間にか、下の名前で呼び合っている。合コンで、そういうのは普通のことなのかどうか自分にはわからなかった。わからなかったけれど、彼女も自分も、お互いに、その席を離れようとはしなかった。何時間でも、飽きることなくそうしていられた。
手を伸ばせば触れられそうな、この感覚がいつまでも続いてほしい。終わらないで欲しい。これが、心を通わす、ということだろうか。隣りに誰かが要てくれる。自分にはそれだけで貴かった。胸の内で、二次会を切望している自分がいる。もちろん彼女と一緒に行きたい。財布の中身、全部、使ったって構わない。
「合コン」とは、そういうものだと聞いていた。
しかしながら「例外も」あった。
そして、その「例外」に、自分は見事に当てはまった。
誰もが胸躍らせ、ときめかせる、その場所で結局、自分は人との関わりを持つことができなかった。頑張って、喋っても、自分の「吃音」は全てを吹き飛ばした。
隣りに座る茶髪の女子に赤面し、吃り続け、そして最後には愛想を尽かされた。滑稽だと思えるくらい、何一つとして自分を変えることなどできやしなかった。
自分の「それ」は、それは酷いものだった。緊張し、やはり焦り、ところどころで声まで裏返した。怪奇じみた吃音で不気味さまで増すのだから、彼女が露骨に不快感を示すのは仕方のないことだった。
「とんでもないのが来た」とでも言いたげな顔をする彼女に、自分は、狼狽え、吃音を
「近寄るな、山へ帰れ」
男は必死に誤解を解こうとするも、彼女は石を投げつける。
とても悲しい気持ちになった。
入り口で値踏みしていたときから既にもう、彼女は唯ならぬ不安を感じていたのかもしれない。落胆したに違いない。
合コンで隣り合うには、あまりにも、あまりにも、あり得ない相手だと思ったことだろう。端っこに座る彼女に、逃げ場は無い。吃音の餌食だった。
けれども、その目に苛立ちが露わになるのをわかっていて自分は喋り続けた。自分がここに来た意味を、決意を、こんな簡単に潰されてなるものか。
諦めないとか、自分を信じるとか、後悔したくないとか、そのような、せめてもの美談にするようなものなどではなかった。もっと切実だった。絶望的な気持ちだった。こうでもしなければ、自分にはもう生きている価値は見出せないと思った。大袈裟かもしれない。たった一日の、それも、わずか数時間のことなのかもしれない。けれど、そこに至るまでの経緯と苦悩があった。その数時間はただの、たったそれだけ、では済ますことはできなかった。自分のこれからの人生の局面を左右する、一生分の重みがあった。
それなのに、どうしようもなく、この口は、しびれる。忖度をしない。時と場所を選ばない。酷い悪さをする。容赦はしない。どこまででも、しびれて止まない。
しびれ口。わかっている。残酷すぎる。
彼女の耳がしびれる。彼女もまた、しびれた。しびれて、しびれて、そして、しびれを切らした。
チッッ
「もう……いい加減にして」
そう告げると席を立ち、そして、彼女は自分の隣りを離れて行った。舌打ちをされたのは初めてのことだった。
きっと彼女は真剣な気持ちで、ここに出会いを探しに来たのだろう。自分も痛々しいほど真剣だった。けれど、それを伝えたところで、絶対に理解してはもらえない。
土俵にすら上がれなかった。もう、どんな顔をして良いかもわからない。目の前の皿の、誰も手の付けていないブロッコリーの茹で株を、自分は口いっぱいに頬張った。好きでもないし、味もよくわからない。でも、そうして何かをしていないと、椅子から膝ごと崩れ落ちそうだった。
呆気なかった。本当にあっけなかった。
それからして例の如く、その場で自分は周囲の人間に笑いものにされた。
場を煽動したのは杉田さんだった。状況を知って血が騒いだのであろう、囃し立て、毒を吐き、自分の吃音の真似ごとをすると、周囲の人間を爆笑させた。標的を定めると杉田さんは暴れ出す。サディスティックこそが杉田流だ。その端正な顔立ちからは想像できない歪んだ嗜好だ。
彼がメニュー表に指を指すと、周囲の顔色が期待に染まる。その空気に自分は抗えなかった。
注文口で、吃ると、その場が、どぉっ、と沸く。
「キッ、キッ、キキッ、キッ、キッ、キキキキッ、キッッ、キールッ、ロワイッ、ロワライッ、ロワララヤッ、ロワラララッラララライッ、ンンッ、ロワイッ、イッ、イッ、イッ、ルワイヤッ、ロワイヤルッ」
「キールロワイヤル」たったそれを言うのにニ十秒、どもり倒した。
