第二話 アコースティックと先輩


 綿毛のようにやわらかい陽射しがが若芽を育む仲春の日和。その日、初めて手に入れた月給で六畳一間の新居にカーテンを取り付けた。独居房かのように寂しかった部屋に幾らばかりかの彩りが生まれる。

 アイロン台と見間違えそうな三本脚の古びたちゃぶ台と大きく亀裂の入ったタモの木の収納棚。底のすり減った片手鍋。ぬるい風しか噴き出さないドライヤー。秒針の鈍い壁掛け時計。炊飯の途中で電源が落ちるジャー。生活に必要な最低限のものを雑貨店の大特価中古品コーナーで買い揃えた。中古とは名ばかりで、ほぼ、廃品に近い。

 誰かの使い古して、要らなくなったものたちを自分は拾い集める。新たに購入したカーテンはもちろんそのうちの一つだった。良く見てみると漂白と油染みの跡が不気味な模様を作り出している。

 テレビもCDラジカセも暖房器具もないその暮らしを不便だとは思わなかった。貧しさも気にはならなかった。自分で決めた道なのだ。責任を持って進もう。その先で何かが起こるかもしれない。毎朝、そう強く、願っていた。

 それがたとえ、掬ってもこぼれ落ちるような希望だとしても、そこには何一つ残されていない訳ではない。「無」ではないはずだ。

 開いた手のひらで証明したい。掴んだものがあることを。

 惨めな過去との訣別を心に誓う。

「大丈夫、自分はやれる」


 色落ちしたカーテンが風に靡き、楽しげに揺れている。

 新しい生活を始めて数ヶ月が過ぎようとしていた。


 清掃の仕事は体力と丁寧さを要求された。愚直にそれをやっていれば、自分の吃音もさほど気にはされなかった。周囲の人間たちは皆、大人だった。自分のような立場を持った人間とこれまでにも関わってきたのだろう。仕事を真面目に熟す。それで彼らは何も問題はなかった。ただ黙々と手と体を動かし、気づけば昼になり、そして定時を迎えていた。

 面接では「詰まる」ことを恐れて、履歴書をとにかく充実させた。志望動機の欄も自己PRの項目欄も、びっしりと文字で埋め尽くした。質問に答える自分を想像する。苦虫を噛み潰したかのような相手の顔を思うと緊張のあまりペンを持つ手も震えた。

 何度、書き直しても、その枠をはみ出してしまう。勢いは止まらなかった。

 面接はなんともあっけないものだった。寡黙な社長は老眼鏡でじっと凝視するも、しばらくもすると顔をこちらに上げ、いつから働けるのかと尋ねられたところであっさりと終了した。履歴書を書き終えるよりはるかに短かった。文字に込めた想いが伝わったのか、赤面する自分に何か感じ入ったのか、それともただ面倒なだけだったのか。いずれにせよ醜態を晒さずに済んだ。この人の下でだったならば、なんとかやっていける。漠然とそんな気がした。


 始発のバスに乗り、誰よりも早く会社の門をくぐった。

 用務室へと向かいそこで一時間ほどかけて用具の手入れをする。少しでも早く馴染めるようにと始めた活動だ。一方で、気安く人にものを訊けない自分にとって、使ったことのない道具や機械類、それに見たこともない洗剤や液体の数々、それらを頭に叩き込む、貴重な時間でもあった。

 でしゃばった真似をしているかと不安はもちろんあった。けれども、職場の人たちは皆、その様子を物珍しそうに見ていたので以後、新入りの仕事として認められたような気がした。まだ朝靄の立ち込める早朝の、その一室でただひたすら目の前の商売道具を磨き続けた。


 職場の雰囲気、その様子も驚くほど、かつての自分の知る学生たちのものと変わりはしなかった。皆が殺伐と仕事をしているかと思いきや、休憩時間になると本性を表すかのようにして、好んで下世話な噺に興じていた。