店員さんが笑いを噛み殺し、カーディガン女子は涙目になっている。顔を向け合う、他の女子。斎藤さんの口の端からはタイ風春雨がこぼれ落ちていた。
茶髪女子は杉田さんの隣りへと身体をねじ込ませていた。あたかも、最初からそこが自分の席であったかのように無遠慮に、そこで彼女も一緒になって大笑いしていた。
「よっ!!セキヤーっ!!」
合いの手が入ると、大きな歓声が起こる。普段、自分の吃音など一瞥する程度で、気にも留めない先輩たち。彼らは今日に限っては陽気だった。あいつらめ。女子たちに向け、示し合わせたかのように目配せしている。
「余興の一つでもどうぞ」彼らの意図が透けて見えた。
なるほど、そういうつもりでもあったか。
皮肉にも、その日、一番の盛り上がりをみせた。そのご期待に、自分は沿えられましたでしょうか。
この合コンに、並々ならぬ気持ちで臨んだこと。自分は変われると本気で思っていたこと。そう信じて決断したこと。そうやって一人、勝手に、悦に入っていたこと。馬鹿みたいに思い上がっていたこと。ここに来たこと。ここへ来たこと。自分は一体ここへ、何をしに来たのだろう。
誰一人として、名前すら呼んでいない。もはや、もう、笑けて泣けてきた。喜劇だ、いや、茶番か。滑稽でしかない。涙が垂れて仕方がない。困ったものだ。どうしたものか。この涙に意味などあってたまるか。強く自分に、そう言い聞かせた。
込み上げるものをひた隠そうと、顔を伏せた。杉田さんたちに声をかけられたけれど、なぜか自分はもう、顔を上げることも、言葉を発することも、ままならなくなっていた。そうして気づけば、自分に興味を示す者など、もう誰もいなくなっていた。
席ひとつ隔てたその場所で、合コンは滞りなく進行されていた。それぞれが出会いを満喫していた。無邪気に笑う者。熱く語る者。下心が漏れ出す者。思わせぶりな態度を取る者。つい今しがた、会ったばかりの者たちがこうして、互いの距離に肉迫している。
本来の「合コン」の姿がそこには在った。
茶髪女子はなにやら、杉田さんと、密接な雰囲気を作り出している。手を取り合い、頬を緩ませ、会話を楽しんでいた。想いを成就させた彼女はとても幸せそうだった。敵意をむき出しにする、村人の彼女はもう、どこにも見当たらなかった。
自分はただじっと、そこで、うんうん、と小さな相槌を打っている。気持ちだけは会話に参加しているつもりでいた。馬鹿みたいだ。ニヤニヤして気持ちが悪かった。ビールのグラスが空になっている。気付いてくれる者は誰もいなかった。
トイレからの戻り際だった。廊下の曲がり角で話し声が聞こえた。
「冗談のつもりなのに、な、あいつ」
「ちょっと、やり過ぎたんじゃない?」
「具合でも悪かったんじゃない?」
「あれじゃあ、人数合わせにもならないよ」
「何で連れて来たの?」
「笑えただろう」
言わずもがな、それが誰のことを指し示しているのかは明白だった。なぜ、自分が誘われたのか、この期に及んでようやく理解できた。その場で、じっと息を殺してやり過ごす。テーブルに戻ると汗が吹き出して止まらなかった。
二軒目の話題が出たところで頭を下げ、その場を後にした。
「お前はもう、帰れ」それが暗黙の了解だということは重々、承知していた。
自分はここにいてはいけないのだろう。
居酒屋の階段を下りたところで、慌てた様子の茶髪の女子に呼び止められた。
「あの、気わるくさせちゃって、ごめんね」
申し訳なさそうにして彼女は自分に謝った。意外だった。どういうつもりだろう。あまりに気の毒にでも思ったのだろうか。眉間に皺を寄せていた彼女も、今は目を細め、自分に気を遣っているようだ。彼女にも良心が存在していた。
ここで、こうしている姿が、本来の彼女の姿なのだろうか。それとも、杉田さんと恋仲になりつつある慢心の彼女の、裏返しの厚意のようなものなのか。自分にはもう、よく分からなかった。
いづれにせよ、気に留めて引き留めに来た訳ではなかった。今さら、二次会に誘われるようなことはなかった。わかり切った結果であった。
深く、一礼をし、そうしてその場を去ろうとしたときだった。
「皆んな、その病気のこと、もう何とも思ってないからね」
彼女は、さも、さも、当たり前かのように、さらりと、そう言ってのけた。あまりにも当たりまえ過ぎて、堂々とし過ぎていて、呆気に取られてしまった。慰めのつもりなのだろう。本気でそう思って、口にしたのだ。悪意など感じられなかった。
最後の最後に、言われてしまったけれども、却って、彼女のその無自覚さを羨ましく思った。自分も本当は彼女のように自己中心的でありたかった。そうすれば、どれだけ人生は楽しいことだろうか。