 お気に入りの風俗嬢とのプレイ。別れた男の性癖。ナンパした女が実は男だった。昨日行ったコンパ。そこで出会った巨乳の受付嬢。そのままお持ち帰りした。

 遠目に聞いているこちらが一人で勝手に恥ずかしい。ことを想像するだけでのぼせたように顔が熱くなる。自分のペニスでさえ、ろくに扱えないと言うのに、ここの人たちは惜し気もなく性事情を曝露し合っている。しかも、自慢げにだ。余裕を持って堂々と楽しんでいる。なんて活き活きとした顔をしているのだろう。

 恥も外聞も、デリカシーも一切関係ない。むしろ、気にしていたら、ここの一員は務まらない。頼もしい職場である。おぞましくも素敵なこの人たちの輪に、一日も早く馴染めるようになりたい。


「なぁ、今週の土曜、合コンあるんだけど空いてるか?」


 そう言って、声を掛けてきたのは先輩の杉田さんだった。大型連休を目前に控えた日のことである。思わず背後を振り返る。だって自分の訳がない。けれどもそこには誰もいない。まさか、自分だろうか。いや、誰かと勘違いしてるに違いない。だとすると誰であろうか。そんなことを考えていると、前から声が飛んできた。

「セ、キ、ヤ、く、ん。聞いてる?なんか言えよ」

「ははっ、は、はっ、はいっ?」

 まさかのまさかである。自分であった。


 調子がよくて適当なことばかりを言う杉田さん。彼は職場の人気者だった。変なあだ名を人につけたり、わざとらしく大げさに毒を吐いて見せたり、輪の真ん中に立っていつも同僚たちを楽しませていた。休憩時間に、帰りの更衣室で、その姿をよく見かけた。

 そんな杉田さんが「合コン」を、しかも、よりにもよって、どうして自分なんかに。意味がわからない。さっぱり理由がわからない。あんぐりと開いた口が塞がらない。

「自分はもの言えぬ案山子なのです。誘う相手を間違えています」

 心の声が込み上げる。何度も言うようだけれど自分は案山子だ。合コンはあまりにも遠すぎる。案山子は動かない。微動だにしない。夜の街へは繰り出さない。

 それでも正直に言うと、嬉しかった。人気者に声をかけられた。自分の中にも「誘われる」という要素が辛うじて存在していたのだ。ささやかでも「前進」の可能性が残されている。そう思うとまた、胸の中にも別の気持ちが溢れた。むなしい期待に終わるかもしれない。でも、できないことばかりを考えるのは止そう。知らずと前向きに捉えている自分がいた。

 気迷ったつもりはなかったけれども、心は大きくなっていたのかもしれない。

「いっ、いっ、いっ、いい、行かせてくっ、くっ、くださいっ」

 自分はその申し出をありがたく受け入れた。


 その日、部屋に帰ると押し入れの奥から厚手のボール箱を取り出した。

 Dr.Martensと刻印された、その箱の中身のものを大学生活で半年間だけ履いていたことがあった。結局、自分には似つかわしくないことが良くわかり、そっと箱に戻し仕舞っておいた。

 そのイギリス発祥のエイトフォールブーツを思い切って、もう一度、履いてみようと思う。来たるべくその日に擦り切れたスニーカーでは格好がつかないし、覚悟を示さなければ、とも思った。丁寧に磨き、そして、下駄口に揃えた。

 思い入れのある品だった。

 自分にとってはとても高価な買い物で、とある横丁の、日中でも薄暗い、路地を折れた先の専門店でそれを見つけた。モヒカンのカップルに、革ジャンのおじさん。「誠」のタトゥーを上腕に彫り込んだ外国人。唇にピアスを突き刺した若い男性店員に、最低でも一年は履き続けないと足に馴染まないと、教えられた。そこはまた、初めて自分が目にする世界でもあった。

 今でこそ流行り目的で好まれる、そのゴム底シューズも、もとは労働者の為に作られた作業靴だったという。労働者階級としての誇りを貫こうとする当時の若者たちの間で、その作業用シューズは社会への不満、反逆の精神を象徴するものとして用いられるようになった。牧場労働者が使うランチコート。炭鉱夫の服であるドンキージャケット。土木作業者が使うサスペンダー。そして、ドクター マーチンのブーツ。それらは全て、時代が生んだサブカルチャーとしての意味合いを含むものであった。ピアスの店員に、そうも教えられた。

 昔の人たちが信念を持って、そのブーツを履いていたことを知り、身が引き締まる思いだった。見た目に似合わず、饒舌だった店員もまた、その仕事に誇りを持っているように見えた。

「その痛々しいピアスも、信念なのでしょうか」もちろん、そんなことは訊けやしなかった。


 そのブーツを履くに至るきっかけとなる出会いがあった。その人は案山子と化した自分に興味を示してくれた。そして、手を差し伸べてくれた。思いもよらないことだった。

 一緒に歩いた大学の広大なキャンパスを思い出す。中庭の車座。サークル部室の喧騒。午後三時の学生食堂。今を以て、そのどれ一つとして色褪せていない。記憶の中の青春の断片をいつだって再生できる。愚かな結末を招いてしまったけれど、自分が生きた証が、確かにそこには在った。


 チヒロ先輩。元気でやっていますか。


 先輩を初めて見かけたのは、第一キャンパスにある中央講堂の壇上だった。軽音サークルの新歓発表会。華奢な体にアコースティックギターを構えた先輩は大勢の新入学生の視線を集める中、臆することなく一人、堂々とそこで歌を歌っていた。

 憧れ半分、怖いもの見たさで立ち入った先で、自分は先輩のその姿に心を奪われた。


 先輩はなにやら、すらすらと流れるように、英単語を羅列していた。その曲が世界的に有名な海外のロックバンドの代表曲だということも知らないほど、また自分は音楽には疎かった。

「エアロスミス」の「ホワット イット テイクス」

 情感あふれるミディアムテンポのロックナンバー。珠玉のバラードだった。

 のちに自分は、そのバンドに密かな情熱を捧げることになる。


 講堂に歌声が響き渡る。感情を剥き出しに打ちつけるストローク。負けじと呼応する横隔膜。弾けるように歪むスタッカートに鼓膜が震える。芯の詰まったその透き通る高音は天井にも届きそうだった。

 もっと、もっと、近くで見たい。興奮を抑え切れずにたまらず、壇上へと続く階段を夢中になって駆け降りた。自分は何か凄いところに来てしまったのではないか。そう思って胸が高鳴った。


 先輩は今にもあふれ出しそうだった。

 危うさすら感じるほど、演奏にのめり込んでいる。眼前に拝む、その姿は更に凄みを増していた。

 鳥肌が立つと同時に、不意に異様な畏怖をも覚える。人の歌を聴いてこんなことになるのは初めてだった。

 先輩の演奏には「弛み」とか「遊び」といった部分が見当たらない。隙がなかった。終始、「強かった」 その場をねじ伏せるようにして、ただ、ひたすら強かった。そうして誰もがまた、身じろぎ一つせず、その歌にのめり込んでいた。自分も同様に、心を大きく揺さぶられた。

 自分を表現するってこういうことなんだ。


 茶の間のテレビを点ければやっているような歌謡ステージ。そんな、今まで自分が覗いてきた華やかな世界が一瞬で置き去りにされた。

 愛くるしいアイドルのウインク。華麗なバク宙返り。ガールズグループの脚線美。煙幕の間欠泉。絢爛豪華な山車。雨の中の演出。歌唱中に割って入る寸劇。予定調和の大団円。その全てが自分の中で陳腐に思えた。

 先輩は笑顔を見せない。楽しそうにしない。目配せしない。その目は何処かへ行ってしまっている。とても辛そうな顔をしている。そもそも、先輩は「魅せる」ことを前提に歌ってはいない。