人の目なんか気にせずに、その、厚かましさで毎日を生きてゆきたかった。
ここにいるのです。何とも思っている人間がここにいるのです。四六時中、何とも思っているのです。何とも思わない訳にはいかないのです。だから、何とも思うしかないのです。
この気持ち、わかってもらえますか。
そう言えない自分は、やはり、心の病気なのだ。
これ見よがしに、しおらしい顔でいる彼女へと自分は愛想笑いを返し、そして、家路へと就いた。合コンは終わった。途中退席と言わせては貰えないだろうか。
駅までの道程を一人で歩く。全然、酔っていない。軒並み、飲食店には、詰め込んだようにして人が溢れている。ネオンの装飾が目に眩しい。まだまだ、帰るには早すぎる時間だった。
あの「夢」を思い出す。いつも考えていた。未だ自分はその夢に囚われていた。
橋のドラキュラ男が耳元で囁いた。
「分相応でございましたか」
「うん、分相応だった」
「その言葉の持つ意味を理解されましたか」
「うん、思い知った」
「もう、現れないで欲しい」
「それは、貴方様次第でございます」
「ところで、お前は誰なんだ」
夢に翻弄されている。
実家の家を飛び出してまで、自分はこの地に何をしに来たのだろう。生まれ変わるはずではなかったのか。師走の、凍える六畳で奮い立った、あの決意と覚悟はまやかしだったのだろうか。自分は未だ、踠きの渦の中にいる。
その日は大型連休の初日だった。桜は散ってしまったけれど、路面が、宵を差す街灯が、信号灯が、坂の向こうに側に覗かせる喧騒が、意味を持って、春の気配を放つ夜のとばりに落ちている。間違いなく心は浮き立つ、その日なのに、それなのに、胸は苦しくなる一方だった。
自分はこれから、どこへ向かえば良いのだろうか。
再び、涙が垂れた。
困ったものだ。今日の自分は泣いてばかりである。勘弁して欲しい。困ったものだ。困ったものだ、あぁ、困ったものだ……
ちくしょう、誰もが、すらすら、喋れるものだと思うなよ。
「自分は病気ではない。病気などではない。病気とか言うな。病気だなんて、思うなよ」
「自分は……」
「自分はっ」
「病気なんかでは!ないっ!!」
心の叫びが、ビルの隙間にこだまする。道行くサラリーマンが飛び跳ねる。涙が垂れる。頬に垂れる。垂れて、垂れて。
そして自分はうずくまる。
部屋に帰ると、とうとう、あの恐ろしい「発作」に見舞われた。
下駄口で吐瀉し、そのまま震える足を引き摺り、トイレへとなだれ込んだ。頭を便器に突っ込む。鳴咽と胃液と、跳ねっ返りに、顔を、びちゃびちゃにさせながら、まだ色鮮やかな原型を留める吐瀉物を前に、自分は気を失った。
目を覚ましたのはもうすぐ夜が明けようとする頃だった。吸えた匂いと辺り一面、飛び散った飛沫の跡。そして夕べの記憶。全てが折り重なるようにして再び現実を突きつけた。夢ではなかった。それこそ夢であったらよかった。
横たわる視線の先で、思い出のイギリス製作業靴が嘔吐にまみれて悪臭を放っていた。
身体に力が入らずに、床に突っ伏したまま朝を迎えた。このまま、顔をべったりとつけていれば、そのまま自分は地中に吸い込まれそうな気がした。自分のような人間など、このまま深く深く沈んで、消えて亡くなってしまえばよかった。自分が朽ちるには、そこは相応しい場所に思えた。
できることならば、このままそっと、消え埋もりたかった。
合コンに誘われたその日の晩から三度、続けて同じ夢を見た。
ところで、その「夢」にはまだ、続き、があった。
どのくらい走ったかもわからない。息を切らし膝に手を当て、そして顔を上げるとそこにはなんとあの小学生の「遠藤くん」が立っていた。むっ、と口を結んで機嫌の悪い、もの凄く厭そうな顔でこちらを睨みつけていた。
「遠藤くん!」
なぜか、その声は言葉とならなかった。そして愕然とした。本来、そこについていなければならないその「口」が顔から剥がれて地面に落っこちているのだ。慌てふためき、両手を広げてその「口」を拾おうとする。ところが滑ってこぼれて捕まえることが出来ずにいると、そうこうしているうちに遠藤くんがふと、もう眼前に迫っていた。
遠藤くんの足が力士の四股のように高く舞い上がる。そして次の瞬間、その勢いのまま自分の「口」を踏み潰した。
ぐちゃっっっ………
そこで夢は途切れた。
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