 先輩に「遊び心」は要らない。欲しいのはギターだけ。他に何が要るだろうか。何も要らない。歌とギターがあれば、輝ける。

 壇上はもう、完全に先輩のものだった。 

 先輩は本気で自分をさらけ出そうとしていた。生半可な覚悟ではできやしない。でなければあんな歌、うたえない。

 自然と胸の中が熱い気持ちでいっぱいになった。込み上げるものを抑え切れずに、その場で一人、自分は泣いた。


 歌い終えると拍手と歓声が一斉に沸き起こり、自分も直ぐに、それに続いた。


「素敵でした。本当に素敵でした。あなたの演奏とその歌声が心に響きました」

 その場にいる誰よりも大きく手を叩き、無我夢中だった。

 涙が止まらない。ギターをかき鳴らす先輩は言葉にならないほど格好よかった。

 自分には逆立ちしたってできやしないことを先輩はやってのける。先輩の歌は人との間にある壁を打ち破る。そんな隔たりなど溶かしてしまう。そう思わせるような歌だった。

 いつもは周囲の視線ばかりを気にする自分も、そのときばかりは先輩にしか目が行かなかった。こういう場面に遭遇すると反面、余計に空しくなり落胆してしまうのに、気分は高揚していた。勇気を与えてもらえた気がする。深い感銘を呼び起こされた。心に残る歌だった。最高傑作。感動をありがとうございます。

 書籍化を祝う、帯の推薦コメントのような賛辞の言葉たちが、わぁっ、と喉元に浮上する。思わず口にしてしまいそうなほど、自分は浮かれていた。

 ここに来て良かった。本当に良かった。思い切って覗いた甲斐があった。


 しかし、間もなくして自分はその場で笑いものにされる。感慨深げだったその気持ちも途端に萎え、現実に引き戻された。

 鼻水も拭かずに馬鹿みたくそうしていたのがいけなかったのか、みっともない奴だと、一人、また一人と周囲の学生からの嘲笑を浴びた。シンバルを叩き鳴らすチンパンジーの玩具のようだと揶揄された。皆の目には酷く間抜けに映ったらしい。


「ちょっと、見てあれ」

「おいおい、変なやつがいるぞ」

「泣くなよ」

「だせぇ」


 気持ちを届けたかった。それだけだ。それのどこがいけない。チンパンジーは惜しみない賞賛の証だ。

 そう、心の中で開き直ってみせても赤面は深まる一方だった。

 笑わないで欲しい。滑稽なものか。頼むから馬鹿にしてくれるな。

 いつまで経っても何も言い返せない。

 いつだって、やり過ごすのはとても惨めなことだった。

 皆の注目が再び、先輩に移ると、自分はそっと消えるようにして講堂を抜け出した。


 そのまま潔く帰れば良いものを、一通り演目が終わっても未だ、自分は入り口の辺りををうろついていた。

 扉の陰から中の様子を覗き込み、学生が出てくると咄嗟に身を翻し、距離を取り、警戒し、同じ行動を繰り返す。その様子は、告白を見計らう男子生徒のように、落ち着きなく不審げだったに違いない。

 先輩のあの姿が忘れられないでいた。脳裏に鮮明に焼きついてどうしても離れなかった。この期に及んで、ギターを弾きたい、なんて考えている。半開きの扉の奥に伸びる入部希望者の列。スリムなシャツにタイトなジーンズ。全身黒づくめ。ジャラジャラアクセサリー。如何にも、それらしい集団の列に自分も混ざろうとしている。どうかしている。いや、どうかしていた。今度は鼻で笑われるかもしれない。

 独特の「匂い」のする彼ら彼女らは、そこに並ぶに相応しい人間だ。金や緑に髪を染めてまではるばる大学まで何をしに来たのか。その気迫が伺い知れた。一方、自分は未経験な上に、表現するとか、そういったものに対して酷く、酷く、酷く、苦手意識を持っている。行きたい気持ちはあるけれども、ここぞとばかりに臆病な自分が顔を覗かせる。

 行って良い訳がない。そもそも、ここでこうしていること自体がおかしい。わかり切っているであろう。

 憧れと現実がせめぎ合う。境界線を超えるか否か。扉の向こうの世界を前に躊躇が繰り返される。はっきりしろ。わかっている。内なる声が叫ぶ。いつまで経っても煮え切らない。

 落ちついて、冷静に考えよう。そう思い、講堂裏に移動した。心なしか、胸が重い。穏やかでとても気持ちの良い陽気なのに、自分一人だけ、じめじめと思案に暮れている。吹き曝しのそこには開花真っ盛りの染井吉野が枝を伸ばしていた。

 非常階段の手摺につかまり、深呼吸をしているときだった。不意に背後から誰かに肩をたたかれた。


「いたいた!やっと見つけたっ」


 チヒロ先輩だった。


「さっきはありがとう」

 友達同士で些細な貸し借りをする時のようなフランクさで、先輩はそう言うと、丸みの帯びた笑顔をこちらに向けた。

 突然のことに言葉を失うのはもちろんだけれども、自分のことを覚えていてくれたことに、何より驚いた。

 直ぐ目の前に、先程のスターが立っている。こうしてあらためて良く見ると、実に小柄で、栗鼠のような可愛らしい顔立ちをしている。この身体のどこに、あの凄まじい歌声を発するだけのエネルギーが内臓されているのだろう。そう思うと不思議でならなかった。自然体の彼女はこちらが拍子抜けするほど、普通の学生であった。


「入部するんでしょ?」

「えっ、えっ、いっ、いやっ、そっ、そっ、その……」

「初心者?」

「いっ、いっ、やっ、そっ、それはっはっ、はい……」

「演りたいパートとかは決めてるの?」

「いっ、いやっ、そっ、そそそっ、その、ギッギギギッギッギッ」

「ギターっ!」

「えっ、いっ、いっ、いやっ、そっ、そのっ、そっ、……はっ、は、い……」


「それじゃあ、私が教えてあげるよ!」


 すっかり先輩の調子に呑まれている。一言もまともに喋れず、考えるよりも先に答えが出てしまった。

 自分の悩みなど、そこら辺に転がっている石ころを蹴飛ばしたかのように、先輩の一存で道は開けた。


 軽音サークルで貸切にされた「つぼ八」の一角の二人席に、先輩と一緒に座った。そこで彼女は「エアロスミス」を「洋楽」というものを、そして「ロック」というものを、自分に教えてくれた。

 愛と平和のシンボルマーク。時代への抵抗。大衆の権利。自由への渇望。海の向こう側で流れるロックと言うものは時代を変える力を持っていた。夢想家のような、哲学みたいなその思想を、チヒロ先輩は真剣に熱く熱く語っていた。目の前に置かれるお通しにすら、箸をつけていない。この人はロックに夢中だ。取り憑かれている。捧げている。痺れてしまった。先輩は音楽を本気で信じていた。

 小さな島国のポップ歌謡しか知らない自分。The BeetlesのTシャツを着た彼女は遠い異国の文化をはるばる伝えにやって来た伝道師のように、神秘的でおとなびて見えた。

 過激で時に毒々しい、聴く者の心を掴んで離さない、彼女はそんなロックの世界の住人だった。


 ドラッグにセックスにアルコール。ロックに取り憑かれた者たちは一方で、その破滅的な生き方故に、若くして自ら命を絶つ者も少なくはなかった。

 享年二十七歳。ロックスターたちは突然としてこの世を去った。その短い生涯で彼らや彼女らは何を伝えたかったのだろうか。そのど派手な見た目では推し量れない心情がロックにはあるのだと知った。ロックとはそんな逸話の宝庫だった。

 鞄の中からキャンパスノートを取り出す。先輩のその熱量を衝動的に書き記した。先輩は鳩が豆鉄砲を食ったかのようにして目を丸くしている。

 遠く遠く離れた地の偉人たち。

 ジミ ヘンドリックス。ジム モリソン。カート コバーン。彼らの名を、この胸に刻もう。ペンが走った。

 インターネットなど軽々と普及されていない時代であった。「開く」より「書き残す」

 ジョッキに口をつけるひまさえ惜しかった。何より、彼女のその熱意と誠意に応える形を示したかった。こんな自分にでも人並みに接してくれることが嬉しかった。目の前の彼女こそが、自分にとって、偉人だった。

 テーブルに肘をつきながら先輩はもの珍しそうに笑っている。

「君は本当に変わってるね」

 先輩はとても優しい瞳をしている。先輩と居ると不思議な気持ちになる。


 あの演奏への感謝の気持ちをそのとき、自分は恥も顧みず、声に出して先輩に伝えた。普段の自分ならば、そんなこと絶対にしやしない。どうかしている。やはり、どうかしていた。

 気の抜けた、生ぬるい中ジョッキを一気に飲み干し、声を振り絞った。

 赤面し、酷く不恰好で聞き取れなかったかもしれない。もちろん、恐ろしく時間も掛かった。でも、それでも、届いて欲しい。あのときと同じように、自分の中のチンパンジーは必死にシンバルを叩いた。

 先輩は好奇の目を向けることなく、最後まで、話を聞いてくれた。

 この人のもとでならば、自分も何かを成し遂げることができるかもしれない。

 ロックを、やってみたい。自分もエアロスミスになりたい。それは、自ずと芽生えた気持ちだった。

 できるだろうか。

 思い切って、勇気を出して訊いてみた。


「じ、じ、じっ、自分にも、でっ、でっ、でっ、できるで、で、しょうか……」


「君にできない訳がないじゃん」


 まっすぐ迷わず、先輩はそう答えた。

 その言葉を自分は一生、忘れない。


 結局、最後まで一人、赤面し、吃る、もの言えぬ自分を先輩が気に留めることはなかった。物珍しさが勝ったのだろうか。それとも、ロックな先輩にはそんなことはおまけのアメ玉くらいに、取るに足らないものだったのかもしれない。

 壁に立て掛けたボロボロの皮のソフトケースに入ったヤマハのギター。中学三年生の時に買ってもらったその大切な愛機を変わらず今でも持ち歩いているらしい。先輩の音楽に対する愛情とその人間性がひしひしと伝わってきた。

 人との距離を縮めることの出来ないままでいる自分の隣に先輩は座り続けてくれた。飽きることなくそうしてくれたことを自分は心の底から感謝した。


 しばらくして先輩とは恋人の関係になった。先輩もまた、あのとき自分が流した涙のことが忘れられないと言ってくれた。

 昼間の喧騒が嘘かのように静まり返った、月明かりの照らす真夜中のサークル部室。そこで、唇を重ねた。幻想的な夜だった。そして、そこから青春が始まった。

 先輩は、ギターはもちろんのこと、それ以外にもたくさんのことを教えてくれた。先輩に出会っていなければ、一緒でなければ、経験できなかったものばかりだった。

 講義のサボり方。学食の裏メニュー。賑やかなそこでの過ごし方。近くの美味しい町中華。風の心地よい昼寝スポット。レコード盤の針の落とし方。ロンドンパンクが流れるCDショップ。ギネスビールの置いてある地下の店。お茶の水探訪。ライブ小屋巡り。ブーツの履き方。数え上げたら際限がない。

 そしてセックスも。

 けれども、それは叶わなかった。

 ロックと性愛は切っても切れぬ縁にあった。陽気で心優しいチヒロ先輩にも譲れないものがあった。

 あのとき、心煩うより先に、もっと他にやるべきことがあった。先輩はそれを望んでいた。きっと、そういうことを先輩は言いたかったんだと思う。先輩は腕を広げて待っていてくれた。

 自信がなかった。それが自分にできる精一杯だった。ごめんなさい。先輩。

 和製ジャニス ジョプリン。オノ ヨーコ。自分にその相手は務まらなかった。ジョン レノンにはなれなかった。


 生まれて初めてやってきた青春は、そうして静かに幕を下ろした。


 先輩が紡いだ、ロックバラードは、今でも大切な曲であり続けている。自分の中に淡い輝きを放ち続ける。  

 あのとき流した涙のように、心を震わす涙を、はたしてこれから先、自分は流すことがあるだろうか。


( おまえを忘れるためには、どうしたらいいか教えてくれ )


 彼女は声高らかに、そう歌っていた。 




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